「こどものあいだ」に子供に知っておいて欲しい12のこと - 世界をロジカルに捉える
感情、思想、主義、主張。
人を人たらしめる要素には様々なものがあると思います。
人が育つとは、そうした様々なものを作り上げ、また磨き、時に崩れ去るというサイクルです。その人が生きる上で接触するあらゆるものを取り入れて「育つ」というサイクルは動き、文字通りの人生を作り上げてゆきます。
育つということは自発的なことですが、一方で他者が育つことを促す、「育てる」という概念もあります。最も典型的な事例を取り上げると、親は子を育てます。
…随分壮大な前置きになってしまいましたが、この記事は子育ての話です。
考えた動機 - 願うだけで終わらせずに、しあわせを作るために
「出来る限り豊かな人生を、子供に歩んで欲しい」という思いは、子供を育てる多くの親に共通するものと思います。では、それって具体的に何を教えて、どう実現すればよいものなのでしょうか?
例えば小学校や中学校から受験勉強に一生懸命取り組ませること、それは豊かな人生を歩んでもらう為の一つの手段であり、一つの形式であると思います。実際、少なくとも統計的には、良い大学を出ている方が収入は多くなり、良い高校・中学に入った方が良い大学に入ります。(ただし、ここでは良い大学の定義や詳細についての議論はしません。日本においても、金沢工業大学のように、入試が必ずしも難しくなくても良い大学はあります。)
しかし、それはあくまでも統計的な事実であって、良い大学に入ってもその後の人生で失敗をする事はありますし、大学に行けなくても豊かで幸せな人生を送った人は少なからず居ます。
その意味で、私は受験勉強は日本でしあわせな人生を目指す戦略として必須とは思っておらず、今の時点ではその攻略法を子供が知る必要があるとは思っていません。(もちろん、本人が受験をしたいと自分の意志ではっきりと願えば、それは別ですし、そうなる可能性は十分にあると思っています。何が起こっても必要か否か、という観点での必要性についてです。)
一応付け加えておくと、いわゆる学歴がしあわせの必要条件ではないからといって、それを軽視するつもりは全くありません。ただ、冒頭に挙げた「感情、思想、主義、主張」といった人を人たらしめる様々な要素を考えた時、なるべくコントロールせずに子供を育てたい場合は、受験勉強の攻略法は必須ではないという事でした。
そのような観点で、上記のような考えを踏まえて、どのように育つとしても本当に必要・価値がある事は何なのか?ということを考えました。
言い換えれば、
受験勉強よりも直接的に人生のクオリティを変えうる知識とは何なのか?
出来る限り特定の価値観に依存せずに、客観的な事実として理解をすべきことは何なのか?
ということについて、私の考えたことをまとめています。本当はもっと細かいことも沢山あると思うのですが、それは普通に生活をしていれば自然に学べる気がしていて、私がこれまで生きてきた中で自分の考え方を大きく変える転機になったような知識を特に重視しています。
端的には、子供がスポーツ選手を目指すとしても、アーティストを目指すとしても、棋士を目指すとしても、ビジネスパーソンを目指すとしても意味のある、かつ「こどものあいだ」に知っておくべき事ってなんだろうな、ということでした。親の機能性を抽象化した時、親のすべき事の一つは、それを教えることだろうと思ったからです。
ということで、以下、具体的に知っておいて欲しいことを述べます。
この世が物理法則に従っている、という前提を得る。
この世が物理法則に従っている、という前提を得る。法則に従うという世界観を真に理解する。これは、力がほとんど働かない(打ち消し合う)物体の運動や加速で理解できる。例外のないルール。
物理法則には、あらゆる物事が従う。自分自身すらも。
私は高校の頃、物理という教科を選択して勉強していましたが、ニュートンの運動法則の意味の本質を理解できていませんでした。
問題を決められた手順で解くことはできる一方で、「力が加わっていないときには、加速度は発生しない。逆に、加速度が発生している時には、力が加わっている。」という事を体感もできていないし、「それに例外というものが一切存在しない」という事を理解してもいませんでした。
というのも、我々が普段目にする法則には、大抵の場合は例外というものが存在します。いわゆる経験則というものは、ある種の統計や直感にすぎず、万物がそれに従う事を強く主張するものではありません。実際、現在の物理学は進んでいるので、ニュートン力学はミクロにもマクロにも厳密には正しくないという事がわかっています。
にも関わらず、逆に、ニュートン力学は「近似できる範囲においては一つの例外もなく正しい」のです。大学生の頃にこの事がわかった時、「物理法則が存在する」という主張の本当の意味がようやく理解できた気がしました。
人間が何らかの理論を説き、物事を説明しようとする試みは、古代の中国やギリシャの時代から盛んに行われていますが、人間のそうした営みが科学として整理されるまでは、何の根拠もない妄想に近い理論や、根拠はあるにしても「ケースバイケースでたまたま適合している事例を取り上げているだけでは?」というような言論が数多く見受けられました。私の世界観では、法則というのはそのようなもので、「その法則が適用できる前提を満たしていながらも例外となる要素が存在する」という事が常であると思っていました。しかし、そうではなくて、究極的な物理法則というものがもし存在するとすれば、それは「ある範囲の物事については、何ひとつの例外もなくすべての物が法則に従う」という事なのでした。
この事実の重要なことは、「世の中の構成要素である自分自身も物理法則に従う」という事です。
この事に気付くまで、私は、「他の人はうまくいっても、自分だからうまくできない」というある種のレッテル・劣等感・失敗に対して自分の中で納得できるような理由付けを持っていました。実際、体の構造が若干変な事があったりして、よくない意味で自分は特殊であるという認識を持っていました。しかし、もし本当に世の中が物理法則に従っているとすれば、自分自身もそうであって、物理法則を超えて失敗をする・うまくいかないという事はありえないと気付き、そうしたレッテル・劣等感・理由付けは全く間違っていると認識しました。
これは、精神的な世界・人間の感情や思いが無意味であるという主張ではありません。個別の体の動きをもたらすのが心や精神であったとしても、それは物理法則の制約の中で稼働する。その意味で、物理的な動作としての失敗の原因が確実に存在して、それは"自分だから失敗する"というような事ではない。そういうことでした。
世の中には明らかな向き不向き、運、才能というものが確実に存在する事を理解する。
世の中には明らかな向き不向き、運、才能というものが確実に存在する事を理解する。これは、紛争地帯で生まれた子供を見ると明らか。天地不仁。
先程の物理法則の話とある意味で矛盾するようにも見えますが、世の中には運や才能という要素が確実に存在します。実際に運というものが存在することは、紛争地帯で生まれた瞬間に命がなくなるような子供が今の時代にも存在することを考えれば明らかです。
同様に、才能や向き不向きという事も確実に存在します。その見極めがすぐできるか否かは、物事によって異なるでしょうが、生まれ持った身体的な性質によってできること・できないことがあるというのは厳然たる事実です。
一人の人間の力でひっくり返せない物事は確実に存在しますが、一方で、たくさんの人間を集めれば、その中には自分のできない事をできる人が確実に存在します。もっというと、たった一人の他人と自分を比べるとしても、お互いにできること・できないこと、得意なこと・苦手なことがあります。
それを踏まえて、人生において個としての高みを目指すのか、それとも組織としての高みを目指すのか、それはその人の考え方だと思いますが、どちらにしても向き不向きというものが確実に存在することは、理解をしておく必要があると思います。人生は有限なので。
自分の物事への取り組み方を修正しなければ、「別の場面で同じ事が起こる」事を理解する。
自分の物事への取り組み方を修正しなければ、「別の場面で同じ事が起こる」事を理解する。一事が万事、という事の本質的な理由を、具体例を通して・自然科学の再現性の観点で信念として理解する。
これは、物理法則の件のある種の派生に近い内容でもあります。つまり、世の中が物理法則に従うとすれば、"同じやり方"で物事に取り組む場合は常に"同じ問題"が発生し続けるということです。少なくとも、統計的には。
ただ、この"同じやり方"という事が、私としては想像以上に範囲の広いものだったという事を感じました。つまり、自分の考え方とか作業の仕方が、小さい頃の私であれば異なる事象として分類したくなるような物事についても影響を与えていました。
例えば、「他の人の説明を自分の中で咀嚼せずに、表面的な手順だけをひたすら真似する」という学習方法の場合を考えてみます。
この場合、小学一年生の算数の文章題については「とにかく与えられた数字を組み合わせて足し算をする」という事になります。そうすると、文章の意味を理解していなくても数字的な答えが出るという状況を生みますが、文章題の種類が増えると適用すべき四則演算が不明になるので、直ちに破綻します。これが国語であれば、漢字ドリルの特定の空欄に書いてある熟語を埋めることはできても、その熟語を単語としてきちんと理解はできていないという状況を生じたりします。
同様のことは、社会であればコンデンエイネンシザイホウという呪文は覚えたけれども「土地を私財化する」という事の意味の理解には至らないとか、枚挙に暇がありません。
他にも、例えばあわてて雑な作業をする傾向があれば、それはあらゆる作業に反映されます。丁寧に細かい所まで行き届いた仕事をする人は、何の仕事をやってもそれなりに丁寧に細かい所まで行き届かせようとします。
もちろん、場面によっては雑でもスピーディなことが必要な場合も当然あり、一概に何が良いと断言できることではないですが、何にしても本人の性質が別の場面でも同じように現れるという事でした。
このような事を指して、一事が万事という事はよく言われていて、その事自体はなんとなく理解している人も多いと思いますが、それを理屈で理解して、信念になるまで落とし込めるかどうかが、私自身の人生の一つの岐路であったかなと思います。
物事が物理法則に従う限りでは、自分自身の行動も他人の行動も、それが物理的に等しければ等しい結果を生む。
物事が物理法則に従う限りでは、その他に振る舞いに影響を与える要素は何一つ存在せず、自分自身の行動も他人の行動も等しいという事を理解する。天地不仁、万物を以て芻狗と為す。
このことは、物理法則の項で説明した通りです。ただし、これはあくまでも物理的な話であって、一般の行動に関しては、むしろ普段の言動や関係性などが多分に受け取られ方に反映されます。それはそれで大事なことです。例えば、信用がない人の行動は、世間的には認められません。きびしい。
自分が生きたいように生きるためには、拗ねているような暇な時間はない事を理屈として理解する。
自分が生きたいように生きるためには、拗ねているような暇な時間はない事を理屈として理解する。天は自ら助くる者を助く。
物理法則の項で説明した「レッテル・劣等感・理由付けは間違っている」ということと、「向き不向き・運・才能」に対してどう向き合うかという事の総合のような内容です。つまり、例えば自分に与えられた才能が、自分がある瞬間に実現したいと思った夢に届かないものであった事がわかったとき。あるいは、運が無くて事故にあい、夢が届かなくなったとき。そのような時に、どう人生と向き合うかということです。
そのようなとき、それでも拗ねずに、あるいは現実逃避をせずに、建設的に生きなければ、結局何も起こらない事を理解する必要があると思っています。
もちろん、人間は理屈をわかっていれば常にその通りに生きられるという事では決してなくて、時に拗ねたくなる気持ちを持つことはあると思います。
ただ、それでも、自分を見失わずに大局的に見て、一次の迷いを引きずらずに自分自身で建設的にやり方を考えて進んでいくしかありません。
拗ねるというのはずいぶん暇な時間の使い方で、文字通り何も起こらないだけではなくて、前に進むこともありません。
これは、ひょっとすると勝算の無い出来事に対して人間を進めないようにする生物学的なある種の知恵なのかもしれませんが、それでも、私は拗ねる時間そのものには意味が無いと思います。
絶望を時間が癒やすという事は十分にあると思います、でも絶望と拗ねる事はまた意味合いが違うと思っています。
あらゆる物事を自分自身で解決しないといけないという事ではない。
天は自ら助くる者を助くとは、必ずしもあらゆる物事を自分自身で解決しないといけないという事ではない。助けを求める事も含めて、物事を解決・思うように進める推進力であり、意志のこと。
「天は自ら助くる者を助く」という言葉だけを見ると、どうにもあらゆる物事を自分の力だけで解決しないといけないような言葉にも見えます。
しかし、この言葉で表現されている事は、本質的にはそういう事ではないと私は思っています。つまり、他の人に助けを求めるにしても、助けの求め方という事があって、とにかく現在の状態を好転させるために頭を絞って考えることこそが、自ら助くるという事の意味と思います。
必ずしも、ある特定の物事を自分自身で成し遂げねばならない、という事ではないと思います。もちろん、場面によっては他の誰でもない自分自身で解決しないといけない、向き合わないといけない事柄もあると思いますが。
目的のある物事を遂行する事は、物理法則的なレイヤーで分解すると、必ず有限の作業に分割できる。
目的のある物事を遂行する事は、物理法則的なレイヤーで分解すると、必ず有限の(だが時に多い)作業に分割できる。逆に、作業の積み重ねで物事は遂行される。
なにか目的を持って物事を遂行する場合、それは物理的には作業の集まりに分解されます。これは、有限の時間を生きている人間にとっては、あらゆる物事について当てはまることです。
つまり、「なにかをする」という事は、敢えて形式的に表現すれば「有限の作業を消化する」という事でもあります。物理的な意味では、そういうことです。また、少し違う言い方をすると、完成から遡ってすべてのことを漏れなく実施する必要があるという事でもあります。
私はあまり文化祭の準備とか、受験勉強みたいな事に本気で取り組んでいなかったため、TODOリストを作るとか、タスク分割をするとか、そういう事が全然できませんでした。しかし、仕事をするようになるとそれらが必須になってしまいました。特に、仕事では基本的に漏れは許されないので、漏れの許されないように分割されたタスクをこなすという事が日常的に行われるようになりました。これは小学校でも学習できたはずの事ですが、私の興味や能力の問題であまり学習できなかったので、「こどものあいだ」に学習しておいた方がよいかなという事として加えました。(まあ、あまりにその形式に固執して物事の楽しさが見えなくなってしまうとするならば、もっと後でもいいかもしれませんが)
ただし、何の作業を遂行すれば目的が達成されるか段取りをつける事が必要。
ただし、何の作業を遂行すれば目的が達成されるかという事は、多くの場合わかっていない。その段取りをつける事が必要(日本の総合職用語では、これを仕事という)
目的を持って物事を遂行することを「後から分析的に」眺めると、先程の通り適当な作業を実施し続けた結果として物事が遂行された事になります。しかし一方で、その物事を遂行し始めるタイミングでは、常に何の作業をすればよいかがわかっている訳ではありません。
例えば、「子供を育てたい」と思って、子供を育てるプロジェクトを開始したタイミングにおいては、子供を育てるために実際に必要な事のすべてなど到底わかっていませんし、具体的な作業に落とし込まれてもいません。
物事を進めながら、作業の落とし込みをして、実際に作業を実施していく、という事が必要です。
そうした段取りをつける事を、しばしば「仕事」と呼び表します。仕事と作業を区別する文脈においては、このような意味での使い分けがされていて、「仕事によって段取りをつけて作業をする」というのが実際に物事を成し遂げるためにやることです。
※ここでは簡単に段取りと言っていますが、実際にはもっと戦略的な事を考えたり、段取り自体が複雑な階層構造を持つ場合もあります。
人生の目的・意味というものは与えられるものではなく、自分で考えて達成するもの。
人生の目的・意味というものは与えられるものではなく、自分で考えて達成するもの。ただし、必ずしも明確な目的はなくてもいい。どうありたいのかという観点か、何を為したいのかという観点か、いずれかで考えれば十分。
自分がどう生きるかということについて、自分以外の誰かが何かの責任を取ってくれるという事は決して無いです。もちろん、出来る限りの責任を取るという事はあるでしょうが、その責任を取るというのはどちらかというと対外的な事ですし、病気や事故、あるいは寿命で親は亡くなってしまいます。いつか、どこかで自分自身で向き合わなければなりません。
自分で考えた上で共同体に寄り添って生きる、みたいな事はもちろんひとつの人生の目的・意味であり、答えであると思います。他者との関係性やある種の依存を持つ結論が間違っているという事ではなくて、そうした結論を出すという事については自分自身に責任があるというのがここで言いたい事でした。
責任があるというのも少し変な言い回しで、自分で目的・意味を与えなければ自分で生きることはできないという方が、まだ少し良い言い回しかもしれません。
何事も楽しめる、好奇心の持てる状態をできる限り維持する。物事を楽しく捉える方向を探す。
人間が効率的に学習できる状態は、楽しめる・好奇心を持てる状態であると思います。
自分が楽しくないと思う事柄については、出来る限り楽しむ方法を探すことが、人生を楽しむコツでもあるのかな、と思います。私はこれが得意だったので、話を聞く限りではだいぶ得をしていそうな気がしました。
説明の分量は非常に短くシンプルですが、重要性は他の内容と同等です。
他の事柄と比べて私自身が得意なため、内容の説明を書きにくいのかもしれません。
信じて行動した結果、成功した事と失敗した事を客観的に事実ベースで振り返る習慣を持つ。復習、反省を徹底する。
必ずしも「明示的に何かを信じて行動した結果」に限った事ではないと思いますが、成功・失敗については客観的に、事実ベースで振り返るような週間を持つ事が必要と思います。
物事の評価をすることで、その後の改善を行うことができます。
私自身、父から復習を徹底しろと言われて、実際に復習・理解を徹底した事で得をした場面が多かったなと思います。ただ、勉強に関してでいうと、私の能力・素養と復習スタイルがうまく合っていたという事なのかもしれません。ただ、事実ベースで評価をしないと科学的な意味での振り返りには繋げられないという事があり、事実ベースで振り返るという事自体の重要性には疑いは無いかなと思います。
ほとんどの人は根本的な悪意を持っていない。進んで悪くなりたい人はほとんどいない。しかしそれでも間違える。
この世のほとんどの人は、自分から進んで不幸せになりたいとは思っていません。もちろん、人格破綻者が居ないわけではないですが、それは決して多数派ではなく、ごく少数派です。
むしろ、皆、出来る限りは幸せになりたいと思っています。このとき、とにかく他者を陥れて自分だけ幸せになろう、他人を足蹴にして幸せになろうというような人も、多くはありません。もちろん、相手を騙して利益を得ようとする人はいますし、競争が必要な場面では相手に競り勝つ事も必要になりますが、例えば見ず知らずで何もしていない人に対していきなり殴りかかるような人は圧倒的に少ないです。
インターネットによって一般人の思想がより簡単に表現できるようになり、相互の摩擦のような事が数多く発生していますが、そのような摩擦の当事者のいずれも、根本的に不幸せになりたいという人は少なく、当人自身はある種の善意・正義に従って行動しています。
結果的に生じるものが摩擦や対立、ある種の地獄絵図であったとしても、それぞれの人はむしろ善意を持って、それぞれによく生きたいと思っている。特別他者を傷つけたいという事でもなく、単に幸せになりたいと思っている。
結果がどうあれ、その"思い"自体はおそらく事実であると思います。これはインターネットであろうとなかろうと関係なく、ほとんどの人の根本に悪意は無く、でも間違えるという事なのだと思います。
そのような意味で「手段は間違っていたとしても思いを信じる」という事で、私自身はうまくいった経験がいくつかありました。それによって物事が解決・前進した事が何度となくありました。そのため、この複雑な状況を理解した上で、思いを信じる勇気を持てるとよいのかなと思いました。
むすび
他にも具体的に知るべきことはおそらく沢山あって、ただ、メタ的な観点で親が教えるべきことってなんだろうな、と思っていたことをまとめました。
10年後、20年後、30年後、...の子供・子供と親のあり方を想像したとき、これらの事を伝えることができれば、まあ致命的な失敗はしないんじゃないかな、というような事でした。
他にも伝えておきたい事があれば、ぜひお聞きしたいですね!
※写真は謎のオブジェを登る子供でした
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