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文壇やら映像作家やらの「差別反対」に思う
自分の身体性を受け入れられない、というのはとても不幸だし、気の毒だと思う。
けれど、どんなに気に入らなかったとしても、それが自分自身なんだよ。
整形しようとホルモン投入しようと、人為的な改造をどんなにやろうとも、「他人の身体にはなれない」。
別の性別にもなれない。
それを言うと
「残酷だ。当事者がかわいそうだ。」なんて言う人がいるが、
その「かわいそう」の方が、よほど当事者を見下しているように感じる。
適当にごまかしてあげれば幸せでしょ、くらいの軽い扱いをしている。
あんた何様なんだ、と思ってしまう。
たぶん自称アライの中には、この「何様」が沢山いるのだろう。
無責任な人々だよナ。
性別や性嗜好がからむ問題は、恋愛とも関連するから、華やかで人目を引くので、フワっとした賛同者が集まりやすい。
だから映像や文筆系の人が集ってくる。
「差別反対!」と情に訴えかけるばかりで、彼らには問題の本質は見えていない、と思える。
なぜ、認識を変えるのではなく、身体を変える方向へいくのか?
なぜ、疑問を呈さない?
なぜ、根本にある問題を見ようとしない?
表現する力がありながら、なぜそれらを表明しない?
名前を言ってはいけない作家大先生。
この人は今まで、自分の意思の力で現実を都合よく捻じ曲げてきた、それこそが自分の実力、という自負があるのだろう。
だから、すごく自己憐憫的なのに、とても傲慢、というおかしな態度になる。
あまりに常識外れだからだろう、この人を諫める仲間がいない…。
この人(彼、と言いたいが、そう言うと訴訟騒ぎになりそうで恐ろしい)は、自分の身体が気に入らないのであろうが、その気に入らない身体こそが自分自身だ、ということに気付かないのだろうか。
その気に入らない身体が無かったら、今のその人も無かったことが、なぜ解らない?
過去を消したら、今も無くなる。
現実を突きつけられるのは、差別なんかじゃない。
攻撃でもない。
思い通りにならない現実と折り合いをつけていく工程が、人生の重厚さ、ということなんじゃないのか。
文学って、ずいぶんと無力なシロモノなんだな。