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学ぶ力の正体と、その影響 - 学力喪失を読んで

学力喪失──認知科学による回復への道筋(今井むつみ著)という本を読んで、いくつか私にとっての重要な課題が整理されたので、それを記します。『学力喪失』の本の内容も含まれますが、それ以上に私自身の考えていること・課題の方に焦点があり、単なる感想記事ではないのでご注意ください。
※この本は非常に良い本なので、ぜひ買って読みましょう。


学ぶ力が失われるメカニズム

『学力喪失』では、いわゆるテストの点数・偏差値で定まる学力ではなく、人間が「生きた知識」を自分の中に蓄積していく力=学ぶ力、およびその知識が実際に蓄積されているかという事を重要な関心事としており、以下のような話題を展開しています。

  1. 乳幼児には学ぶ力があるのに、大人になるにつれて学ぶ力が失われているのではないか?(例えば、学習性無気力を引き起こしているのではないか?)という問題提起

    • 例えば点数に対する過剰な最適化によって、生きた知識を獲得できず、やがて次の段階に進めずに学ぶことができなくなり、それを繰り返す事で学習性無気力に至る、など

  2. 学ぶ力の喪失によって、結果として知識の欠落や誤った知識の定着が発生していると解釈できること

  3. 上記仮説の正否によらず、事実として知識の欠落や誤りが小学校の算数で多く発生していること

    • 低学力層では特に自律的な知識の修正に必要なシステム2の働きの欠如が見られること

    • いわゆる読解力の不足(読みにつまずく)、思考停止(思考につまずく)、といったメカニズムの詳細化

  4. こうした知識の欠落や誤りを修正するには、その基礎となるスキーマを学習者自身が修正する必要があること

    • 修正の方法そのものは小学生と一緒である必要はなく、その人が保有している別の生きた知識を有効活用できるが、修正を飛ばして次に進むことはできないこと

    • 知識の獲得・修正は、根本的にその人自身が試行錯誤を通じて行うものであり、どんなに一般向けにうまく説明しても「誰にでも通じる」説明は不可能であること

      • つまずきの箇所や内容は多様で、かつ利用可能な生きた知識も人によること

  5. 知識には生きた知識と死んだ知識があり、単なる客観的事実の羅列ではないこと

    • 活用ができる生きた知識は他の概念と接続できていたり、あるいは言語化・記号化された対象ではない感覚・経験などと"接地"できている事が必要不可欠であること(記号接地)

    • そのような構造を有するという点で、知識は単なる客観的事実の羅列ではないこと

『学力喪失』での展開の順序は概ね 5→3,4→1,2 という構造になっていて、はじめに「生きた知識」「死んだ知識」および「スキーマ」等の知識を説明する準備を行った後に、広島の小学校における「たつじんドリル」による取り組みなどを通じて得られた具体的な知見・学習に失敗している子どもの事例を詳しく説明して、学力喪失の構造および部分的な対策例を述べています。

以下は、特に私の課題整理に影響のある内容をまとめています。

算数において記号接地できていない概念

具体的に算数において、記号接地ができていないものとして、「1」の概念が挙げられています。例えば、分数においては1を基準としてそれをいくつかに分けるという事を考えますが、じつは1という概念は"易しい"概念ではありません。この概念を生きた知識として獲得できていない場合に、どのような間違いに至るかとか、あるいは分数の理解が進まない事などが詳しく説明されています。

現実に「小学生にわかること」がわかっていない

1の概念や分数の簡単な概念というのは、小学生にもわかっている人がいて、実際に教育課程上は小学二年生・三年生で学び始めるものとされている一方で、生きた知識になっていない人も少なくありません。これはつまり、現実の問題として、少なくない人が「小学生にわかること」がわかっていないという事実を示しています。

プライドを損なわずに「うまくやる」提案

一方で、例えば中学生に小学生と全く同じ方法でやることを強いると、プライドを傷つけることになるでしょうし、その人に対してという意味では効率的でもありません。例えば分数であれば、料理で経験していることと関連づけすれば、生きた知識として構成できる可能性があり、小学生に対して取れる方法よりももっと沢山の選択肢があるかもしれません。また、一種のゲーミフィケーション(プレイフル・ラーニング)によって、楽しく自然と習得させる方法もあるかもしれません。

記号接地できていないのは教科の勉強だけではない

ここから先は、『学力喪失』の内容を超えた私の考えです。
『学力喪失』では教科の勉強について具体的に記号接地できていない事例を指摘していますが、同様の事象は教科の勉強以外でも発生していると考える方が自然です。例えば、

  • 適切に報告・連絡・相談を行う

  • 相手の立場で気持ちを考えて話をする

  • 挨拶をする、お礼をいう、謝る

  • 頼まれたことをやる

  • 約束を守る、嘘をつかない

  • 自分で決めたことをやる

  • 物事を計画し、またその計画を守って遂行する

  • 物事に対処する中で発生する課題を管理して対応する

といった事は、しばしば小学校の通知簿の生活欄みたいなところ(?)に含まれる評価要素であり、また習得することが望まれる項目で、かつ実際に小学生でもできる人は出来ています。その意味で「小学生にわかること」ないし「小学生にできること」ですが、実際にはこうした事ができない大人も沢山います。

言い方は色々あるにしても、事実として「小学生にできること」ができない大人がいることは枚挙に暇がありません。実は、それは記号接地ができていない事によるもので、『学力喪失』で示された教科の勉強と本質的に同じ構造の問題があるのではないか。なんなら、こうした「小学生にできること」についても、学力喪失、つまりそうした事を学ぶ力の喪失(例えば学習性無気力)が発生しているのではないか。

ここに列挙した事について、言葉で「なぜそれが必要なのか」を説明することは、あまり難しくないように思います。普段、それを実践できていない人においても、多くの人はそれを説明できるでしょう。そこで、これらの事柄についても、記号接地やスキーマの獲得、またはそれに類する問題があるのではないか?というのが私の仮説です。

教科の勉強ができないことは、もちろん問題ではあるのですが、いま列挙したようなものは教科の勉強以上に、社会で生活するうえで重要な要素となります。一つが欠けているからといって直ちに人生が行き詰まるようなものではないですが、すべてが欠けているとしたら、それを補う環境や補助ないし相当な能力が無い限りは、人生でかなり苦労をするように思います。

仕事で上を目指すなら、新しいことを学ぶ必要がある

仕事で上を目指す。給与、職位、どんなものでもとにかく、上を目指すとしたら、新しいことを学んでいく必要があります。もし学ぶ力を喪失していたとしたら、上を目指すことは大変困難です。

自分ができない事とどう向き合うか

人間が学ぶうえで記号接地を省略することはできないとしたら、自分ができない事に対する最終的な対応は次のいずれかです。

  • 自分ができない事について、学習して記号接地する。

  • 学習および記号接地を諦めて、できないまま生きる。

学ぶこと、記号接地することを選ぶとしたら、ではどういう方法で記号接地するか、という事が課題となります。つまり、小学生にできることが自分には出来ていない、という現実と向き合うのか、それと向き合わないうまい方法、例えばゲーミフィケーションのようなもので乗り越えるのか。

個人的な感触としては、小学生にできることのうち記号接地できていないことは、ふつう一つや二つでは済まないと思っています。社会人の人が、今の生活そのままで小学校に戻る事になったとして、生活欄がすべて○で埋まると自信を持って言える人はそう多くはないでしょう。仮にそうした自信のない要素が原因で仕事のトラブルが起こったとして、いつでもうまいゲーミフィケーションや環境・先生が用意されている、ということは無いでしょう。そのようなとき、向き合って改善する覚悟を持てるか。これは非常に難しく、かつセンシティブな事であると思いますが、その覚悟を持てるかどうかで、整っていない環境でも伸びていけるか否かが変わってくる、つまりその人の強さみたいなものが変わってくるように感じています。

(些細な補足ですが、生活欄は個人の中で特に良い部分について○をつける場合もあるようなので、そのような方針の学校においてはすべて○がつくという事はありません)

学ぶ力はアンチフラジャイル

学ぶ力が十分にある状態は、アンチフラジャイルなのだと思います。つまり、外からどんな刺激があったとしても、それを建設的な生きた知識として吸収して、役立てることができる。もしうまく吸収できない刺激が増えてしまうと、学力喪失という事になるでしょう。

このアンチフラジャイルな状態を維持するために、乳幼児には無いが、その後のステージでは必要な学ぶ力があるのだと思います。それが、できない事と向き合う力です。たとえば客観的に小学生にできるような事ができない自分が居た時に、一旦はそれを認めて、実際に改善をやり切ること。そのような力が必要なのです。

様々な向き合い方

ただ、この力の実際の行使方法・発現方法は様々であると感じます。

  • 人と比べない・比べてはいけない派

    • 単純に自分ができる・できないだけで考えて、単純に自分ができるようにする

  • 自分がそれをできない事によって人に与える損失を考える派

    • 広義では人と比べない派だが、できるようにする動機に人が絡んでいる

  • 人と比べて悔しさをバネにする派

    • しばしば泣くほどの悔しさを毎日味わい、それをバネにしてやりきる

  • 人と比べて不安を原動力にする派

    • 悔しさというよりは怖さや不安を使って、かつそれを不安で終わらせず、できることをすべてやろうとする

どれが「正解」かはわかりませんし、正解も不正解もなく、単に学べればなんでもよいのかもしれません。比べる方法はすごくストレスフルですし、比べない方法は一歩間違えると課題自体を認識できない事もあり、どちらも万能な方法ではないと思います。いずれも失敗によって学習性無気力に至る可能性はあります。

とはいえ、いずれの方法でも学べている人はいます。とにかくどの方法であっても、向き合える事が大事です。それができないと、良い場が与えられない限り、永遠に記号接地ができないままだからです。良い場が大事なことは否定しませんし、実際に良い場が増えればよいですが、自分自身で記号接地しやすくする事も重要です。

まとめ、特にどの辺が整理されたのか

一旦、現時点の私の考えを書き殴りました。結局、『学力喪失』を読んだ結果としてどのあたりが私の中で整理されたのかというと、以下のようなところでした。

  • 記号接地できていないのは教科の勉強だけではない

    • それによって学ぶ力が失われている場合がある

  • 社会人として仕事をしていて、小学生でもできる事ができないという場面を自他問わず多く見かける

    • その原因は、教科の勉強以外の記号接地にある

  • 小学生でもできる事ができない、という事への向き合いはやはり必要

    • 向き合い方のベストはまだ私の中で定まっていない

    • ただ、やり方によらず、"上"を目指すならば必要なこと

    • もちろん、あらゆる自分のできない事すべてに一度に向き合わせるなどすれば人間は壊れるので、やり方は考えないといけない

この一年ぐらい、ずっと以下のような記事たちで考えていた事について、また進捗があったのが非常に良かったと思っています。
直近では、「認知を揃える」という事が重要なのだと気づいてそれを目標にしていますが、「その実現にあたっての課題が一体なにか、どうすればよいか」という事を把握していくのが課題でした。それに際して、記号接地は避けられないという事実認識の強化と、これまでの経験による向き合い方の整理ができて、良かったです。もし他のチームメンバーで補うなどではなくて個人の成長を促すならば、具体的な方法はさておき、記号接地は避けられないという覚悟を決めました。


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