2020年10月10日の日記(「わっしょい 西早稲田 居酒屋」)

これは、2020年10月10日に書かれた、友人数人だけが見ていた飯ブログです。2020年の冬に、たった10本ほどですが、書きました。ササキリが、文芸創作を始める前の個人的な日記であり、今読むとあまりに拙くて読みきれませんが、「わっしょい」にひさびさに出会いそうなので、思い出しましたので、置いておきます。

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枝豆、ピザ、サラダ、フライドポテト、唐揚げ、ネギマ。キリンの一番搾りがメニューに入ったピッチャー交換式の飲み放題で2000円、安すぎる。 

「わっしょい」に来た。早稲田のどうしようもない連中がぞろぞろとやってくる店だ。この辺じゃ有名な居酒屋で信じられないくらい生ビールが安い。だいたい、2000円の料理コースと飲み放題で生ビールが出るなんてなかなかない。オレ自身はどうしようもない人間だ。更に言えばどうしようもない連中とばかりつるんでいた、にも関わらずここには初めて来た。所属する共同体で開催されたプチ飲み会だった。
とりあえず席に着く前に、周りの人間に気づかれないように靴下をトイレのゴミ箱に捨てた。というか叩きつけた。破壊的で絶望的な欲望の昇華だ。そうでもしなければ目上の人間にずっと暴言を吐き続けるか、ずっと端っこで黙って煙草を吸っているかしかできないと思ったからだ。
出てきたものは枝豆、ピザ、サラダ、フライドポテト、唐揚げ、ネギマだ。キリンの一番搾りがメニューに入ったピッチャー交換式の飲み放題、こいつは本当に最高だ。ピザ、フライドポテト、唐揚げは冷凍食品を丁寧に指示通りに処理して適切な温度にしましたという感じだ。つまりクリアなんだ。特に冷凍臭さもなく、いつも親が作ってくれる弁当に少なくとも一品は冷凍食品が入ってたやつならうまいうまいと言いながら食える。最悪で最高だ。そもそも酒だけでモトは取れているんだ、文句言うな。まずくてうまい。いいじゃないか。実をいうとオレはこれが嫌だからこの店に行ったことがなかったんだ。ネギマはよくわからない、なかなかに酔っていて覚えていないんだ、でも他の食品と同じことだ。枝豆についてだが、気分が悪くて食えなかった。食わなくても問題がないから誰にも迷惑をかけてない。ただ、気分がどうしても上がらなくてオレだけは無理だった、それだけだ。
枝豆を各テーブルに配膳するために用意されていた取り皿は彫三島の意匠だった。彫三島というのは、陶磁器のジャンルの一つだ。なぜこのような呼び方をするようになったのかは諸説ありだが、三島暦で使われる文様と似ているからという説が有名だ。三島暦とは静岡県三島市にある三島大社がつくっていた暦だ。とにかく彫三島が好きだ。特に「木村」と銘のついた茶碗なんて最高だ。今なら川瀬隆一郎なんかがいい三島をつくる。

彫三島茶碗「木村」

三島において一番何が重要か?それは本当に簡単なことで、黒いことだ。白の文様以外の部分が黒いことだ、灰色であってはいけない。焼き方を間違えたり、釉薬を厚くかけすぎてしまったり、鉄分がそこまで多くない土を使ってしまうと灰色の三島ができあがる。こいつは本当にださい。そういうださい三島を作ってしまう作家はたくさんいる。それから量産品(工場で沢山つくられるやつだ)は基本的に灰色だ。安い雑貨屋に売っている取り皿や、ドン・キホーテに売ってる安い土鍋とかでよく見る。ここわっしょいのも漏れなくそれだ。オレは陶磁器が好きだ。趣味は何?と聞かれたら「陶磁器鑑賞」と答える。いい陶磁器を見分ける力が備わっているんだ、信じてくれ。いちいち街に溢れかえるどうしようもない器に目鯨立てるのを止めた。とある安い雑貨屋で働いていたときに悪質な陶器が100円で飛ぶように売れていくのに耐えられなくなり、仕舞いにはレジで一人で泣き出して辞めたときからだ、三か月とちょっとは続いた。何はともあれ、わっしょいは悪くない、大体いい食器で飯を食いたいなら家かそれなりの料金を払ってそれなりの飲食店に行く。でもどうしようもない器の中でも、たまに三島だけは許せなくなってしまうときがある。こんなことをしていても生きづらいだけだ。高架下の壁に塗られたFuck you!という落書きを見ていちいち悲しくなるくらい無駄なことだ。わっしょいはオレの生き方の下手さを指摘した、なんて賢い店なんだろう。

店の外で煙草を吸っていたら酒のポスターに赤い何かが塗られていたことに気づいた。瞬間的に「経血だ。」と思った、どうせ多分違う。隣で煙草を吸っていた人間にそれを伝えたら「どうかしてる。」と返された。オレは店内でも煙草を吸えることを知り、4本目の煙草から店内で吸い始めた。席の端っこでひたすら空気の代わりに煙を吸い続けて、目上の人間に暴言を吐き続けていた。靴下を捨てたおかげで暗いまま黙りこくってしまうのだけは避けられた、功を奏した。

ふらふらしながら帰った。二次会の有無さえ確認せずに帰宅した。トイレが故障している、流した水が止まらなくなったのだ。電話すればすぐに修理してくれるはずなのだが、ただの電話がなかなかできずに一週間が経つ。カビだらけの水槽に手を突っ込んで、とある場所を押してやると止まる。経血を触るよりはマシだ。ただ手がカビと汚れで真っ黒になる、最悪の気分にもなる、これらは我慢ならない。この作業が億劫すぎて、糞を一回分、ションベンを何回分か流さずにためていた。ふやけたトイレットペーパーが浮かんでいる。オレは糞の画像は載せない。オレはオレ自身のクソな部分を書いても、糞自体は友達にしか見せない。前にテレビ電話中に糞をして、その糞を見せたことがある。ここでは糞は見せない。これは約束だ。実を言うとオレは約束を守る人間だ、約束を守ることに対して何の意味もないと思いながら、それでも守る人間だ。長く永く生き存えるための術としてそうしている。約束は守ったほうがいい、そしていつか破っていい。破った時にオレもオマエも変化する。下か上かはわからない。
約束を何にかける?オレにかけるか、オマエにかけるか?それとも月にかけるか。月にかけてはいけない、ジュリエットがそう言っている。

ああ、月に賭けて誓うのは止めて。移り気な月はひと月ごとに満ち欠けを繰り返す。

「ロミオとジュリエット」

そう、満ち欠けする。こいつがかけた夜ならば、約束は果たされなくてよい。なぜなら月がなく、かけた対象がないからだ。これも#REF!だ。誓うべき対象が存在しない。約束は存在しなくなる。月とは保留の象徴だ。「君は最高の女の子だ。信じてくれ。あの水面に映って宙に浮かんでいる月にかける、僕は誓う。君は本当に最高の女だ。」と誰かが神田川沿いで口説いたとする。これは保留だ。最高の女であると結論付けていない。何故なら月にかけてしまったからだ。月とは保留なのだ。満月とは暫定的な結論だ。いずれかける。太陽の動きに合わせてかけちまう。藤原道長みたいにはいかない。どうしようもない、抗いようがないのだ。藤原道長はプロテスタントだ、月のプロテスタント。己にはかけられない。己自身は最初から最後までかけちまっているからだ。オレもオマエも望月になる日はこない、一生朔月のままだ。太陽に合わせて寝て起きてなんかしてられない、ずっと保留だ、ずっと狂ったまま。

西早稲田の住宅街(SS1/40 F2.8 ISO2500)


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