55.別荘地を彩るトウゴクミツバツツジ
長野県茅野市にある蓼科高原は、北は蓼科山、東は八ヶ岳の、1200~1700mの山麓にあり、温泉郷、レジャー施設がある観光地で、避暑の別荘地です。元々蓼科高原は、安山岩・玄武岩質安山岩の火山質の土地で、刈敷を取る地元の入会地の原野でした。
江戸時代から、滝ノ湯川沿いに滝の湯と新湯、渋川沿いに渋の湯の、3ヶ所の20~30℃の冷泉がありました。この冷泉は、農閑期の湯治による浴用・飲用に、利用されていました。明治時代までは沸かし湯がなかったので、入浴後に焚火で体を温めて乾かしました。
蓼科高原の開発は、農業用水から始まります。地元の名主の坂本養川は、1785(天明3)年から湯ノ川の上流から滝ノ湯堰、大河原堰の主要な2本の農業用水路をはじめ、15本の用水を引いて、現在の茅野市やその周辺の新田開発をしました。この2本の代表的な堰は、世界かんがい施設遺産に登録されています。滝ノ湯堰によって、下流で400haの水田開発が行われました。
明治の末期には、歌人・小説家の伊藤左千夫、画家の平福百穂が蓼科高原に滞在して、東京で高原を読む詩歌や絵画を広めました。中央線茅野駅から乗合馬車が温泉郷まで通るようになり、近在だけでなく、長野県・山梨県全域からの湯治客が増え、夏場には都会からの避暑の観光客が訪れるようになりました。大正期になると、増えてきた大学に山岳部ができて、八ヶ岳の登山者が増えました。昭和になると、虚弱児童の高山保養の利用も増えました。蓼科高原温泉保養集落の戸数は、昭和4年の5戸から、昭和16年の288戸まで増えます。増えた大半は別荘で、昭和16年の入込客は3万人を数えました。
蓼科湖は、米の収量を増やすために農業用水を温める灌漑用の温水溜池として、1946(昭和27)年に標高1210mに完成しました。面積8.5ha、周囲0.95km、水深7mです。冬場の蓼科湖は、スケートリンクに利用されました。
下流の農地では、火山岩質でリン酸が欠乏しているので、蓼科高原から刈敷として肥料を得て、田畑に投入していました。しかし、化学肥料が利用されて、刈敷が必要なくなり、1960年から本格的な別荘地開発が始まります。1968(昭和43)年には、ビーナスラインが完成して、蓼科湖へのアクセスがよくなりました。1986年末には、18の事業者が、延べ4050.73haに、4131棟の別荘、220棟の保養所、17棟の集合別荘、39棟のホテル、51棟のペンション、29棟のリゾートマンション、12棟の林間学校、4ヶ所のゴルフ場、87面のテニスコートを開発しました。1985年の入込客は178万人です。
著者は、54話の八千穂高原に行くために、2019年5月23日にメルヘン街道を通る途中、蓼科高原の中のトウゴクミツバツツジをみつけました。カラマツ林やシラカバ林につつまれた別荘地を飾るトウゴクツツジは、目を引きました。
しかしよく見ると、株の高さ1.5mより下は、花がついていません。さては、高さ1.5mはシカの食害のブラウジングラインだなと気づきます。
このときは見かけませんでしたが、2024年5月19日に再訪したときは、何度もシカの群れを目撃しました。
綺麗な庭でも、1.5mまでは、花も葉もついていません。
花壇に草花が咲いている別荘は、シカ除けのフェンスで囲われています。
トウゴクミツバツツジの株の周りを、フェンスで囲んで守っている庭もあります。
妻の関係でわけあって、我が家で別荘を入手することになり、2024年10月12日からと10月25日から、蓼科高原を訪れ、庭の手入れをするととともに、自然観察と撮影にいそしみました。
人の出入りが多い老人ホームの前は、シカの食害がなくて、トウゴクミツバツツジが元気に紅葉していました。
色づきよく、蒴果も実っていました。
別荘で、トウゴクミツバツツジを種から育てたいと考えて、付近で種を採取しました。増えすぎたシカとの折り合いをどのようにつけるのか、これから模索していきます。
茅野市「茅野市史 下巻 近現代・民俗」1988