読んだことないけどずっと気になっている作家/さん付け問題
読んだことないけど、ずっと気になっている作家というのがある。それがなにかの拍子に「読みたい」になるが、多くはそのうちまた意識の辺縁に戻っていく。
最近では司馬さんの本を読んでいて、スタインベックが気になった。カリフォルニアに行くにあたって、カリフォルニア出身のスタインベックの作品や評伝を読み込んで行かれたらしい。私は英文科卒でありながら、多読本で『二十日鼠と人間』を読んだことがあるだけで、スタインベックのプロパーな作品はまだ読んだことがない。
幻冬舎の見城徹さんの本を読んでいて、五木寛之さんと石原慎太郎と中上健次が気になった。読んだら面白いに決まってるけど、お三方とも1冊も読んだことがない。
津村記久子さんの書評集を読んでいて、津村記久子さんが気になった。文体が好みだ。存在は随分前から存じ上げているが、小説は読んだことがない。
最近ミシェル・ウエルベックによるラヴクラフトの評伝を読んで、ウエルベックが気になった。書店で見かけるたびに流し目を送りながらも、読めてはいない。
こうして気になっている作家の名前をあげる記事を書いていたら、さん付けするかしないかということのほうが気になってきた。
どうやら私は、生きている人にはさん付けし、生きていない人と外国人には付けていないらしい。
一見不穏にも思える仮説だが、この分け方は正しいのだろうか。
言葉は発話するためにある。さん付けするのは、基本的には話しかける相手に対する礼儀だ。(ふつうは)亡くなった人に話しかけることはないし、(大雑把に言って)外国人には日本語が通じないから、ということだろうか。
あるいは、生きている日本人はこの文章を読むことがありうるが、亡くなった人と(大雑把に言って)外国人は読むことはないから、ということだろうか。
あるいは単に西洋の名前に日本語の敬称はそぐわない、ということだろうか。
とは言え、例えば「スティーヴン・キングさん」と表記するのは妙な感じがするが、本人を目の前にして呼び捨てにすることはないだろう。相手に日本語が通じないとしてもだ。
また、例えば太宰治ファンが墓参りに行って、墓前で語りかけるとして、呼び捨てにするだろうか。しなさそうな気がする。
迷うくらいなら全員さん付けにするか、敬称略にすればよいが、前者は違和感が増えるし、後者は生者に失礼な感じがする。
上のような表記になったのは、そういうわけだ。
ちなみに上で司馬遼太郎を「司馬さん」としているのは、何冊も読んで親近感が生まれると、生きていない人でも呼び捨てにはしにくくて、しかもフルネームでは他人行儀に思えて(他人だが)、さん付けしてしまうらしい。
とはいえ夏目漱石を「夏目さん」と言うことはないし(「漱石」と言う)、中島敦を「中島さん」と言うこともない(「中島敦」と言う)。
結局、要は気分の問題であって、ルールらしいルールなどないのだろう(なんじゃそら)。