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#004 石場の呼次松

 「大津市名勝」シリーズの絵葉書で、タイトルは「石場の名木 呼次松」。撮影年代は昭和初期と推定しています。

石場のこと

 呼次松(よびつぎのまつ)とは、石場にあった松の名前。現在の大津警察署の西側あたりにありました。
 説明が必要な写真なので、少しずつ。まずはこの場所についてですが、石場の地は、江戸時代は東海道を行き来する旅人が、琵琶湖を船でショートカットする場所、いわゆる「矢橋の渡し」の大津側の乗り場でした。ちょうど、大津宿から東(江戸方向)へ向かって歩くと、このあたりでようやく琵琶湖岸に行き当たるので、位置的に良い場所だったのでしょう。この渡しは、「急がば回れ」の語源になったという話がありますが、他のサイトでもわかるので、ここでは触れずに江戸時代の石場の様子を見てみます。
 『近江名所図会』には、「矢橋の渡舟この所に着く。琵琶湖眺望の佳境なり。参宮人の酒迎など催す茶屋あり。」とあります。また「猟船など多し。遠見燈籠あり。湖魚・鯉(コイ)・鮒(フナ)・鰣(ハス)・ワタカ(魚編に奉)・うなぎの類を売る」と続き、渡し舟の発着点として賑わっていたことがわかります。広重が描いた東海道五十三次の中には、石場の風景が取り上げられたものがあり、鮒をふるまっている茶屋が描かれています。

呼次松のこと

石場の名木 呼次松(大津名勝)

 さて、絵葉書いっぱいに枝を広げているのが呼次松(よびつぎのまつ)です。絵葉書に見える松は背は決して高くないものの、1本の幹から四方に枝を伸ばし、なかなかの風格です。枝は支えの木や棚が施され、周囲は人が入らないように柵があり、大切に管理されていたことがわかります。
 絵葉書では名木と書かれていますが、大正2年に滋賀県が刊行した『近江名木誌』にこの松が紹介されています。要約すると、この松は寛文年間にこの場所に住んでいた守魚吾兵衛という人が植えた松で、樹齢300年、枝は四方に伸びて10間(18メートル)位になって地面を覆っていた書かれています。書かれた年代もそんなに離れていないので、説明と写真の様子はほぼ合致します。
 大切にされていた松ですが、現存していません。ただし、大津警察署の西側にある児童公園には、この松にちなんで「呼次松児童公園」と名付けられています。公園の場所は埋立地で、実際の松は公園の南東あたりにありましたが、名前が残されているのは喜ばしいことです。

石場常夜燈のこと

石場の常夜燈(現在)

 絵葉書のもう一つの見どころが、松の後ろにある常夜燈です。現在は、びわ湖ホールの横に移されています。自身が子どもの頃には琵琶湖文化館の前にあったので、常夜燈は元々あった場所から2度移されたことになります。このあたりは埋め立てられて、江戸時代の燈籠のあった、大津警察署付近は琵琶湖が見えないので、今の常夜燈の場所は、湖岸で本来の役割を果たしているといっても良いのかもしれません。
 常夜燈の来歴を簡単に記すと、建造は弘化2年(1845)で、高さ8.4メートルもあります。常夜燈の基壇には、建造にあたって寄進した大津・京・大坂などの船仲間の名が刻まれていて、常夜燈が多くの人々にとって必要なものだったことが実感できます。
 石場の常夜燈は他のマイコレ絵葉書でも紹介したいので、ここではこれ程度にしておきます。

 いずれにしろ、昭和初期には絵葉書が撮影された場所は埋め立てられておらず(始まったのは昭和30年代以降)、この頃には松の見事さは勿論、東海道の名所として絵葉書の1枚に取り上げられたのでしょう。

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