見出し画像

私とおすそわけ


 子どもの頃から『かさじぞう』という昔話が大好きだった。
 あるところに貧しい老夫婦が暮らしており、爺さんが正月の餅を買うために町へ笠を売りにいったが一つも売れなかった。帰り道で通りがかった雪深い峠に地蔵様が寒そうにしているのを見て売れなかった笠をかぶせてあげた。笠が足りなくなると自分のてぬぐいもかぶせてあげた。帰って婆さんにそのことを話すと、それはいいことをしましたねと喜んで出迎えた。夜中に物音がして外を見ると玄関に米や野菜や着物などたくさん置いてあり、お地蔵さまが帰っていく後姿が見えた。ふたりは無事に正月を迎えることができた。
 心優しく無欲な善行者に思いがけない幸運が授けられるという話だ。小さい頃から祖母がよく読み聞かせてくれた記憶がある。どうやら祖母も『かさじぞう』を気に入っていたようだった。

 私は生粋の東北民で、生まれも育ちもいわば田舎だ。
都会人から「最寄り駅はどこ?」と聞かれると、ちょっと何言ってるかわからないけどと半笑いで「〇〇駅ですがここから車で40分です」なんていう土地にばかり縁がある。しかも本州最北端の県と本州最大面積の県でしか暮らしたことがなく、私の経験上最大の都会は岩手県盛岡市であるということでお察しいただきたい。盛岡は十分に都会である。
 私たちの生活で至極当たり前になっている文化「毎日のようにあちらこちらから“おすそ分け”で物をいただく」という話がどうやら都会ではびっくりエピソードになると知ったのはラジオ配信やX(旧Twitter)の投稿をするようになってからだ。特に何とも思わず暮らしてきたが、【何もないのではない、変わらないものがあるという魅力】という点で上位にくる文化ではなかろうかと考え直した。

 東北地域は農家が多いのは言うまでもないが、酪農や養豚、養鶏、養蜂も含めると個人的な感覚ではおおよそ8割以上が自然と共に生きている民である。私を含めて一族総出で教育関係で、唯一母方の祖母だけは天ぷら屋で働く料理人だったため、自然を相手にする稼業ではないし畑を持っているわけでもない。せいぜい祖母と私が庭で家庭菜園を楽しむ程度だ。しかし近隣住民や職場の同僚、友人知人のほとんどが自然を相手にする何かしらの職業あるいは兼業している。本人はそうでなくとも、実家が自然を相手にする稼業である場合が多い。

 古い漁師町で暮らしていた時には、もちろん近隣住民がほとんど漁師を生業にしており、片手間で畑仕事をするといった環境が一般的であった。
 北国ならではの玄関を囲うように設置された“風除室”にバケツを置いておくという決まりが我が家にある。すると朝5時半~6時の間に今朝採れたばかりの魚介類のおすそ分けが入っているのだ。我が家の砂利道を長靴でザッザッザッと音を立てて歩く音と風除室を勢いよく開ける音、ドシャドシャと無造作にバケツに移す音が聞こえ、また風除室を力づくで閉めて去っていく隣のおじちゃん。おじちゃんの足音が聞こえなくなる頃に布団の中から這い出て玄関を開け、重いバケツを台所で支度をしている祖母のところへ運ぶのが私の日課だった。
バケツの中身はアイナメ・ソイ・ギンポ・ハタハタ・イカ・ホヤ・サザエ・ホタテなど内容は日によって替わり、まだ生きているものも多い。
 漁に出られない日でさえ何かしら分けてくれるので、風除室は常に魚のにおいが充満していた。逃げ出そうとバケツから飛び出し、目の前の海へと自力で帰ろうともがくものも出てきて墨をまき散らしていたりする。当時はいつまでも魚臭い玄関が好きではなかったし、あまりにも毎日食べるから飽きてくる。肉が食べたいとワガママを言ったこともある。今になってこそそのありがたみがわかるが、いただいていたものが高級魚だということさえ知らなかった。朝には刺身で食べ、昼には焼きもの、晩には煮つけや揚げ物になって食卓に並ぶ。今回は小さくて食うところがないだの、大きくて捌くのに苦労しただの言いたい放題の祖母だが、みなおいしくいただいてきた。隣の家に遊びに行けば、帰りにタコ持っていけと生きたタコが入ったビニール袋をもたされたものだ。ビニールから慣れた手つきでタコをわしづかみにして取り出し庭の水道でじゃぶじゃぶ洗うワイルドな祖母。
 近所を歩けば「これぇアイさんさもってぎへ!」と抱えきれないほどの野菜や果物を強制的に押し付けられる。これから遊びに行く途中だと言うにも関わらずだ。もらう度に家に帰らねばならないのだ。持って帰ると「わい!!なもいいでばすー!めやぐだー!!めやぐだっきゃー!!」となぜか半ば切れ気味の圧力で祖母が出てくる。誤解のないように言うと“迷惑だ”という意味ではない。“何も気を使わなくてもいいのに、ありがたくて気が引けちゃうどうしよう申し訳ないわ”という意味なのだが、うちのばさまはなかなか激しい気性の持ち主、バイオリズムの調整が難しい時期だったこともあり“お礼しに行かなきゃいけなくなるからもらってくるな!!”といわんばかりの圧力の時もあった。

 何も魚介類や野菜だけではない。秋になるといよいよりんごもぎがはじまり、親戚中から各種りんごが木箱ごと届くのだ。祖母は6人きょうだいの2番目、浪岡、藤崎、五所川原、弘前、黒石に祖母のきょうだいや親戚が散らばっている。多すぎてどこどこのおじちゃん、おばちゃんとしか認識できず、誰が誰だか未だにわからない。突然軽トラックに何箱も積んで訪ねてきては、留守だと勝手に置いて去っていく人もいる。突如玄関が見えなくなるほど積んであるりんご箱について、心当たりがあれば電話して聞いて回るが結局はわからないことも多かった。対面でいただく時には「去年よりなもまぐね」「今年できいでばす」などと玄関先で話している横で誰よりも先に私がりんごをかじって怒られていた。そう、まずはいただきもので特に初物はすぐに仏間に備えるのが一般的だ。神様とご先祖様が食べてから私たちが食べる。物事には教科書には載っていない厳しいルールがあるのだ。一通り儀式を終えるとまずはそのまま食べて、長期保存用に支度をする。そのまま屋外の納屋においても雪深くなるまで食べられるが、祖母と一緒に大量のりんごをジャムや甘露煮にするのが毎年恒例だ。問答無用でりんごの皮剥きを手伝わされるのだが、これが子供にとっては拷問のような時間だった。あまりに大量で一生終わる気がしないのだ。祖母は慣れた手つきであっという間に剥き終わるのが何だか悔しかった。剥いた皮は乾燥させて漬物の香り付にするところまで丁寧な仕事ぶり。完成したジャムや甘露煮は見事な出来で、本当においしかった。そうやってできたものを祖母と一緒に近所中に配り歩いたものだ。近所の人たちは祖母の手作りジャムや甘露煮を毎年心待ちにしていたそうだ。そうしてまたお礼にりんごをもらってくる。りんごのお返しは結局りんご。一生終わらないスパイラルなのだ。苦労して大量消費したはずなのに、またりんご増えたじゃん。

 祖母がよそへ行ったときに家に柿の木と栗の木がないと嘆いたら、翌日から連日のように柿と栗が届けられるし、銀杏が大好きだった祖母に言われて、近所の神社に銀杏を拾いに行ったら近所の人から「あれ!アイさんの孫!」なんて言ってすでに拾った大量の銀杏を渡された。「あれ~!めやぐだのぉ♡」なんて嬉しそうな顔の祖母ははじめからわかっているのだ。そろそろあれが食べたいと思ったらどっかの誰かが運んできてくれるということを確信している節があった。大量の柿や栗の皮をむく作業中、祖母が口ずさむ歌を聴きながら「本当は見たいテレビがあるのに」と不満に思っていたが、祖母が歌っていた「りんご追分」や「くちなしの花」など歌を覚えるのが早く、歌うと祖母が大いに喜んで褒めてくれた記憶がある。今でも古い歌が好きなのは当時の嬉しかった記憶にアクセスできるからなのだろう。
 干し柿にしては正月から春までこたつにもぐって食べて過ごしたし、みかんを送ってくれた遠い親戚やお世話になった人にきれいに粉ふいたみっぱいい干し柿を選んで送ったりしていた。家に帰れば知らないじさまばさまが縁側で談笑していて、帰りに祖母が作った栗のおこわを持って帰っていく。栗おこわ目当てに集まってくるから、うちには店で使うような大きな蒸し器やお鍋がたくさんあった。また、祖母は山菜ときのこがわかる人だったので、父と祖母と私でよく山に行って採ってきては軽い下処理をして近所に配り歩いた。祖母が作るボリ汁やマイタケのおこわは絶品だったので、町内会の集まりには必ず振る舞っていたようだった。
 「もらったら今度はそれ以上に手をかけて返す」という精神を祖母は死ぬまで貫いた。大正生まれには珍しい「アイ」という名前の通り、亡くなる前後には世話になったという人々がたくさん訪ねてきて、祖母がどれだけ人を愛し愛されていたのかを実感した。

 ところかわって一人で内陸に住むようになっても状況は大してかわらなかった。地元を離れ、他県へと住処を変えても「おすそ分け」は続くのだ。ある日自宅に帰ってきたら玄関の前に大量の白菜や大根が置いてあるのは日常茶飯事だ。そして問題は誰が置いて行ったか心当たりが多すぎることである。丁寧に置手紙がある場合もあるが、たいていは連絡なしで置いていくことがほとんどだ。どれくらい大量かというと、10本10玉10束が基本だと思っておいてほしい。おすそ分けレベルではない、店舗で仕入れるレベルだ。もちろんすぐには食べきれない量なので、届くとすぐさま長期保存用に下処理作業がはじまる。帰宅が遅くても仕事が忙しくても関係ない。突如として連日徹夜するはめになるのだ。スピードが勝負、大根は漬物用に干しておく必要があるし、白菜は2~3日おひさまに当ててから塩漬けにして…などと野菜を見るとおのずと体が覚えているのだ。やっと終わったと安心した矢先に「おうい車のトランク開けろじゃ~」なんて言われてドカドカまた同じ野菜を積まれて…さすがにキリがないのだ。食べ物を粗末にするなときつく祖母に言われて育ったため、絶対にダメにしてはならない!腐らせてなるものか!意地でも食べ切るのだ!!

 春になるとバッケ(ふきのとう)・行者ニンニクなど山菜からはじまり春採れ野菜が採れた順に届けられ、夏前には30キロ用の米袋いっぱいにじゃがいもがごろごろ入って2袋、そろそろミョウガもくるなぁ。夏本番は夏野菜の乱、トマト・ピーマン・なす・きゅうり・きみ(トウモロコシ)・オクラなんかが日替わりでビニール袋いっぱいに届く。赤シソジュースを作る専用の変色した大きな鍋を納屋から引っ張り出して準備しておく頃だし、梨やぶどうがなったよと友人から報告とおすそ分けが届いたかと思えば、悔しいが津軽に劣らない南部のおいしいりんごも届く。そろそろ新米が食べたい季節にはちょうど私の誕生日がやってくるのでプレゼントとして半年分くらいしっかり届く。雨が多い秋だときのこが豊作なので、ほんの短い一瞬だが天然のきのこをいただけるので虫出し用の唐辛子は準備したい。菊の花の乱からはじまり怒涛の秋冬野菜、大量のさつまいも、ごぼう、ブロッコリー、白菜や大根、長芋、玉ねぎ、ネギへと続く。同じ野菜であっても春採れと秋採れの味や触感の微妙な違いを感じるし、採れたてだったり乾燥だったりでにんにくや玉ねぎなんかはなんだか一年中もらっているし…店で買う必要などないのである。
 近所には畑をやっているじさまばさまが多く、歩いていると声をかけられたり声をかけたりするものだから顔を覚えられる。そのまま畑から引っこ抜いてきて「これ持っていけ」と渡されるし、「家どご?」と聞かれて教えると「あとで持ってってけらぁ!」と笑顔だ。個人情報などいくらでも提供して歩いて四方八方に愛相を振りまくものだからすっかり仲良くなる。食材のためなら個人情報を易々と売り払う私はただの散歩のつもりで家を出たら手ぶらで帰ったためしがない。もはやお地蔵様にそっと手を合わせるような感覚で、大地のように広い慈悲で包み込んでくれる生けるレジェンドたちに敬意を示して歩くのだ。贈り物に心当たりがありすぎるというのは近所にそうした生けるレジェンドたちが5~6人いるためだ。彼らが私の食生活を支えている、いや!この地球を支えているといっても過言ではないのだ!
 そのお姿を見かけたりするとお菓子と缶コーヒーやお茶を持ってかけつけしばし歓談、人生の大大大先輩のありがたい話を聞かせてもらう。大体は持病の話か家族親類の愚痴だ。息子夫婦はちっとも音沙汰がないとか、娘が一向に嫁に行かないとか、配偶者とさっぱり会話もしないとか、透析になりそうだとかそんな話を小一時間聞く。その話はとても興味深いのだが結局は同じ話ばかりになる。堂々巡りになりそうなところで「ところであの葉っぱって何の野菜?」と聞くとたいてい「これか?こりゃ〇〇だよ、食うか?」と返ってくると心臓が高鳴る。下心など持っていないと言えばうそになる。なぜなら祖母同様、私はほとんどの山菜ときのこを見分けられる女だ、一目見て何の野菜かなんて容易くわかる。何がどこでどのように育ち、いつ採れるのかも重々承知の上で聞いている。この目で見てきた祖母の手口をそっくりそのまま使っているだけだ。いつの間にか相手が自ら快く差し出してくれるという状況になるから不思議なものだ。
 『かさじぞう』の無欲な爺様とは違う、涼しい顔して貪欲な祖母に育てられた私は虎視眈々とアンテナ高く町内を練り歩いているのだ。運が良い日は道路で運搬中トラックから抜け落ちた大根を拾うことだってできるし、コインランドリーを掃除してるだけでお客さんから菓子パンの差し入れをいただくこともあるのだ。

 欲深き心でいただいてばかりではいけないのだ。いただいたものは加工して、友人知人に配り歩く姿も祖母と同じである。私のなんとか醤油漬けや、なんとか味噌、漬物や干し柿は祖母直伝なので持っていくと「今年もこの季節がやってきたのね!待ってた!」と言ってもらえる嬉しさがある。特にばっけ味噌やなめこ麹味噌、りんごジャムはもはや1年前から予約制だ。どちらかが死ぬまで!という生涯契約をしている人も中にはいる。あまりに喜ばれすぎてちょっと重荷になってきたところはある。それでもこうした「おすそ分け愛」はどうにか続いてほしいと心から願っているのだ。どこにいようとも祖母のように自然を愛し愛され、人を愛し愛されながら生きていけたらそれは喜ばしいことではないか。今年の栗でけぇな!!とか、今年あんまり採れねぇんだいの、なんて独り言しゃべって祖母に習った歌を口ずさみながら下処理をする。こうやって旬を感じるのも日本人として東北民として【何もないのではない、変わらないものがあるという魅力】をいつまでも大切にしていきたい。

 スピリチュアルに傾倒しているわけでも特別信心深いというわけでもないが、それなりにご先祖様やそのへんにいるという自然の神様たちを大事に思う心は持っている一日本人だ。私と一緒に暮らすということは、朝から夜中まで鳴り響く歌声と玄関が開けられなくなるほど山積みになった自然の恵みがセットになって一生ついてくるということなのだ。雪の降る季節になればより一層『かさじぞう』の世界そのままを体験することになる。下心たっぷりの欲深き笠売りの私。そもそも祖母は『かさじぞう』の感想について、自分なら手ぶらで帰ってくるような爺さんは家に入れないなんて言っていた。まぁ現実とはそんなものである。

いいなと思ったら応援しよう!