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自己紹介

昭和の終わり頃 東京・渋谷に 生まれる

ピアノを3歳で習い始めるが、あまりにヘタクソでクビになる

幼稚園の発表会では美川憲一風衣装で孔雀ダンスを舞う

「大きな大きなキノコのおうち」(紙芝居)を著し、幼稚園でヒットする

学芸会では、少年アシベの曲にダンスを振り付けし踊る

入学した児童の80%が六年以内に引っ越していく(同数の児童が世界中から転入してくる)小学校に通う

帰国子女と触れあう。私も親の都合でアメリカ帰りになりたかったが、その夢が叶うことはなかった♨️

ハワイで迷子になる。その時に宇宙人がなりすました家族と取り替えられたという妄想をかなり大きくなるまで持っていた。

国際文化委員会副委員長。チームで世界の子供達の生活や挨拶を調べ、台本を書き、校内放送することを一年間続け、世界の文化に興味を持つ

漫画クラブの部長

バイオリンを学校のオーケストラで弾く。TBSこども音楽コンクール

中学では厨2病を患う

美術部副部長をクビになる

大きい窓の家へ転居

画家の西大記先生にデッサンと水彩画を習う

芸術高校美術科で日本画を専攻。日本画やデッサンを学ぶかたわら、よく遊ぶ

どんぐりを拾って食べ、隣の機動隊から臼と杵を借りてきて餅をついて食べ、日本画室でところてんを食べ、琵琶をもいで食べ、豚汁を担任に煮てもらって食べ、理科部でスモークチーズを作って食べる高校生活

酒屋でバイトしたり、友達と東北へ旅行したり。リヤカーを引いて東京大学の敷地内の森で枝を拾い、学校に持って帰って編む、という夏を過ごしたり。

このころ廃車になった父のボルボは、私が壊してしまったんだという妄想をかなり後年まで持っていた。

S区のはしから内側へ転居

父さんが倒産する

川沿いの橋のたもとの家へ転居

ブルーピリオドっぽい大学しか受けなかったら、受からなかった

地元オーケストラのコンサートが終わり、打ち上げで朝まで宴会したその足で、田舎の祖父の家へ飛び、住み着く

日本史や英語は独学で学び、苦手だった数学は天才家庭教師・愛ちゃんに学ぶ。

道後温泉と愛媛県民文化会館でパーティーコンパニオンやウェイトレスとして働き、知事や有名人にお茶を出す日々(時給800円)

五月、ジジババについてスペイン・ポルトガルに旅行する。コルドバの土産屋を描いた絵が、毎日新聞社のイラストコンテストで大賞をとる。

東京へ帰り、すいどーばた美術学院へ通う浪人生活 田口先生のクラス

大学入試センター試験の時に母手術。弟とボロ家で二人で過ごす。

東京から茨城へ進学のため転居。

大学で日本画を専攻
和紙に墨で百合やら鳥やらを描く日々。

山小屋のバイトで稼ぎ、初めて親にご飯をおごる。兄が行方不明になる。

友達とヨーロッパをバックパッカー+ユーレイルパスで旅する。ポルトガル・リスボンーシントラージェロニモス修道院ースペイン・マドリッドーバレンシアーバルセロナーフランス・パリ。スリとかパスポートとか航空チケットとかキセル疑いとかで、警察やカスタマーセンターにお世話になった。旅の指差し会話帳で乗り切る。

就活っていつやるの?とか言ってるうちに卒業。同大学院へ進学

留学生のチューター。論文を翻訳するのを手伝い、中国語に親しむ。

「大奥」と呼ばれる小さなアトリエで先輩たちと絵を描く日々。

在学中は、富士山の山小屋、オークラフロンティアホテル、中華料理屋、デパートのさびれたゲーセン、美術モデルなど

母と叔母と香港に行く。漢方薬を買う姉妹を眺める。

なんかを見かねた教授に在学中、働き口を紹介してもらう。ただ家から職場の某中学校まで、三県またいで二時間半以上かかった。修了研究も重なり、瀕死。就活できず(せず)

茨城の風呂なし学生寮から恵比寿ガーデンプレイス近くの風呂なしアパートへ転居

どさくさに紛れて松ちゃんとのんちゃんとソウルへ行く。辛かった。

ウェスティンホテルや明治乳業で一瞬働く
ユニフォームがディズニーシーのキャストみたいだった

父が死ぬ。
知らせを受けたのは、油絵のモデルとして露出の高いワンピースを着て、足がつりそうなポーズをキメていた時だった。

朝は美術講師、
夕方は東京タワーの鏡の迷宮、
夜は彫刻のモデルなどをして暮らす。

隣の女とパリへ行く

3月のある日 、中学生に美術を教えている時に、地震が起こる

揺れが来たときはちょうど溶けた金属をお玉ですくって、メダルを鋳造していた。ばっしゃんばっしゃんこぼれて床が焦げる。

職場のデスクの上方からミロのヴィーナスが降ってきて、こなごなに砕け散る

その後も、微妙に地面が震える日々。

同年の夏にいった台湾で、帰国の飛行機に乗り遅れる。それまでアテンドしてくれた台湾人の友達とはそこで別れ、一人行動しながら台湾に数日留まることに。中国語もしゃべれないのに新幹線に一人で乗り、座席のシステムも訳分からず、他の客にわめかれたりして立ち乗りになり、お腹が空いても何も買えず、水もビビって買えず、心細くて新幹線の中で立って泣く。

but中国語圏に住みたくなる

上海に脱出。二年間。

プラタナスの木漏れ日と百年前の古民家とお洒落なカフェ。上海の街は散歩に最適。インスタ映え。(SNSの類は金盾のお陰で外では見られなかったけど)

その秋

反日デモが激化し、職場への出入りのバスにライフル銃を構えた迷彩服の用心棒が乗るような事態になる

空気の汚染がひどくて咳が止まらない日々

中国語と水墨画を習うが、上達しないのでクビになる。

前回の一年四ヶ月後に、上海から一人で遊びに行った台湾で気付く。旅に支障ない程度の中国語はいつの間にか身に付いていた。迷子になっても道を聞ける、ぼったくられそうになったら値切れる、知らない人に話しかけて小銭を崩してもらう、くらいは出来るようになった。

憧れのチベットへ行く。高山病で瀕死。四日間で二回病院送りになる。根性でポタラ宮には詣る。ホテルの自分のベッド横に、おかっぱのチベット族の娘が座っているのに気付き、金縛りに合いそうになりながら、布団のなかでちーちゃんにLINEする⇒頭おかしい奴認定。


中国最大瀑布の黄果樹へ行くが、春節の大晦日に熱が出て野戦病院行きとなる。尻に注射を打たれる。少数民族の集落を訪ねる。銀のネックレスを買う。

3月。この世とおさらばするってこんな感覚かな?と、いう錯覚を持ち、あと数日と指折り数えながら、やり残したことをエンジョイし(全然やりきれなかった。あのときあのカフェ行きたかった~!等と悔しがる夢を未だに見るくらい。)、荷物を処分し、土産を買い、残る同僚にプレゼントを渡し、感謝を伝え、身辺整理して、無事帰国

音楽家の叔父叔母についてウィーン、パリへ行く。シュテファン寺院を見学したり、従兄弟と旦那とウィーンの1€ショップを冷やかしたり、謎のピンクのコーヒー屋でお茶したり。有名なカフェで有名なケーキを食べたり、質屋に行ったり。すごく壮麗な美術館も見たけれど、重々しすぎて柱と壁の色しか覚えていない(黒白ベージュの大理石だった)。

カフェを開く
と同時に中学に勤める
と同時に結婚する

朝は美術教師!夜はカフェ!その名はキャッツ・アイ!という日々。

客が来なくてカフェを閉める

絵画教室をはじめる

コロナで生徒が来ない

どーすんのこれ

あ、行方不明の兄はYouTuberとして発見された

2021年時点で転居回数は20回。

そういえば上海の大気汚染で患ったせきぜんそく。コロナの自粛期間中に自然治癒する。  

今に至る


※上海の自宅(ウソ)



※熱海の別荘にて(ウソです。尾形光琳の武家屋敷でした)

2021年からはトヨディがホームページを作ってくれたおかげもあり、絵画教室の生徒が増えている。








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