碧志摩メグという戦争。
萌えと「表現の自由」に関する一連のツイートを拝見しました。
植村氏は、オープンレター騒動についても「要求をしただけ」と捉えていらしゃるのでしょうか。
表現物などを「燃やす」とは、対象を悪意ある存在・社会悪と認定し排除する行為だと僕は考えています。ツイート群の最初に挙げられている碧志摩メグの件でも、「各国首脳にこんなキャラがあるのを知られるのは恥ずかしい」という意見などが寄せられたそうです。
いわゆる乳袋や生足の露出など、性的要素の表現を含んだこのキャラを「恥ずかしい」と捉えるのは普通の感性だと思われます。エッチだなあと僕も思いますし、薄い本があってもおかしくない。ただ、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」よりはエッチさは薄いとも思います。
ところで感性って、それが"普通"なら同様に感じろ、恥ずかしがれ押入れに隠せと他人に押し付けても良いものでしょうか。
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引用させていただいた三名の議論について、僕は「表現の自由を信奉すると陥る沼だなあ」という所感を抱きました。
そも、全ての表現は権力であり暴力であると考えれば、この議論は権力や暴力の行使の範囲を規定する一点に集約できます。つまり、碧志摩メグというキャラは自身が内包する"暴力性"により、存在する範囲をより限定されるべきか否か、です。
これを「恥ずかしい」と言う感性を基準に、この程度の露出、この程度の性的表現を広告物に出すな、と要求すること自体、言論弾圧に等しいですね。
植村氏は、発言者が一定の権力を保持していなければそれに該当しないと考えているのではと推測しますが、表現はその全てが権力であり暴力ですので、女性が「自尊心を傷つけられた」と訴えることも暴力に他ならない。それを、受け手である僕たちが受け入れるか否か、だけの話です。
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他人の暴力(表現)を受け入れる際、僕たちは理由を求めます。受け入れた方が、都合がいい・外聞がいい・心地いい・道理がいい……などの、様々な理由が見つかれば、暴力(表現)は問題視されません。
また、表現は、それが権力であり暴力である以上、常に党派性を帯びています。どんな人物の、どのような表現であっても必ず「お前は私の派閥に属するか?」と相手に問うている。相手の表現を受け入れるということは、その党派に属することにも等しいのです。
「正義」や「公共性」という、世間で最大公約数の理由を持つ暴力(表現)は、表現と権力の関係におけるハッキングにも等しい。それらを訴えれば、大抵の暴力(表現)は許されてしまいます。
それらが横暴を振るい、誰からも許されない表現やその主張者が社会の隅に押しやられ続けるからこそ、JOKERが生まれるのではないでしょうか。
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相手の表現を許容できない、と表現することは権力闘争の一環ですので問題ない。しかし、その表現や表現者をある場から排除しろ・抹殺しろと訴えた時点で、あなたは暴力の行使により相手に戦争を仕掛けたのも同然だという自覚は必要でしょう。
戦争であれば、後は暴力(表現)の強さで勝負が決まります。
自分の暴力は良いが相手の暴力は御免被るというのは通りません。
そういう世界をお望みであらば。( ˘ω˘ )
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