数十年後に告白した少年時代の殺人
未解決事件、事故として処理されたがモヤモヤ感が拭えないなどネット上では様々な事件、事故が取り上げられていて一つのカテゴリーとして関心を集めている。
ここでは第三者の『憶測』は置いておいて実際に数十年後に「過去に自分が殺した」と詳細を告白した二人の男の事例を取り上げる。
ネットなどない時代である。解決済み(とされたり)、時効が成立して捜査は打ちきり、真実は不明だが二人の男の話が事実なら共に中学生の時の殺人という事になる。
告白時の新聞記事から過去の新聞を調査し、判明した分を記事にした。
高橋正彦(死刑囚)のケース
高橋正彦については当サイトの【少年時代に殺人前科前歴のある死刑囚】で取り上げている。
16歳の時に青森で少女を殺害し屋根裏に遺体を遺棄し懲役15年確定、出所後もカッとなるとすぐに相手を刃物で切りつけ遺体の一部を切り刻むなど東京の切り裂きジャックとも名付けられた男である。
昭和44年11月に控訴を取り下げて死刑が確定した翌年の12月に東京拘置所から知人宛に過去の殺人を告白した手記を送った。
これを新聞社が取り上げて大騒ぎになった。昭和45年12月10日の読売新聞にその記事がある。
『殺人死刑囚、さらに三件"告白"』の見出し
昭和28年と29年に北海道旭川市にて一件の変死と二件の殺人(致死)を真犯人は自分と名乗り出たというのだ。
第一の事件は昭和28年4月18日未明に義父の住込み先の旅館で泥酔した三十代の女中を入浴中に顔を湯船につけて殺害。
この女中はアルコール中毒で高橋によく酒を買いに行かせ、高橋の居室で騒いだりしたために日頃からよく思っておらず殺意を感じて殺害を決行。
その際に「なんともいえない快感があった」と高橋は告白している。高橋が中学1年生の時である。
この件は泥酔して溺れた事故死として処理された。
国会図書館にはこの年の北海道新聞旭川版はないため、札幌市内版を調査したが記事は見当たらず、朝日や読売の北海道版もなかった。
第二の事件は昭和29年5月4日午前10時頃に旭川市内の小学校のトイレで一年生の少女が血を流して亡くなっているのが発見された。同級生による過失致死として決着がついていたが、この事件は北海道新聞旭川版昭和29年5月5日に記事があった。
記事によると「捜査の結果、犯人の侵入口やその他遺留品なども見当たらず、同時刻に他のクラスの生徒もトイレに行っており、この生徒が工作用のハサミで何かの"はずみ"で刺してしまったと考えられる」となっている。
見出しには『少女、学校で謎の死』となっていて、記事内では当時の学校は誰でも出入り出来ることが問題の一つとなっているが…
第三の事件は同年の10月24日頃に同じ旭川市内の映画館で女児(5)が婦人トイレで刃渡り10センチの果物ナイフで首を刺されて亡くなった事件。
映画のシーンに興奮しての犯行で、後日精神疾患のある少年が犯人として捕まった。
この事件も昭和29年10月24日の北海道新聞旭川版に記事があった。
事件日は正確には10月23日になる。『白昼の映画館便所にて女児頸を刺さる』の見出し。
「青い服のおじちゃん」の言葉を残して女児は亡くなったが、翌日の記事によると旭川に住む性犯罪前科者、ヒロポン中毒者、虞犯少年など30人余りが取り調べられて中学生のHが鑑定とある。また映画館のトイレは薄暗く死角が多い事が問題とする事も記事に書かれていた。
同月31日の記事では精神分裂病の男が「俺が犯人だ」と名乗り出て取り調べられたが、容疑なしで後日釈放されている。また40数日後には男子小学生が「自分が持っていたナイフでやった」と名乗り出て事件は幕を閉じている。
【週刊朝日54.12.19】
以上が高橋が告白した件を調査した結果だが、当時はネットなど当然なければ北海道の地域版のローカルな事件の記事であることから、高橋がそれらの記事を見て「自分がやった」虚言してる可能性は低いのではないか?
第三の事件から16年後に三件の殺人を告白したが、その後高橋は死刑執行され、当時の殺人の時効は15年だったために改めて捜査が行われることもなく真実は闇の中である。
進藤亘悦(無期懲役囚)のケース
住居侵入、強盗、窃盗、傷害、強盗殺人、現住建造物等放火、銃砲刀剣類所持等取締法違反、強盗強姦、器物損壊…
昭和53年4月に連続強盗事件で逮捕、取り調べを受けていた進藤は合わせて37件もの事件を自供し、うち24件で起訴された。一番重い強盗殺人は同年2月23日に横浜市金沢区で老女を殺害して金品を奪い火を放った事件。
捜査員の「仏さんの冥福を祈ってやれ」の言葉に全面自供となった。
進藤は人生の大半を犯罪に手を染め歩み続けて、少年院3回、強盗致傷や窃盗での服役が複数あり15歳以降は塀の中での暮らしが30年以上という滅多にお目にかかれない極悪人。
進藤は女物の着物に執着があり、金沢区の強盗殺人、放火も被害者宅に侵入し被害者の着物を着て鏡前でうっとりしていた所を見られて、カッとなりどうにでもなれと日本刀で左胸を突き刺した。
昭和61年3月25日、横浜地裁で無期懲役(求刑死刑)判決を控訴したが6月4日に控訴取下げで刑が確定している。
この進藤が自供した事件の中で大騒ぎになったのは「32年前の幼女の事故死は自分が殺害した」という事件である。
【読売神奈川83.2.24】【読売神奈川83.4.10】
【読売神奈川83.4.23】【読売神奈川83.7.31】
【読売神奈川83.9.13】【読売神奈川86.3.25夕】
昭和58年8月28日の読売神奈川版
『惨劇の真実、32年ぶりに』の見出し
その記事によると昭和26年10月8日に大田区の雑色駅の近くに住むTさんの三歳の娘Sちゃんを当時14歳だった進藤が連れ去り殺害したというのだ。
取り調べで「殺した女の子が夢枕に立って寝られない」と話し、進藤の母親に事情を聞いたところ「薄々、もしかしたらと感じていた」「命日には線香を手向けていた」とあるが、昭和26年10月13日の読売新聞に当時の記事が見つかった。
『幼女を誘拐殺す?』の見出し
Sちゃんは防空壕跡の池で溺れて亡くなっているのが発見され、当時近所の幼稚園の子供が少年が泣いているSちゃんらしい子の手をひいて歩いてるのを見たとの話もあるが、現場はSちゃん一人で歩いて行ける場所ではないのに事故死として処理された。
以上が二人の男が16年後と32年後に告白した殺人事件で、調査で見つかった3つの事件の当時の記事ではどれも不審な死として取り上げられている。
告白した殺人が事実ならば奇しくも共に14歳の時の犯行となるが、「まさか中学生が…」という先入観で捜査線上から外れたなら他にも同様のケースがある可能性や、それにより未解決になっている事件があることを否定できないと感じた。
※今後も調査を続けて何か判明すれば加筆します。