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8月某、旅行記②

タクシーを降りると、彼と私はまた太陽の下に晒されることとなった。ちょうど頭の真上へと昇っている太陽は、これでもかと言わんばかりに地上に光を降り注がせている。
彼がすぐ近くに一つの建物を見つける。どうやらその一角にはカフェがあるらしかった。もはやこの暑さから逃げ出せるならなんだって良い。側に辿り着くと、内部の冷やかな空気に誘われるようにすぐ中へと入っていった。

カフェの中は思い描いていた通りの涼やかな空気に支配された、広々とした空間だった。数組の先客は、友人と歓談していたり、仕事の合間だろうか、パソコンを机の上で開いたままコーヒーを啜っていたりする。私たちも向かい合い、席に着く。1人で座るには広すぎると思われるくらいのソファだ。
田舎だからだろうか、この空間には平日の昼間の、駅前のカフェと思えぬほど穏やかな空気が流れていた。この中にいる全員が刻一刻と過ぎていく時間なぞ気にせず、ゆったりとした贅沢な時間を過ごしている。日頃、街中で忙しく動き回っていては体験できぬことだ。私にはどんな豪華な食事をとるより、どんな意味のある大きなことを成し遂げるより、「時間」という概念をないものとし、「時間」を浪費する、則ち人生を浪費することこそ一番の贅沢であるように思える。人間はそれをするだけの余裕を人生に抱えていなければ、他者が云々社会が云々など考えることも出来ない。人間が人間として生きたいならば、「時間」を放棄しなくてはならない。

そのカフェで提供されている食は、だしをふんだんに使った和食が中心であった。私は普段から、毎日の昼食の半分ほどがパスタである。最早私の中で、昼食とパスタの関係は切っても切り離せない。今回も例外なく、注文したランチはパスタとなった。
その日に提供されていたのはシメジやベーコンに和風だしのかかったパスタだった。それに白い、少し粘性のある液体がかけられている。それが何であるか、私にも彼にもわからない。とろろというには少し粘り気が足りないような気もするし、クリームというには粘り気がありすぎる。しかし、その得体の知れぬ液体をだしに混ぜパスタに絡めると、それ無しに頬張る時の比ではない複雑な旨味が口内に押し寄せる。不思議な味わいに身を任せ、私は食事を楽しんだ。完食すると、ちょうど電車の発車時刻の10分前である。未だ隣のテーブルで談笑している先客を横目に、私たちはそそくさとカフェから立ち去った。

午後1時を回った頃。私たちは中山道のとある宿場町を訪れた。この街は先ほどまで乗っていた列車の終着駅で、その路線は今月で開通100年を迎えるという。以前にも一度、彼に連れられ訪れたこの街だが、今度はどこへ連れられて行くのか知らぬまま彼に付いて行くと、到着したのは街の一角にある図書館のような場所であった。そこで鉄道の展示か何かがされているらしいが、そこまで多くの展示ではなかったためにそれを見るのは早々に切り上げ、二人して図書を漁り始めた。元来興味関心の似て非なる二人だから、読む本も当然異なる。彼のことは放っておき、私は自分の興味を惹く本はないか探し、読み始めた。
平家物語『木曽の最期』。高校時代に初読してからというものの大好きな一節であり、木曽義仲周辺のことは当時調べ尽くした。しかし、それについての「本」を読んだのはこれが初めてだった。他にも、太宰治『走れメロス』再読。少し前にSNSで見知らぬ国語教師のメロスの考察について目にした。その考察を踏まえて再読したが、私は少し異なる感想を持ったのでそれについてはまた別で書く機会を設けたい。泉鏡花『高野聖』は初読であったが、私の力では鏡花の作品は読むのに時間も労力もかかる。今回は全編読むのは諦めざるを得なかった。

1時間ほど経っただろうか、電車の時間になり私たちはそこを後にした。なぜだろうか、本の世界に触れた後には美しい街が前以上に美しく、輝いて見えることがままある。この街もそうであった。道の端には木々が太陽光に透かされた緑葉を揺らし、道の向こう側にもこちら側にも情緒ある古い建物が軒を連ねる。私は古都が好きであった。駅までのたった数分の道のりであったが、私の感受性はこの街の空気を存分に楽しませてくれた。

この旅の本来の目的である鵜飼の時間が数時間後に迫っているので、近くの犬山まで移動する。電車を使えばそう遠い道のりではない。ほぼ貸し切りとなる電車内で、二人だけで過ごすというのも楽しいものだが、そういう時間は一瞬で過ぎ去っていってしまう。この移動時間も、今日顔を合わせてからの時間も、この日一日も過ぎてしまえば一瞬で、時間が経てば細部など、夢のように思い出せなくなるのだろう。それが私にはとても重大で、つらいことのようにも感じられた。物語の中のように、楽しい時間が永遠に続く世界ならば、時間など忘れ、永遠に二人で旅が出来るならば、私はこの世で生きる苦痛の何物からも解放されることが出来るのに。

犬山も、以前二人で訪れたことのある街だ。
高所恐怖症の私には犬山城の天守閣の高さと、外に向かって低くなる傾斜のある床がどうにも恐ろしく感じられ、城壁から離れることも出来なかった。だのに、彼は天守閣から見える二本の鉄橋を走る電車を撮影するのに夢中で、叫ぶ私を面白がるついでに、電車の撮影をわざと長引かせている。しばらくすると天守閣と城内の境あたりに立っていた警備員に、叫び続ける私は心配の言葉をかけられることとなった。腹立たしいことだが、私のこの醜態は暫く彼の話の種になっていた。

この街でそんな出来事もあったなと、駅の小窓から小さく眺めることが出来る犬山城を見ながら考える。しかし、今回はあの場所へは足を運ばず、城下町の散策のみに時間を充てることにした。平日昼間、往来に人はあまりいない。午後3時ごろ、太陽は傾き始めているが空気は真昼と遜色ない熱気を保ち続けている。今までの行程で体力をかなり奪われている私たちに、街中をフラフラと歩きまわるだけの力は残されていなかった。話は自然とどこかの店へ入る方向へと進み、所謂「インスタ映え」する店はないかと調べ始めた。

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