私とやきとり
まだ明かりがついていない大きな赤提灯の下で、開店するのをソワソワしながら待っていたのだが、常連客らしき3人が私の前を通り過ぎてさっさと店内へ入っていった。曖昧な開店の仕方だなと明かりがつくまで真面目に待っていた私は恥ずかしくて居たたまれなくなったが、ここで引いてなるものかと常連客の後に続く形で暖簾をくぐった。
「はぁ?つぎ何人?今来たばかりだからすぐ出ないよ何も」
「あぁ…あとから2人くるんだけど、いい?」
「はぁ…いいよ、ほら空いてるとこ座りな!」
相変わらずの威勢のよさで出迎えるのは御年86歳になる肝っ玉女将である。やや腰が曲がりかけて足も悪いが、肌の艶や血色が良好で真っ黒な髪をきちんと七三に分けている。その元気でたくましい姿は生涯現役だとみなを納得させている。この町では珍しい東京生まれの東京育ちで、創業以来ずっと一人で切り盛りしているそうだ。コロナ渦で一時閉業した時はさすがに元気がなくなったと噂に聞いていたが、全くもって心配ないようだ。ちっとも変っていないどころか、一段と声が大きくなってパワーアップしているように見える。
常連客にさえほんの一瞬緊張感を与える貫禄、ほとんどの新規客はこの時点で泣きたくなるかもしれない。一見さんお断りの店ではないが、入店時には少なからず傷を負うため何度か来たことがある人に連れてきてもらうか、予め予備知識を授けてもらってから来るのが正しい。私のようにだいぶ久しぶりに行く身ではやはり萎縮してしまうなぁとひとり苦笑いになるのである。若者は“昭和レトロ”と呼ぶであろうが、その表現ではどうもお洒落すぎる。創業50年になるそうだが、当時から何一つ変わっていない昭和のまま時が止まっている店内はBGMなど何もない、聞こえてくるのは今のところ換気扇の大きな音と女将の大きな溜息だけである。
人一人がやっと通れるような通路に女将が仁王立ちしてこちらを睨んでいるものだからすっかり怖気づいてしまい、要らぬ迷惑をかけぬよう女将を避けてカウンター席に座ろうとした。その一瞬の怯みを逃さなかった女将の大きな声が背後から飛んできた。
「3人でしょ!?だったらそっち(テーブル)の方がいいに決まってるじゃない!!」
「あ、あぁ…そ、そう?…あっちでいいの?」
「いいよ、うちは相席しかないんだから」
と言い放つと、ふいと顔を横に向けてのそのそと足を引きずりながら通路を空けてくれたのだった。大きな溜息をつきながら客に聞こえるようなボリュームで独り言をつぶやいて厨房へ向かう女将とすれ違うように移動する。
奥には10名は座れるような立派な天然樹の1枚板テーブルが2つ、常連客3名がすでに手前のテーブルに着席していた。さてどこに座ろうかと奥のテーブルを見やるとサラリーマンの男性二人が落ち着かない様子で座っているのが見えた。私は彼らと相席しようと決めて軽く彼らに会釈をしながらやっとのことで席に着いた。椅子も一続きになっているため、私がここに座ると彼らの出入りを塞ぐ形になってしまうのだが、ここでは仕方のないことだ。だからそんなに困った顔をしないでほしい。 「…普通の焼き鳥屋だと思ったんだけどな…」
「…なんかうっかり注文でもしたら殺されそうですね…」
なにやら肩をすくめて小声で話し合っている彼らはどうやら地元の人間ではなく、仕事でこの地を訪れているだけの一般人のようだ。入る店を間違えたというような失敗顔をしている彼らは、話している言葉がきれいな標準語だし、身に着けているものからしておそらく都会人だろう。ここは通常の店とは違い、この町一位二位を争うディープな店である。ファーストコンタクトからしておそろしく癖が強い、後頭部を突然ぶん殴られたレベルの衝撃だったであろうから無理もない。消毒液のにおいがぷんぷんする冷たいおしぼりは山と積まれてご自由にどうぞだし、小皿は勝手に戸棚から取ることになっているが、事情を知らないと何をしたらいいか困るだろう。勝手に動けば制止する大きな声が厨房から飛んできそうで身構える。
おそらく4畳にも満たない厨房では、業務用のガス台に炭を直にくべて最大火力で豪快に燃やしている。ここの女将と同じくらい容赦ない火力が赤く赤く炭が燃やそうとしているところをぼーっと眺めていると突然女将の大声で我に返る。
「生はそこ!!瓶ビールはそこ!!グラスはそこ!!」
厨房から顔をべろっと出して女将が叫ぶ。やっと女将のゴーサインが出て一安心、私はこの鶴の一声を待っていたのだ。飲みたきゃ勝手に持って行けスタイルで自己申告であることはお察しいただけると思う。冷蔵庫から冷えたグラスを取ってサーバーから自分で注ぐ生ビールが世の中で一番うまいと思うのは私だけだろうか。尻込みするサラリーマンの彼らを励まして先に行かせ、今か今かと順番を待っていた。やっと私の番だという時に、ブシュ…ブシュ…と不穏な音を響かせてうんともすんとも言わなくなるサーバー。なんとここにきてサーバーの残量が底をついてしまったようだった。さてどうしたものかと考えていると常連客3名のうちの一人が女将に教えてくれたらしい。
「はぁ!?ちょっとどいて」
女将は前掛けで手をぬぐいながら厨房から出てきて私を押しのけた先にあるピンクの公衆電話の受話器を取り大きく息を吸った。
「たるーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!」
たった一言そう叫ぶとガチャリと受話器を乱暴に置いた。サラリーマンの彼らは目をぱちくりさせて驚愕している。何度かこの店に来たことがあるとはいえ、そんな場面を初めて見た私も思わず吹き出しそうになった。女将は一体どこの誰に電話をしたのだろうか。すると3分もしないうちに店の引き戸がガラガラ空き、ビール樽を抱えた男性が入ってきたのだ。2軒隣にある酒屋の従業員だと後で女将に聞いたが、店名も言わずたった一言“樽”と叫んだだけで交換に来る契約にグッときてしまうのだ。あっという間に交換を終え、言葉を交わさずアイコンタクトで伝票を置いて去っていく従業員に拍手を送りたくなったのは隣のサラリーマンたちも同じだったようだ。
「早い!!!!このスピード感、うちにもほしいところですね!!」
二人のうち若手であろう男性が声を弾ませた。今ので彼らの緊張感は少し解けたように見えたが、以前として注文のタイミングがつかめないようでどうしたものかと話し合っている様子。確かにここはある意味日本一注文が難しい店なのかもしれない。ただ黙って座っているだけの客に向かって女将は、
「ほら!!!奥の男性二人!!そこの梅干と南蛮味噌、持っていきなさいよ!!!」などと大きな声で指示し出すから、彼らは慌てて立ち真ん中のテーブルに無造作に置かれた梅干と南蛮味噌が盛られた皿を取り分けに向かったので、私は一度席を立ち彼らが通るのに道を譲った。
「ほら、次となり!!!」
あぁ次は私だったか。はぁいと生ぬるい返事をして取りに行っている間に次々と店内にいる客に向かって畳みかけるように女将がアナウンスした。
「漬物から出すから!きゅうりのからし漬け、大根の醤油漬け、あと普通の漬物!!順番に取りにきて!!」
「言っておくけど漬物はぜんぶ私の手作りだからね!!!おいしいよ!!!」
「その次は煮込みね!!!できたら出すよ!!」
「焼き鳥の注文はそれから!!!!」
「ほら、そこの紙に何杯飲んだか書いておく!!」
ここでは女将のペースがすべてで絶対に従わなければならない。うっかり注文をしようものなら張り倒される勢いだ。客はみな、二つ返事で女将の指示通りキビキビ行動する。注文も中途半端に破られた黄ばんだメモ用紙となかなか書かさらないペンで書いていくのだが、女将が読める大きな字で書かなければ怒られてしまうので注意が必要だ。今のところ自分で注ぐ生ビールしか飲めないのだろうと諦めて黙々と飲んでグラスを空けるサラリーマンの彼らは、今この瞬間を殺伐としたイメージでとらえているのかもしれない。しかし、ここまでくれば私にとっては心地が良い空間になっていて、気軽に口を出しては女将に怒られてヘラヘラしていられるのだ。昔ながらの強烈な酸味の梅干をつついて生ビールを飲み、南蛮味噌を漬物に乗せて食べていると店の引き戸が不慣れな音を立てて開いたため、連れの後輩が勇気を振り絞って店に入ってきたのだと悟った。
「誰?どこの人よ」
女将にいきなり睨まれて言葉を失っている後輩に笑ってしまった。彼は私と同じ職場にこの春この町に来たばかりの若者である。ちなみにこの店を私に最初に紹介してくれた一番勝手がわかっている常連客の9つ上の先輩はまだ来ない。
「クセがスゴすぎますよ…」
私を見つけて女将からこそこそ隠れるように彼は席についてやっと口を開いた。簡単に店内のしくみと女将について説明すると、若い彼はさっそく適応力を発揮して生ビールを自ら注ぎに行き、塩辛い漬け物に南蛮味噌をのせて食べている私の真似をしてつまみにしている。そうこうしているうちに、ネギがこれでもかというほど盛られたモツ煮込みが丼ぶり4つお盆に乗せられた状態で常連客が運んできてくれた。そこにいる人は誰でも何にでも使う主義の女将だ、持って行けと命令されたのだろう。
「2つずつ分けな!!!」
厨房から大きな声で叫ばれることには早くも抵抗がなくなってきた様子の相席サラリーマン2名と、まだ苦笑いで何か言いたげな後輩が丼ぶりを分ける。間違いなくおいしいこの店の名物の一つなのだが、丼ぶり一杯480円を一人で食べるのはかなり大変な量である。こちらは食べ盛りの若者を含めた三人で二杯だから何とかなるが、彼らは一人一杯食べなければならない。頼んでもいないのに容赦なくテーブルに置かれて困惑を通り越した状態であることは間違いなかったが、一口運ぶと目の色が変わり黙々と食べ始めるのだった。
「いやうまい、こりゃうまい」
「なんなんすかね、うまいっす」
さっきまで固まっていた彼らがうまいとしか口から出てこない。特に中年男性の方は一味唐辛子をこれでもかと振りかけて唸りながら食べているのに私は顔がにやけてしまった。勢いよくたくさん食べる男性の姿はたくましく見えて魅力的である。
「うちは炭火でやってるからね」
さっきガス台で強引に火をつけていた炭がやっと焼き台に並べられているところで、パチパチとはじける音と墨同士が擦れる音がカンカンカンと響いてきた。換気扇の音が一層大きくなるのが聞こえ、店内もじーんとあたたかくなるのを感じた。
読めるか読めないかギリギリの黒ずんだ焼き鳥のメニュー札にも趣を感じ、焼き鳥全種類1本70円という値段にも昔と変わらない魅力がある。焼き鳥の串をひっくり返す女将の手はゴツゴツしていて所々に変形した箇所があり少しこわばりがあるのだと見てわかる。私の祖母も関節リウマチが進行して似たような形の手をしているから懐かしくてつい触れたくなる。思うように動かないのに器用に作業をこなしている様子から、長年自分の手の変化を熟知していてその使い方を工夫してきたのだろう。私はそういう職人の手を見るのも触るのも好きである。
「頼みすぎだよあんたたち」
女将はため息をつきながら持ってきた焼きたてのレバーやハツ、タン、コブクロ、ガツ、鳥皮の大きさにみな驚く。どれもサイズが他の店よりふた回りほど大きく見え、とても70円の大きさではないように思う。タレはさらさらとしたさっぱりした味でいくら食べても飽きることがないし、塩は濃いめに振ってあり酒に合う。正直漬け物ともつ煮込みで腹が膨れていたが、串を見ると不思議と胃袋がスペースを勝手に空けはじめ受け入れ態勢が整うのである。女将が4時間かけて一人で串打ちをしたという串焼き、この町で一番うまい焼き鳥屋だと叫んで歩きたい。
ちょうど三人分の串焼きが出来上がった頃になってやっと先輩が顔を出した。彼女の姿を見ると女将の顔もぐっと明るくなりワントーン声が高くなったように聞こえた。さすがは常連客、余裕綽々で女将に近況を手短に伝えると迷わずグラスを冷蔵庫から出して生ビールを注いでから私たちが待つ席についた。
※一部にフィクションを含んだ回顧録です。