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努力・友情・勝利の先 - 私の心が何に動くのか(ルックバックに寄せて)

私は少年マンガが大好きで、かつては銃夢、最近では鬼滅の刃に大きく心を動かされました。(後述のとおり、吾峠呼世晴先生は天才と思います。)

ルックバック。

すごい。すごい、これは確かに当代随一でなければできない。下手に天才を標榜した漫画よりは、天才が辿る道を具体的に示している。一種の芸術的な完成度は確かにある。本人の中でつながった事実を、抽象化して構造として取り出しつつ再構成して、劇として・画として・ある種の芸術として組み上げている。単に画として緻密なだけでなく、すべての描き込みに意味があるように思わせる作品を作り上げている。
単純な理屈で、これを出来る人はそうそういない。藤本タツキ先生もまた、天才である。

でも、涙が流れるほど私の心は動いていない。
多くの人が心をかき乱されているけれども、私の心は決してかき乱されていない。

この事実がとても不思議。
私はとうとう枯れてしまったのだろうか?

まあ枯れても不思議ではないかもな...

でも、この前ダイの大冒険を読んだら泣きそうになっていた、あれは何なのか?それこそ経年劣化?単にある種の局面で感情的になりやすく"劣化"しただけ?やはり枯れたのか?

その答えが、ここに。

ダイの大冒険、何に心が動いたんだっけ

最近の出来事を振り返ります。ダイを読んでいて私の心が動いた場面は、ポップが一人うそぶいて超龍軍団との戦いに赴き、その後色々とあってから、メガンテを仕掛けるシーン。バーンに対してダイが決意を語るシーン。ゴメちゃんが最後の願いを叶えるシーン。
ダイの大冒険の根底には、常に自己犠牲があります。
「自己犠牲呪文」という漢字の文字面のとおりの振る舞いをしたアバンを筆頭に、ダイ、改心したクロコダイン、ヒュンケル、果てはハドラー、ヒム。彼らは常に"仲間"を救おうとし、勇者たるダイは"仲間"ではありえない、父バランが見捨てた人間たちを救い、その後自分が必要でないなら自分は大地を去るとまで言います。
これが良いことなのか、私にはまったくわかりません。ただ、その行為は私の心を強く揺り動かし、また共感をもたらします。
(とはいえ、クロコダインとかヒュンケルで感動した事はないんですけど。ワニや、HP1とか闘気()とかのインチキには感動できない。)

鬼滅の刃、何に心が動いたんだっけ

鬼滅の刃。これは、組織を描いたという技術(?)的な部分だけでも随分とんでもないと思いましたが...
鬼殺隊のメンバーは皆「任務のために(無惨を滅するために)」と言いながらも、常に年少者・守るべき者・他者の事をお互いに考えます。このようなあり方に、私は心を動かされます。
個としての自分の能力を求めた鬼は徹底的に滅び去り、組織を通じて伝承を行った鬼殺隊が"必然的に"勝つ。
私が特にすごいと思うのは、"必然的に"という部分の描写です。確かに個としての珠世・しのぶの技術に強く支えられている部分もあるとはいえ、物語に描かれたような無惨のあり方であれば、いつか戦略的に鬼殺隊が無惨を倒していたであろうと思えるような描写であること。
戦略の強さ、組織の強さ、そのような意味での伝承の強さ、みたいなことを描ききり、その文脈で他者のことを考えるという強さを説く。
これは、ダイの大冒険の中にあるようでなかった観点であって、竜の騎士という超越的な力を持つダイと"最初から天才"であったポップが個として魔王を超越するという決着とは全く異なったものでした。
例えばダイでは、最終決戦のさなかに大魔王バーンがピラー・オブ・バーンという爆弾のような柱を世界各地に配置して、その爆発を各地の人間が防ぐというイベントが発生しました(先ほど私が挙げた、ゴメちゃんがダイの望みである「この状況を伝える」という事を半ば自己犠牲的に達成して)。
これは一見すれば良い話ですが、「あくまでもそれぞれのレベル感で戦う人々を描く」というような話で、私としてはとってつけたような感覚が否めませんでした。ダイの大冒険は、他にも「北の勇者」の話などを筆頭に、「その人のレベル感で戦う」という事が定期的に描写されていますが、どれもちょっと説得力に欠けていました。鬼滅はなんとそれを組織と戦略を描くことによって軽々と超えてしまったのです。ワニ先生は最高だ。ワニには感動できなくてもワニ先生には感動する。

そう、私は人類のそういう組織性に期待をしていて、物理現象としての決定打は個人の動きかもしれないけど、"有機的なチーム"みたいなものが努力・友情・勝利をする姿を見たいのだ。一人では"弱い"人が、チームとして個を凌駕する。もちろん、チームの中の個としては最高を目指す前提で、その協力で高みを目指す。そういう姿が。

私の心が動くとき、努力・友情・勝利の先には直接的に他者がいました。

実際、私は"自分自身のために頑張る"という事が昔から苦手です。努力をする、という事自体には興味がないから。興味があることに執着する、それは割とできます。でも、それは決して人に認められる事が目的ではない。人に認められる事は私にとって重要な事ではなく、ただ結果として人のためになればよい。そんな事を思っています。

ルックバック

ルックバックには、いわゆる努力・友情・勝利の要素は揃っています。
しかし、その先は鬼滅の刃やダイの大冒険とは違っていて、その先に待っているものは単純な「天才の楽園」だし、自己の確立です。
"才能に頼る"天才の自己は、実は非常に脆いものでもあります。とだけ書いても伝わらないかもしれないので、いくつか説明を試みます。
まず一つは、周りの人は大概見る目がないので、才能の表面的な部分を褒め、本人が自負している本当の中身を見て、本当に褒めてもらいたいディテールをきちんと正確に褒めてもらえないこと。
次に、その本当に褒めてもらいたい事が競争的な要素を持つ場合には、自分の上位互換が存在した場合には直ちに存在価値を無くしうるということ。少なくとも、本人の主観的には。
さらには、本人のその才能以外の部分の価値が相対的になくなり、普通の人間としての自己を成立させられないこと。才能の内容によっては、バカな事を言い合う友達すら満足に作れないこと。
そうした感覚・概念を共有できる人は、周りに全く居ないという場合もしばしばあって、自分に絶対的な自信がない限りは、本当に自分の感性や才能、自己認識が正しいかどうかすらわからず、絶えず不安にさらされるということ。

「普通の人」の場合、「ある一つの観点だけでその人を特徴づけられる」という事は、良くも悪くもそうそうありません。あだ名とかで、ある一つの特徴を切り出されるという事は多くあるとは思いますが、自他共に認める唯一の存在意義・自分自身という程に、ある特徴が独り歩きするという事はそうそうありません。しかし、天才、あるいは天才を目指す人にとって、才能とは上述のような側面を持つものであって、自己が脆くなることもよくあります。(もちろん、いわゆる天衣無縫とでも言うべき、才能への執着のない、もっと別のタイプの天才も存在しますが。)

だから、天才の自己というのは時に驚くほど脆弱です。その脆弱な自己を巡って、時に涙が出るほど(あるいは、雨の中でも踊りだすほど)嬉しくて、時に過去のすべてを強迫的に結びつけて強烈な自己否定に至って。それでも自己を捨てることはできなくて、自分の中で整理をして歩み続ける。歩み続けるという宣言をすることで自己を確立する。歩み続けるという言葉が指し示すとおり、それはただの日常。一般人からすればおそろしく精緻で濃密な、ただの日常。

それは少なくとも感覚としてはわかる、わかるけれども、私は自分のために頑張るには怠惰すぎて、感動はできなかった。
この努力・友情・勝利の先が直接的に他人を向いていたとしたら、多分そうではなかった。
私が見出した答えは、がんばるならば他者のために、ということだった。だから、わかっても心は動かなかった。(あるいは、心が動かない程度にしかわからない、という言い方もあるかもしれません。)

おまけ

この記事は何のために書いているのか?承認欲求?
他者のためのがんばりなのか?

他者という要素が全くないわけではないです。仮にルックバックの良さが心でわからないとしても、それは必ずしも心や感性が劣っているという事ではないだろう、という事を示す目的もあります。
でも、本当はそんなことはどうでもよくて、自分の中で違和感がまとまったことが嬉しくて、ただそれだけで、こんな時間に熱を出した子供を膝に乗せて、謎の記事を書いています...
私の中では、少し自分の謎が解けて面白かったのでした。

(私自身についての具体的な気づき)

多分、「自分のために」「他者のために」という2つの軸で考えたとき、特に前者の軸が強い場合には、私は相対的に評価しなくなってしまう。おそらく。
前から、多分そういう傾向があるなと思っていたけど、それについて具体例を伴って示すことができた。

そういうあたりが気づきです。おしまい。

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