思いのかけら1 〜向き合うことについて〜
向き合うのは、恐い。
たとえば、歯の痛みと向き合うのは、僕にはとてもおそろしいことだ。
時おり、食事中に歯が痛いと感じることがあるけど、歯医者に行くのが恐くて行けずにいる。
「あー、これは相当ひどい虫歯ですね。すぐ治療しないと」
なんて言われて、あの脳裏にこびりついて消えないドリルの音が耳に飛び込んでくるところを想像するだけで鳥肌が立つ。
『これは虫歯じゃない。ちょっと歯の調子が悪くて痛むだけ』と思い込んで、現実に蓋をしてしまう自分が居る。
そして、何より、人の心と向き合うのが、恐かった。
それは自分自身の心も含めてだ。
自分を受けてもらえないんじゃないかという不安、本心をさらけ出す勇気、相手の本心を受け容れないといけなくること、ぶつかって傷つく可能性。
人の本心と向き合うことは、たくさんの”恐い”を乗り越えなければできない。
目を背けて、白黒つけずに曖昧に生きていれば、不幸にならなくて済むことが世の中には山のようにある。
知らなければ幸せでいられることが、たくさんある。
人の本心と向き合うのも、その一つだ。
僕はずっと、嫌なことから目を背けて生きてきた。
見たくないものを見ないようにし、聞きたくないことから耳をふさぎ、現実と向き合うことから逃げ続けた。
今だって、現実と向き合うのは恐い。
逃げてる部分がないかと言えば、ウソになる。
でも、できる限りそういうことを少なくして生きたい、と思いながら僕は今を生きている。
見たくないものから目を背けて生きるのは楽だけど、カラに閉じこもって守り抜いた幸せを、僕は本当の幸せではないと感じるからだ。
もしも、その人が心の底から『これでいい』と思えているなら、それでいい。
幸せは主観が作りだすものだと思うから、正解なんてものはどこにもない。
『それは間違っている』なんてこと、他人が簡単に言うことはむずかしい。
ただ、何かから目を背けて生きている自分を、ものすごく小さくても、人は心のどこかで感じとっているはずだ。
自分自身にウソを突き通すのは、とてもむずかしい。
だから、そこで人は苦しむ。
僕も苦しんだ。
けれど、もしも自分自身に対してウソを突き通すことができてしまえるようになったら、その方が、きっとかなしいことのはずだ。
そうならなくてよかったと思うから、僕は今の自分を肯定して生きていられる。
すべてのことに白黒をつけることが正しいとは思わないし、それが必ず幸せに結びつくとは限らないとも思う。
今だって、僕は決してすべての人に対して本心と向き合っているわけじゃない。
まだまだ恐いと思って避けてしまう部分もあるし、そういう距離感の人間関係があることを学んだというのもある。
現実と向き合うことは、人の本心と向き合うことは、誰だって恐い。
それが大切なものであればあるほど。
けれど、向き合ったさきにしかない発見が、向き合うことでしか得られない本当の幸せがあると僕は信じているから。
これからも、心の中に抱えた恐怖心と葛藤しながら、僕は大切だと思うものと向き合いつづける努力をしたい。
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