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【自己紹介】吉川翔梧と申します。
みなさん、Labas(ラバス)!
ラバスとはリトアニアのあいさつです(笑)
最初なので自己紹介をさせてください🙇♂️
プロフィール
改めまして名前は「吉川翔梧(よしかわしょうご)」といいます。
平成7年の1995年4月8日生まれ、千葉県出身の26歳です。
今は北ヨーロッパにあるリトアニア🇱🇹という国で、プロサッカー選手として活動しています。
現在、サッカーで這い上がり中です!
経歴
2014年 帯広北高等学校(北海道)卒業
2014〜2015年 ツエーゲン金沢
2016〜2018年 ヴァンラーレ八戸
2019年 エルチムFC(モンゴル🇲🇳1部)
2020〜現在 FKバンガ(リトアニア🇱🇹1部)
幼稚園〜小学生時代
夢はミランの10番を背負うこと(小学校の卒業式で全校生徒の前で発表した夢)
サッカーを始めたのは幼稚園の年中のとき
幼馴染の友達がサッカーをはじめたのをきっかけに、自分もサッカーをはじめました。
もともと運動能力は良い方だったので、小学5年生くらいまではチームのエース的存在でした。
ドリブルすればみんな抜けるし、サッカーが楽しくて楽しくて仕方がなかったです。
暗黒の中学生時代
ただ、そんな順調な時期が一気に終わったのが中学に上がってから。
周りがどんどん体が大きくなっていく中で、自分は全然身長も伸びませんでした。
今まで通用していたものが全く通用しなくなり、そこで一気にベンチメンバーになりました。
「絶対にプロになって活躍したい!」と意気込んでいた自分にとって、そこからの中学3年間はまさに地獄そのものでした。
今まで上手かった分、周りからの目は相当に厳しいものでした。
これは当事者にしかわからないところだと思います。
「あいつがでたら負ける」
「下手になってない?」
「お前がなんでサッカーやってるのかわからない」
そんなようなことを毎日言われ続けていました。
「悔しい」
「なんて俺はダメなやつなんだ」
「なんで俺は生きてるのか」
そんなことを思いながら家の風呂で1人泣く毎日。
ストレスで胃が痛いのは当たり前で、練習の時間が近づくにつれて吐き気が出てくるくらい追い詰められてました。
今思えば、なんでサッカーを続けられていたのかが不思議なくらい。
たぶんその時から、心の奥底で「絶対に見返してやる」という気持ちがあったのだと思います。
周りの人からしたら覚えてもない些細なことかもしれないけれど、当時の僕にとってはこれほど心をエグられるものはありませんでした。
そして中学3年生の最後の大会、3年生は9人しかいない中で僕はベンチでした。
一個下の人が出ているのを、ベンチから見ているしかない虚しさ。悔しさ。
いまでもその時の感情を忘れたことはありません。
そんなこんなで、これが自分にとって最も挫折した時期だったと思います。
ただ、やはり家族や気の合う数少ない仲間達の支えがあったからこそ、夢を諦めないで今も上を目指せているのだと思います。
今でも感謝しています。
成長できた高校時代
そんな経験から高校は「誰も自分を知らない」「誰にも頼れない遠い場所」に行こうと決めていました。
なんでそう思ったのか?
たぶん、もうこれ以上自分で自分を嫌いになるのが嫌だったんだと思います。
そしてこのまま、弱い自分のままではいけないと感覚的に感じたんだと思います。
当時はそこまで深くは考えていなかったですが、直感がそう言っていたんだと思います。
親や周りの人の協力のお陰で、高校は自分の望んでいた誰にも頼れない場所(北海道)へ入学することができました。
そこからの3年間は、もう本当に死に物狂いでした。
なんでもかんでも誰よりもやる。
それだけを意識していました。
今思えば、もっと調べたりすれば良いとわかるんですが、当時はそんなことも考えずにただただやりまくってました。
そしてそれが、たまたま下半身の強化につながって、体幹が強くなり、スピードが上がって、自分の持ち味のドリブルを強化してくれたのは後から気付きました。
良い仲間達にも恵まれたことは、本当に運が良かったと思います。
高校2年生の途中からトップチームで出始めて、高校3年生のプリンスリーグでは、チームメイトと同点で得点王になりました。
そこそこの結果は残せていましたが、プロのスカウトの目に留まることもなく時間だけが過ぎていました。
「このままではプロになれない」
そう思い焦っていた僕は監督に、「どこかプロのチームを紹介してくれませんか」と直談判しました。
当時の僕のレベルを知る人ならわかると思いますが、誰も自分がプロになれるなんて思っていなかったと思います。
なんならチームメイトに僕より上手い人が何人かいましたからね。
ただそこで突っぱねるのではなく、しっかり考えてくれた監督には今でも感謝しています。
そして卒業生の1人が、当時JFLで次の年にJ3への昇格が決まっていたツエーゲン金沢にいるということで、そこへ練習参加させてもらうことになりました。
ツエーゲン金沢に練習参加する時も、卒業生の清原翔平さんの家に10日間も泊めさせてもらいました。
今思えば、やばいやつですね(笑)
清原さんには感謝してもしきれません。
そしてその10日間、本当に死に物狂いでやりました。
その結果、その時の実力的に全く通用してなかったと思うんですけど、たぶん将来性を見込んでもらい入団できることになりました。
そもそもJ3が出来たのも、僕が卒業するタイミングと同じだったのでめちゃくちゃ運が良かったです。
現実を知るツエーゲン金沢時代
誰も僕がプロになるなんて思ってもいなかったので、入団が決まった時は、ものすごいもてはやされました。
今の自分なら、しっかり先を見てやるべきことを出来ます。
ただ、当時の自分はこの慣れない状況に「完全に天狗」になっていました。
その結果、努力することを忘れてしまいました。
その状態のまま金沢に加わり、最初こそは若気のいたりと勢いに任せてやっていましたが、すぐに全く通用しなくなりました。
努力無くしてプロで活躍することなどできません。
それでもただただ、自分がなんで試合に出られないのか、愚痴ばっかり言っていました。
本当にアホでした。
ツエーゲン金沢はその年に、J3リーグで優勝して来年から僕もJ2リーグで戦えることになりました。
結果的にJ2リーグでも1年間プレーしましたが、公式戦にも出られない2年間を過ごしただけでした。
何がダメなのかもわからない、何を改善すれば良いのかもわからない、そんな状態で2年間を過ごしていました。
誰の話もしっかり聞かないし、全てのことに言いかえす本当に生意気な奴だったと思います。
ただ、周りにいる先輩方は、1年でチームをJ2リーグへ上げてしまうような人たち。
人間的にも素晴らしい人たちでした。
今だからわかるんですが、本当に自分のことを思ってアドバイスをくれたり、気にかけてくれていました。
自分からその助け舟を逃し、自分から成長する機会を無くしていた事に、当時のバカだった僕は気づけませんでした。
そして金沢の契約は3年だったんですけど、最後の年はレンタル移籍で当時JFLだった「ヴァンラーレ八戸」にいく事になりました。
いわゆる片道切符ですね。
足りないものを知るヴァンラーレ八戸時代
八戸に来てからの1年目は、正直なところ完全に舐めてました。
試合には出ていないけど一応J2リーグのチームから来ているので「絶対に自分の思い通りにやれる」「自分のやり方で見返してやる」と考えてました。
結果、その年はわずか9試合の出場。
ぼぼ途中からという散々な結果になりました。
生意気なだけで結果も残さない奴だった僕は、もちろんチームメイトからもよく思われない存在になっていました。
そこで初めて「このままではいけない」と気づきました。
それと同時に「人との関わり方」もすごく大事なことなんだとも気付きました。
そこからのヴァンラーレ八戸での2年間は、サッカーだけではなく人との関わり方などをより意識して過ごすようになりました。
例えば、
「相手の話をしっかり聞くこと」
「まずは自分から歩み寄ること」
「相手の考え方を尊重すること」
などを意識しました。
その結果、徐々にチーム内で信頼してくれるようになったり、今まで来なかったボールが来たり、選手以外の人からも食事に誘ってもらえたり、今まで起こらなかったことがどんどん起きるようになっていきました。
それと同時に試合に絡める数も増えていき、スタメンも増えて、先輩達から色んなアドバイスをもらえるようになりました。
その後、3年間で八戸ではクビになるのですが、この3年間で学べたことは確実に自分の身になっています。
この経験を持った上で、海外に挑戦できた事は運が良かったんだと思います。
八戸をクビになった時、真っ先に海外にいく事に決めました。
なぜかと言うと、高校の時に全く知らない土地に行ったように、環境を全く違うものに変えないといけないと思ったからです。
今までずっと「海外で挑戦したい」と思っていましたが、今ある契約を自分から切って挑戦できるほど、当時の自分には勇気がなかったです。
というよりも、自信を失っていたんだと思います。
だからこそ、八戸をクビになった時、絶望感ではなく「自由になった」というなんか清々しいような気分になったのを覚えています。
そこからは海外に行くために、自分に考えられる全てのことをしました。
具体的には
・知り合いの人に片っ端から連絡をする(その時に迷惑をかけてしまった方はすいません🙇♂️)
・ネット上で調べられるだけ調べる
・繋がった人に全員会いに行く
・SNSで調べまくる
まだまだありますが、こんな感じでやれる事は全てやりました。
その結果、チームは決まっていませんが何個か選択肢が見えました。
その中で僕は、モンゴル🇲🇳に行くことを決めました。
なんでモンゴルだったのか?
モンゴルからヨーロッパ挑戦へ
それもまた周りの人から見たらとんでもない決断だったと思います。
もちろん応援してくれる人がたくさんいましたが、
逆に
「なんでモンゴル?」
「もっと良い選択肢があるでしょ」
「地域リーグと同じレベルでしょ?」
なんて言われることも多かったです。
たしかにその通りだと思います。
ただその時の僕は、サッカーだけのことじゃなくてその後の自分の人生を考えた時に、出来るだけ未知のものを経験した方が良いと考えてました。
それが必ず自分のサッカー人生にも良い影響を与えてくれると、なぜか確信していました。
そういう謎の自信はいつも持ってました。
バカなんでしょうね(笑)
結果的にその選択によって未知の世界、人、文化、教育、に実際に触れることができました。
そしてその経験が僕自身の在り方、考え方、生き方にものすごい影響を与えてくれました。
そしてこの時、自分の夢は何だったのかを明確に思い出しました。
『ミランの10番をつける』
本田圭佑選手の真似みたいですが、本当に目指しています。
今まで、少しでも周りの目を気にしていたり、自分自身で自分の可能性をつぶしてしまっていたことに、その時初めて後悔しました。
そしてモンゴルに来たことで、自分がヨーロッパへ挑戦できるきっかけを作ってくれた、脇野はやとさんと出会いました。
彼の知り合いの、現地のエージェントを紹介してもらいそのエージェントを介して練習参加の後、今のチームに入団することができました。
あの時少しでも周りに流されて、自分の直感を信じてなかったら、自分の夢を思い出すことも、ヨーロッパに挑戦できるチャンスも転がってこなかったと思います。
ものすごい長くなってしまいましたが、ざっくりここまでの自分のサッカー人生はこんな感じです。
この記事を書いている2021年6月27日現在、僕は26歳。
もうヨーロッパではベテランの域に入っています。
ただ僕自身、小学生の時に描いていた夢『ミランの10番をつける』
時折、他人の目が気になって、流されて、自分の夢を見失っていましたが、今は明確にゴールがあります。
ここからは寄り道せずに、まっすぐ自分の夢に向かってやっていきます!
ここまで長く読んでもらってありがとうございました!
今後は、日常で感じたことであったり、起きた出来事など自由に毎日投稿していこうと思います。
これからもよろしくお願いいたします🙇♂️
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