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【明晰|小野寺里穂『いきしにのまつきょうかいで』の感想の草稿①】川柳に魅了されたわけは語の荷下ろしの鮮やかさだったのだが

○明晰

 もう何も深く考えられなくなっている。もやがかかったまま。主治医に、よくないことを考えるトリガーになるのであまり、夕方になってからは脳を使わない方向にもっていくために、本を読まないほうがいい、と言われたことがある。本を読まないほうがいいは具体的なアドバイスであって、要するに夕方からあんまり考えこむと眠れないし、眠れないともっと体調わるくなっちゃうよってわけなんだから、そのメッセージだけ受け取って、適宜それと同等の対策を生活にさしこめばいい。 とはいえ、単に自分のライフイベントや、他人のライフイベントに立ち会ったり、遊びすぎだったり、さぼりすぎだったりで、順当に体調が悪いとか、あるいはもともとそれほど頭がよくなくて、難しいことはなかなか答えが出ないから、もっと勉強したりしなさい、ということなのかもしれない。 何ヶ月か睡眠を整えれば、明晰になるんだと信じているけど。

○小野寺里穂『いきしにのまつきょうかいで』の感想の草稿①

 川柳は、語が背負っているものを降ろしてあげて、その疲れ切った姿を見せつけることもできるし、まるで背負っていないかのような施しをしてあげることもできる。この施しが、ほかの表現だとなかなか難しい。 この難しい施しに気持ちよく思うことだって、ある。だがこの施しに、気持ち悪くなることだって、ある。

ベランダで洗濯、盗視、死別
湿度の具体性、模倣、転換

 漢字が結合することで結実する語は、背負っているものが多すぎるうえに、その中身が検査をせずとも概ねはっきりしているので、例えば差延という造語にチャンスがじゅうぶんに与えらる。 引用した2句において、語は、ところが荷物を背負ったままだ。人類が屋根の下で暮らした歴史の長さ、その最先端にあるわれわれの生活に関する不確かで、あまり参考にはならない描写のために選ばれた熟語は、そのまま提示されている。というか、そのまえに「人類が屋根の下で暮らした歴史の長さ、その最先端にあるわれわれの生活」が提示されていることに注目しなければならないだろう。勇気ある諸君は生活史を編むために、小野寺の句を参照してもよい。 ベランダは、屋根と屋根でない曖昧な空間であるからこそ、盗視の現場であるのだから、洗濯から盗視までは確かな描写である。ついで死別。ベランダの不確かな描写。諸君は困惑する。まだベランダから身投げをすることがそれほどあるのか、と。私は死別に近い回顧を納得する。回顧がベランダにおける洗濯、盗視においてついて回ってくるものであることを了解する。語は荷物を背負っている。 湿度は、屋根を持つ建造物のなかか、あるいは屋根の外であってもいい。生活がこの句集の至る所から迫ってくるのだが、それを差し引いたとしても、湿度の描写のために最初に(とはいえほとんど三者同時に)掲げられた具体性が、湿度に舞台を与えている。湿度がある舞台を模倣するということも、転換するということもありうる。これは私の(多分あなたの)生活そのものではないか!寝て起きてを繰り返す間に出くわすほんものの場面が、ある具体性を模倣を経由したうえで転換されていることが、湿度を介して了解されることが!湿度が存在しない記憶などない……。
 正直に申し上げて、私が川柳に魅了されたわけは語の荷下ろしの鮮やかさだったのだが、この生活の不確かな描写に感動してもいいのだと気づいた。『いきしにのまつきょうかいで』は私を魅了した。

今日の目を編集してるので待って
眉山の交差するテクスチャー
休みが終わって睫毛ばかり散って
ほっぺたの肌理さわがしい今日のばくはつ

 屋根から屋根へ、屋根から屋根の外へ移動する手前に行われる変身、というよりも内省の機会としての化粧。この内省を経て、結局のところ小野寺が提示するのは、内省の産物ではなく、まだ化粧の作業で発見した身体である。これは小野寺の句の大きな特徴だろう。小野寺は精神を分析するというよりは、われわれが疲れ果てて寝転んでいるなか、まだ走る、まだシャトルエポケーを続けている。エポケーの我慢大会。シャトルランとはまったく異なる電子音は、回数を重ねすぎて、もはや原型を失い、あらたなリズムを再構成しはじめている。シャトルランはランをくりかえし続けるのであって、シャトルエポケーはエポケーをくりかえしつづけるのである。

んはじめていたむとこそこもわたしか

 句会初出時(川柳句会ビー面2022年12月)にて、私は無記名の段階で “清水将吾「身体感覚は身体を空間に位置づける力をもつか」を思い出しました。「こそ」という強調が文法の外で潜ませてあったりするのが面白い。「ん」が認識するときの速度をかえってうまく表している。気づきのより写実的な描写。あと、「か」で締めるのに、っぽさみたいなものが表出している。” と評した。シャトルエポケーの結実がこの句であると思われる。

 シャトルエポケーにおける電子音の再生は、小野寺先生によって仕組まれたものだ。先生は、この句集においては、自分で再生し、自分で走っている。

う  み   逃げられないう つ  わにそそがれてい く   の

 小野寺が荷下ろしとは別の仕方で、語に施しを行う。端的に言って、ひらがなだ。ひらがなは分離を可能にし、テクストを楽譜にする。(①終了。つづく)

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