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無期懲役になろう系犯罪者

「私は今とても幸福です」
新幹線殺傷事件、小島一朗・無期懲役囚からの手紙

出典:弁護士ドットニュース(以下同)

 この見出しに思わずクリックして読み込んだ記事。

 裁判では「一生刑務所に入りたい」「無期懲役になりたい」と述べ、求刑通り無期懲役の判決が言い渡された。
 判決を聞いて万歳三唱したという彼のその後が気になり、手紙のやり取りが始まった。

 ということでその手紙の一部が紹介されているわけだが、いや、これすごいわ。
 死刑になろう系犯罪者とは異なる具合に社会への憎悪が迸っているし、無期懲役になろう系犯罪者のロールモデルとみてよいだろう。
 これ、誤字脱字の修正だけして、そのまま世に出すべきだわ。

 ある種の感銘を受けた部分とその理由は次のような感じ。


判決要旨で、裁判長が「受刑の現実に直面させる」と仰っていたが、さて、どうだったでしょうか。

 文意どおりであるならば、今頃顔真っ赤にしているのは件の裁判長のほうだろう。地裁の判事になれる程度には登り詰めている人間には、虫ケラかゴミクズと変わらんと自認していてもおかしくないであろう彼のような人物の思考は理解できなかっただろうな。
 この判事のこれまでとそれからとこれからについては、調べたりウォッチしない限り知ることもないが、ことこの件に関しては何の役にも立たなかったことが立証されたな。

 無期は、死ぬまでの数十年間、ずっと国に重い負担をかけるのである。
 死ぬまで刑務所に居てもよい、無期でこそ、私と国は一つとなる。私の損失は国の損失である。有期では、こうはならない。

「一生刑務所に入りたい」「無期懲役になりたい」、それが結実しての万歳三唱といった言動ばかりがフィーチャーされていたわけだが、これで得心がいった。彼が得たかったのは自分の利益ではない。むしろ彼が果たしたかったのは他者への不利益である。
 彼は負担や損失の主体を国と表現しているが、より正確に言うならば社会といったところだろう。社会という言葉はしかしファジイにすぎる。国というほうがよりイメージがしやすい。国に、社会に、ひいてはこの世の人間どもに対して、攻撃したかったのだ。

 刑務所と社会はあべこべである。社会では生きることは権利である。勝ちとらないといけない権利である。しかしながら、刑務所では、生きるのは義務であり、生きてください、と懇願されるところなのだ。
 無期なら、死ぬまで国が面倒を看てくれる。しかし、有期は? 誰が面倒を看てくれるというのか。社会では、「小島さん、自殺する権利もありますよ」で終わりだ。けど、刑務所は生きるのが義務なのだ。

「社会では生きることが勝ちとらないといけない権利」という言い分は、見事としかいいようがない。生存権が憲法で保障され、その具現として生活保護という制度があってなお、生活保護バッシングに代表されるスティグマは厳然と存在する。
 よしんば生存権が保障されていたとしても、それだけで基本的人権が充足しているとは言い難く、それを上回る権利を得るにはまさしく勝ちとらないといけない。
 そして誰かが権利を手にしたその足元には、敗北者が己の惨めさに嘆きながら這いつくばっている。そんな彼らに向けられる言葉が「自殺する権利もありますよ」である。
 おそらく彼は、自殺する権利を行使しようとしたこともあっただろう。頭をよぎるだけではなく、実際にそれをしようとしたかもしれない。しかし最終的に彼は自殺する権利を放棄し、社会に復讐を試みることにした。そして成功した。自分を苦しめてきた人間どもを野放しにしてきた国に負担と損失をかけて、なおかつ生きることを懇願される立場さえ勝ちとったのだ。

 私は孤独で、孤立しております。
 この世のどこにも居場所がない。

 彼が人間であることを証明する、悲鳴のような言葉である。
 それでは彼が孤独で孤立していて居場所がないのは、なぜだろうか? これは死刑になろう系犯罪者にも通ずることだ。件の判事では考えもしないかもしれないが、僕には何となく理由がわかる。
 一言でいうならば、負けたからだ。
 もうひとつわかるのは、そういう人が、じんわり増えているのだろうなということだ。
 そしてこういうロールモデルが生み出された。孤独で孤立していて居場所がない人は、こうすれば復讐できるという好例である。
 僕は彼の行動について万歳三唱する気はないけれど、彼が万歳三唱した気持ちはよくわかった。彼は自分の幸福ではなく、他人の不幸をざまあみろと思っていたのだろう。


 さて、彼が孤独で孤立していて居場所がないことについて、僕は負けたからだと言ったわけだが、それは本当に敗北なのかね。
 こんな怪物を生み出してしまった──ただの人間をこんな怪物に変身させたことこそが、社会の敗北なんじゃないのかね。
 僕は彼を生み出したのは、社会のほうにこそあると見ている。その社会の片隅には、僕もいるわけだ。
 虚しいのは、それほどまでに彼に近い僕のほうがその責任を感じ、僕や彼から遠いものたちは、こぞって自分の責任を認めないだろうということだ。
 どうして自己責任という言葉は、自分を喝破するためではなく、他者を嘲弄侮蔑するための言葉になってしまったんだろう?
 他人を指差して自己責任を口走るみっともない連中や、それによって組成された社会に、価値があるようには思えなくなる。

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