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自殺に依って、変わる世の中。

『セクシー田中さん』騒動ともいうべき一連については、その原作も知らず問題の二次創作も見ておらず、ろくすっぽSNSにも目を通していない僕は、原作者の死の報道によってはじめて認識したわけである。
 そもそも漫画原作の実写なんて、ろくなものができたためしはない。原作フリークであればなおさら度し難い演出に鼻白むし、どれだけ実写オリジナル作品のクリエーターは劣化しているのかと鼻で笑いたくなる。
 これほど興味はなかったものの、あるとき件の脚本家を調べてみたら、その役者時代と作る側に回っていたことは前から知っていたので、かすかに自分と関連づくことになった。
 そのために、今般テレビ局から出された調査報告書も、新聞報道レベルではあるが、じっくり読んでみることにしたわけだ。


 本当に昨今のクリエーターは嘲笑うことさえできないほど劣化しているのだなと痛感した。
 よくもまあこんな言い分を書き連ねることができたものだ。言葉というものがいかに空虚なものかを如実に示している。
 報告書の説明会の冒頭に出席したテレビ局の社長は、「ドラマの制作関係者や視聴者を不安な気持ちにさせてしまったことに、おわび申し上げる」と謝罪したというが、謝罪対象を制作関係者や視聴者に限定していることも片腹痛いし、詫びるべきところも不安な気持ちにさせたことじゃねえだろ。
 対象とすべきはこの世界のこの小さな国の中、それでも同じ時代を生きているという点を共通項にしているあまねくステークホルダーに対してであり、その多くが抱いているのは不安ではなく怒りだ。原作者の生死にかかわらず、強者と目される人物が弱者に対して理不尽を強いたことに対する怒りだ
 ニーズを捉えられずニーズを生み出すこともできないこの人たちに、一体全体何が作れるのだろうか。せいぜい事実を事実のまま、正確に要約して報道してくれればいいしそれ以上のものはいらないわ。それぐらいならもうAIくんに任せていい気もする。


 しかし呆れ果てたのはこのくだり。AIくんではないけど頑張って要約するとこんな感じ。

・脚本家が、原作者がドラマ終盤の脚本を書いたことへの不満をSNSに投稿すると、脚本家に同情する声がネットで多く寄せられた。
・その後、原作者が経緯を説明するためSNSに投稿すると、今度は脚本家やテレビ局を非難するコメントが殺到。この2日後に原作者は自殺とみられる状況で発見される。
・今回の新聞の報道でテレビ局は、脚本家の投稿に対し「表現の自由に照らして個人のアカウントの発信阻止は難しかった」という。

 まるで脚本家があんな投稿しなければこんなことにはなってなかったと言いたげな様子。こいつらは脚本家まで殺したいのかね?


 こんなタイトルの記事ではあるが、多分そんなに変わりはしないだろう。
 それでも生贄が増えたところで、やっぱり変わりはしないものだ。
 変えたいのであれば、生きていないと変えられやしない。
 まあ、変えたいほうが世の中ではなく自分であるなら、それしか手段はないのかもしれないけれど。

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