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薄皮[短編小説]
わたしは馨の手元から目を逸らすことは出来ませんでした。
白い白い、陶器で出来ているかのような壊れやすそうな長い指。
馨の指先は蜜柑の房と房とを引っ張っていました。
蜜に汚れた両の、親指と人差し指。
しりしりという僅かな、あるかなきかの音ともに蜜柑は引き離されました。
三日月にも半月にも似た、ひと房同士。
白い薄皮に包まれて透けている橙色の果肉。
「不思議ですね」
馨は不思議でもなんでも無さそうです。
「あんなにしっかりくっついていたのに、一度離れてしまうと、二度とくっつかない」
確かに一度離れてしまった蜜柑の房同士は、もうくっつかないのでした。
わたしたちはきっと、母さまのお腹の中で一緒になったときから、離れるべきではなかったのでしょう。
わたしは十八。馨も十八。
わたしは明日嫁ぎます。
山の手の、洋風の大きな屋敷に住んでおりました。
大陸での事業に失敗し、ほとんど全てを失った両親は、屋敷を手放すことは考えられず、屋敷を売るのではなく娘を売ることにしたのでした。
蜜柑は婚約者の家から送られてきたものでした。
極早生蜜柑というのです。
まだ10月も始まりだというのに。
珍しいもの好きな母さまは喜びましたが、さすがにまだ小ぶりで酸っぱいのでした。
外皮の色もところどころ青味を残しておりました。
夕食をとるための食堂ではなく、朝食をいただくための小さな卓で、わたしたちは向かい合いました。
高いところにある窓にはステンドグラスが嵌め込まれていました。
「剥いて差し上げますよ」
馨は蜜柑をもうひとつ取りました。
「姉さんは明日嫁ぐのに、爪に蜜柑の色が入り込んでしまっては格好がつかないでしょう」
馨はわたしを姉と呼ぶのです。
わたしのほうが、ほんの少しだけ早く産まれてきてしまったのです。
そしてわたしは明日、馨を置いて出て行くのです。
わたしは暗い胎内に弟を置いて出て来てしまったことを、悔やめばよいのでしょうか。
馨の右の親指、その爪がぶすりと蜜柑の外皮に刺さりました。
飛沫が馨のシャツの袖に飛びました。
蜜柑色の細かな沁み。
馨が眉をしかめました。
「父さまの買ってきた爪切りは、頑丈過ぎるのです」
わたしは首を傾げました。
馨は合わせ鏡のように首を傾げて微笑みました。
「深爪をしてしまったようで、蜜柑の汁が、しみるのです」
父さまの買ってきたもの、というのはわたしたちの間ではいつも話題の種でした。
父さまは外国に出かけては何かしら買って帰ってきました。
お仕事のためと言って出かけていきます。
父さまは珍しい置物などだけでなく、外国の日用品も買ってくるのです。
その姿形は優美なこともあれば無骨なこともありました。
買い付け品の売れ行きはいつも捗々しくありませんでした。
父さまはそういうことがやめられない方でしたし、そういう子どもっぽさというのは一つの魅力でした。
馨の深爪をわたしは可哀想に思いました。
わたしは馨の手首をとりました。
馨の親指をわたしの口に含みました。
苦いような酸っぱいような風味が舌に広がります。
わたしは馨の親指を舐めました。
爪の付け根を舌でなぞり、爪の先を吸いました。
わたしは馨の親指を口に含んだままでした。
馨は人差し指もわたしの口内に差し入れました。
「姉さんは初夜というものを知っていますか?」
馨の右手の親指と人差し指が、わたしの口蓋を擦り、舌に絡みます。
「明日、姉さんはそれを迎えるのでしょう?」
もう真夜中近くですから少しばかり冷えていたはずなのに、背中のあたりからじわじわと熱いのです。
カーディガンを脱いでしまおうかと考え、やはり考え直して空いている方の手で前を掻き合わせました。
初夜に男と女がすることを馨は知っているのでしょうか。
馨は女の身体に触れたことがあるのでしょうか。わたし以外の。
ふたりの間に銀色の糸が伸びました。
馨の指がわたしの口腔から出ていく、空疎なさみしさ。
わたしの太腿は震えました。
馨がわたしの口から指を引き抜く、そのわずかな振動は、舐める火のような速さで身体を巡り、太腿で止まりました。
馨は外皮を失った蜜柑を持ち上げました。
白い繊維にくるまれた球形。
「薄い皮も剥いたほうが良いでしょう?」
馨はそのようにしました。
生毛のような繊維を取り去ると、橙色のつるりとした丸に、白い葉脈のようなものが走るのみです。
中からじんわり発光しているかのような橙色。
透明に近い薄い皮だけが、中のみずみずしい果肉を保っています。
その酸っぱい果汁が漏れ出るのを、その皮膜だけが。
かろうじて守っている。
わたしの太腿は震えたままでした。
わたしの太腿はしばしば震えるのです。
わたしはいつの頃からか、これに耐えてきました。
まだ薄い皮膜に守られているはずです。
わたしは、わたしの中の果肉を感じるのです。
たとえまだ固くとも、そこには既にみずみずしい果肉があるのです。
馨がわたし以外の女の身体に触れるというのは、わたしが嫁ぐことと同じくらい、醜悪なことに思われました。
わたしの婚約者はたくましい青年でした。
健康でたくましく太陽のようなひとで、わたしにも馨にも親切でした。
「良いお話」と皆、口を揃えました。
わたしは太陽のような婚約者を嫌いではありませんが、彼と触れ合うことを、ひどく滑稽で間違ったことのように感じていました。
わたしはテーブルの下で内履きを脱いで、右足を自由にしました。
足指をそろそろと馨の下肢に沿わせていきました。
足の甲を這い上り、向こう脛から膝頭まで。「いつから?」
わたしは尋ねます。
「いつから馨の脚は震えるようになったの?」
「しばらく前からですよ」
テーブルの上。
馨の上半身と両腕と両手は、平素と変わりません。
穏やかな口元。
わたしよりも白く細い指。
馨はお習字が得意でした。
いつもお線香のような匂いをさせた男の先生は、馨の手に自らの手を添えて教えるとき、ほんの少しばかり顔を赤らめました。
わたしはそれを見逃しませんでした。
馨は半月に似た蜜柑のひとふさを、その薄い皮を剥き始めました。
中の果肉をつぶしてしまわぬよう、ゆっくりと丁寧に。
蜜柑の果肉というものは、どうしてこんなにも小さなつぶつぶが集まっているのでしょう。
人間の筋肉や脂肪も、内臓も、小さな細胞の集まりだと聞きます。
こんなふうなのでしょうか。
わたしたちの皮膚の下にも、水気を湛えたつぶつぶが、詰まっているのでしょうか。
わたしの右足は馨の膝に触れたままでした。
柔らかいコール天の生地のズボンを穿いた、震える膝。
わたしは椅子の背に深くもたれ、座面を両手で握ります。
身体を支えるためです。
わたしは足指を伸ばしてゆきます。
わたしの足の裏は、馨の太腿の上を、ズボン生地の上を滑ってゆくのです。
蜜柑のつゆがぽたりと一滴、テーブルにしたたりました。
つややかな茶色のテーブルの上で、橙色は失われます。
濡れた表面と匂いだけが残る。
「姉さん、口を開けてください」
わたしの右脚はテーブルの下で、ぴんと伸びていました。
わたしは蜜柑を食べました。
馨がわたしの口に入れてくれました。
剥かれて裸にされた、ひとふさ。
わたしはその、喉を灼く酸っぱさを味わいました。
灼けるようなのに、すぐ、次が欲しくなる。
「全て剥いて」
足の裏というのは、鋭敏な器官ではありません。
でも、わたしは感じ取ることができました。
平素と変わらぬ冷たい馨の白い指。
震えて、熱を帯びる下肢。
馨はわたしの頼みを聞き入れました。
わたしは貪り食べました。
やがて灼けるような喉に甘みを感じました。
痛みをともなう甘みでした。
ひきつれた喉から甘い匂いが漏れて、それは自分の意志で止められるものでは、ないのです。
馨は全て剥いてくれました。
馨の白い魚のような指先で、わたしは皮をはがされ、裏返しにされたのでした。
その夜、テーブルの上で静かに。
夫はわたしを抱き寄せて、黄色じみた笑顔を見せます。
わたしも微笑み返します。
結婚式はとても良いお天気に恵まれて、つつがなく進行しました。
式のあとしばらくして、気が付いたのです。
わたしは身ごもりました。
わたしが身ごもったのは、双子でした。
それはもう、最初から、分かっていたことでした。
鏡の前で腹帯を巻き直します。
わたしの痩せた腹は、雪崩れるような勢いで、成長しました。
腹の皮膚は、膨れ上がるその勢いには追いつかず、白く裂けておりました。
肌色の上に、馨の指の這った痕のような白。
それはまるで、外皮を剥かれた蜜柑のように、つるりとした丸に、白い葉脈のようなものが走るのです。
内側からじんわりと発光しているかのように、ほのかに温かい橙色と白の対比。
わたしは変わり果てたわたしの腹を眺めます。
喉の奥にわたしはまだ甘さを覚えています。
あの夜と違うのは、わたしは既に熟したということです。
柔らかく熟れた果肉はわたしの皮下で、汁を絶え間なく生み出しています。
薄い皮膜だけが、その果汁が漏れ出すのを、かろうじて守っているのです。
《 完 》