第1話 私が樺太で養女になった理由
大正12年(1923年)9月24日、私、藤本リョウは岩手県岩手町にある柏樹山明円寺という曹洞宗のお寺に生まれた。日本が関東大震災という悲劇に見舞われた直後だ。日本が貧困にあえぐ中、日本は北海道や1905年日露戦争で日本領となった南樺太ほか満州、台湾などの植民地、あるいはハワイ、南米等へ「土地を与える」として、移民政策を推進した。移民情報は口コミで全国へ広がっていき、東北地方からは多くの人々が農業移民として北海道や樺太へ移り住んでいった。
人々の移動とともに、「お寺さん」も拡がっていった。曹洞宗でも樺太開教の動きがあり、私の父、藤本賢中も命を受け樺太へ向かった。私が川口尋常高等小学校低学年の頃である。それが、私たち一家の樺太での生活の始まりであった。そしてこれが、数々の抗いがたい運命に翻弄される長い長い道のりの初めの一歩だった。
私たちは樺太へ着き、まず樺太南部の南名好村に落ち着いた。役場や派出所、学校、商店など一通りの機能は揃っており、名好富士と呼ばれる小さな山と海に臨む、なかなかに風光明媚な村だった。そこで私たちは希望館という旅館を営む松田夫妻に大変お世話になった。その夫妻に子はなく、ある日、奥さんは冗談めかしつつ「リョウちゃんがうちの子になってくれればいいのに」と言った。私には姉1人と、妹が1人、弟が2人いた。幼いきょうだいに囲まれ騒がしい日々の中、私は「ひとりっ子」というものに憧れた。だいたい、私は一人で本を読んだり、書きものをするのが好きだったのだ。「うん、私、希望館の子になる」そう、ふいに口から言葉が出ていた。
後日、松田夫妻はかしこまった様子で我が家を訪れ、改めて私を養女にしたいと申し出た。両親は驚きつつ、「松田さん家の子になりたいのかい?」そう私に尋ねた。不思議と、当時の私に迷いはなかった。ただただ「ひとりっ子」になりたいという、大家族に育った子ども特有のないものねだりだったのだろう。「うん」そう返事をすると、両親は「少し時間をいただけますか」と松田夫妻に言った。
両親からすれば大事な娘であることは間違いないが、当時、我が子を養子に出すということはさほど珍しいことでもなかった。貧しい時代である。「口減らし」のためもあった。我が家は幸いにしてお寺ということもあり、決して裕福とは言えないが、貧しい方でもなかった。ただ「坊さん」という家業、やはり継ぐのは男の子だ。強く娘を望む夫婦のもとで育てられた方がこの子のためなのかもしれない…両親はそう考え至ったようだ。日を改めて私は両親とともに松田夫妻の希望館に挨拶へ行き、正式に養女となることとなった。松田夫妻は子を望むもなかなか授からない期間が長かったらしく、我が子(といってももうだいぶ育っているが)ができたことをたいそう喜んでくれた。「藤本リョウ」改め「松田リョウ」としての新たなスタートである。
松田夫妻は旅館を営んでいるだけあって、明るく鷹揚な雰囲気の二人だった。希望館は旅館といってもそれにとどまらず、若者の下宿から宴会場まで、町の皆の集い場といった風情の場所だった。小柄で体が弱く、か細い声で喋る実母と違い、新しい母である「なか」さんは、身体も大きく、希望館に集う男たちの肩をドーンと叩き叱咤激励するような「肝っ玉母さん」風の人だった。それをカッカと笑って眺めている新しい父。この夫妻のもとで多感な時期を過ごしたことが、後の私の人格形成に大いに影響を及ぼしたことは疑いようもない。