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演劇と教育(と地域)のシンポジウムーーー劇場や学校、そこに人が集まる必要性を考えた@2024.05.25(9/27追記)

今の日本、政治経済を含めた根本的な社会そのものが歪んでいる。
その歪みを実感として感じながら、もうどうにもならないものかのように是正していくことから無意識に逃げている多くの人々であり自分を見つめる時、その根源は義務教育において欠けてきたものではないのか?

学生の頃から芝居を観ることが日常になって約40年。学生を終え就職し資格を取り仕事をするようになって約30年。芝居を観ることで自分の中に育まれていた「感じとることや察すること」がごく普通のスキルとなっていた私にとって、企業の中に居る方々(特に男性)は、役職や権限を抜きに人と人として向き合ったコミュニケーションが取れない人が何と多いことか、という驚きを伴った世界でした。
劇場の客席は社会の縮図なので、以前ならば台詞が多少聞き取れなくても場面を察することが出来た観客達も、いつからか、一から十まで言葉で説明しないと話がわからないとおっしゃる方々が増えました。要は舞台上の演者さん達と観客達の間でも非言語のコミュニケーションが取れなくなってきていて、興行側もそうした客層の変化に伴い、半ばクレーム対策として誰にでも解りやすい芝居をつくるようになっていくという悪循環が。

どうして、そういう企業や社会や演劇界になってしまったのか?
そうした社会の流れの根源にあるのは、小学校くらいからの義務教育にあるんじゃないか?そう漠然と思っていたこの十年ちょっと。自分を振り返っても、丁度、日本は高度成長期で受験戦争なんて言葉も生まれ、試験に受かる為の知識の詰込み教育を文科省が進めていた時代に育った世代でしたし、それは今の企業の役職世代も同じですから。
しかし時代は変わり、ダイバーシティーだコミュニケート能力だと世間が言い出してたものの肝心の企業TOP層そのものはまだ自分の権力無しに立場が違う人とのコミュニケーションが出来ない人が多い。無理もないですよね、そういう中で生きてこなかったから。
しかし、日本の高度成長はとっくの昔に終わり、バブル崩壊以降、失われた10年が20年になって今度は30年・・・もはや失ったものが元に戻るなんてことは夢物語だと多くの人が気付いていますよね。
世界のパワーバランスも大きく変わり資源のない日本は今後、弱小国となっていく可能性もある中、色々な立場の人達が存在するようになる。その時に、社会という共同体を保つ為に必要となっていくのがコミュニケーション能力(異なる者と対話する力)なのかと思います。

対話の力を育むものは何なのか?
それは他者に対する想像力、そして互いの意見を尊重し譲歩し合ったり新たな方向性を考え出す思考力だったり、色々ありますよね。決して自分の意見を押し付ける為の(ねじふせるような)説得ではないものが。
(弁が立つと言われる人達の会話能力は対話力とは違います)

昔の義務教育のように知識を詰め込みテストの点を上げるだけだったら、現代ならオンラインでも可能だし、むしろ効率的。しかしながら、対話の力を育む為には人と人が共に居て互いに話しあったり相手が考えていることを察するという経験の蓄積が必要になり、それにはどうしたって(学校に)集まることが必要になるんですね。
同様のことが企業の中でも起こっていて、オンラインの方が効率的に進められる業務も多くなった今、それでも企業という共同体をよりよい形に保つ為には互いのコミュニケーション能力が必要であるし、その為にオフィスという「集まる場」が必要で、社会における「集まる場所」こそが「劇場」なのではないかなぁ~?と私は思うんです。

本来は幼少期に育むことが一番よいらしい「非認知スキル(テストで測れる学力=認知出来る能力に対して数値化できない能力を示し、例えば集中力や忍耐力、協調性、自己制御能力などを示す)※平田オリザ著、22世紀を見る君たちへ、参照」を育む経験をしてこれなかった、もう大人になってしまった今の管理職達も遅いということはありません。
立場の違う人達が沢山出てくる芝居を劇場で観て、登場人物一人一人の立場になって考えてみたらいい。自分の理屈を一回どこかに置いておいて。自分が会社から与えられている権限や権力も全て取り払って。
そうした想像を伴う思考回路が脳内に育つことで、人には「察する」というスキルが定着するんですよね。そこから先にしかコミュニケーション能力なんていうものは生まれてこないんだろうなぁ~と私は体験的に思っています。

ざ~~~っと書いてしまいましたが、これからの日本や世界で生きていく中で、自分が住んでいる地域だったり仕事をしている環境の中で、少しでも皆が良い方向を選んでいけるように。
その為に、今の日本が陥ってる「想像できない教育を受けた人々」が多数を占める社会を変えていかなければ、どんどん、自分達が生き辛くなっていくだけで、社会的弱者が切り捨てられる恐怖の中で人々は生きていかなければいけない。
そうした未来を望むのか?
今、踏み止まって考えるべき時がずっと前から来てるのに「想像できない」が故に踏み止まることが出来ない間、強者だけが自分達の利益を守る為に都合の良い改悪にあけくれる現代の日本社会。もう気付かないふりは止めたほうが身のためですよね?お互いに。


<0> 追記

こちらの記事で御紹介させて頂いたシンポジウムですが、世田谷パブリックシアター学芸部さんが、PDFデータとしてレポートとして詳細な記事をまとめて下さいました!(ありがとうございます!)
と、同時に、こうしたシンポジウムの内容を多くの方々と広く共有出来るように「知恵の収蔵庫」という形で集積なさっていかれるようです。とても良い試みですよね。今後もとても楽しみです。

シンポジウムのレポート ↓↓


こちらは「知恵の収蔵庫」開設にあたっての白井芸術監督のメッセージ。


<1> シンポジウム概要

教育の中に演劇を取り入れることに積極的な自治体というと、今回のシンポジウム主催である「世田谷区」そして「豊岡」と「静岡」の3地域でしょうか? 静岡と豊岡は演劇祭も行っていますし、拠点となる地域との連携・連帯という意味でも「教育」の中に「演劇」を活用しやすい環境が揃っているのかなぁ・・・と(卵が先か鶏が先か?はあれど)想像しておりました。

上記にだだ~っと書いてしまいましたが、元々、自分が長々と舞台を拝見し続けていく間に演劇における観客がいる意味にについて漠然とした問題意識が生まれまして、そうした問題の元の元を辿っていくと、戦後からの日本教育の中に私が感じている問題の根っこが繋がっているんじゃないか?という漠然とした直感はあったものの、それらを理路整然と言語化できなかったんですね。
そうした中、今回お伺いしたシンポジウムの中で自分の中に抱えていた問題意識の点と点が繋がって一つの線が生まれたような、そうした発見と楽しさがありました。本当に有意義な2時間半だったと個人的に思いましたので、そうしたものを言葉に落としたいと思います。
(なお、レポートではありませんので、事前に御了承下さい)


 日時:2024年5月25日 15:00~17:30
 ファシリテーター:高尾隆さん
         (東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)
 場所:世田谷文化情報センター セミナールーム

 登壇者:下手側から、下記4名の方々です。
     白井晃さん(世田谷パブリックシアター芸術監督)
     宇都宮聡さん(世田谷区立教育総合センター長)
     平田オリザさん(芸術文化観光専門職大学学長)
     嶋公治さん(豊岡市教育長)

シンポジウム リーフレットより抜粋

平田オリザさんと白井さんは皆様ご存知のように演出家さんで演劇は専門分野ですし(平田さんは劇作家でもいらっしゃいますし、白井さんは俳優さんでもいらっしゃいますが)、宇都宮さんと嶋さんは、以前、地域の校長先生をなさっていらしたそうで教育畑の御出身です。なので、登壇なさった皆様、御話が解りやすい。始まって早々、これは「聞く」方の練習にももってこいな機会だなぁ~と思って、「聞く」ことにも注力した2時間半でした。内容は以下のようになります。

 「第一部」 それぞれ20~30分程度
   ①嶋さんより「豊岡市における、教育と演劇の関わりと歴史」
   ②平田オリザさんより「コミュニケーション授業」について
   ③宇都宮さんより「世田谷区における取り組みや活動など」
   ④白井晃さんより「世田谷SPCの学芸活動などについて」
    (休憩15分)
 「第二部」
   御登壇者の皆様のクロストークを30分ほど行った後に質疑応答


豊橋市の取り組みなどは、下記HPなどに詳しく紹介されています。

特に特徴的かなと感じたのは、「効果があったように思う」というような漠然としたものではなく、外部(青山学院大学社会情報学部 学習コミュニティデザイ ン研究所)に調査を依頼し、データ化したことと、効果を得る為に的確な方策を検証なさったことかと思います。

「2023 年度 豊岡市非認知能力向上事業検証会議概要より」下記参照

https://www.city.toyooka.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/250/2023hininchi.pdf


世田谷区(宇都宮さんがセンター長の施設)の御案内はこちらです。


<2> 自分の中の気付き

教育が専門の方々、演劇が専門の方々、各2名×2分野で4名の方々が20~30分、小学校や中学校における演劇の取り入れ方(コミュニケーション授業)について説明して下さったり、現状や取り組みの過程をパワーポイントを紹介して下さるので、私の脳内メモリーではとてもじゃないけど全てを正確に記憶することは出来ないし、何より、ちゃんと「聞く」ことに集中したかったので、あえてメモも取りませんでした。
伺った中で、自分の中に残ったことをいくつか書きたいと思います。

① 人の話を聞く

「人の話を聞けなくなった(音としては認識できるけれど、内容を理解できない)」または「文章を読めない(文字としては読めるけれど、内容を正しく理解できない)」人が大学生の中にも増えてきた、とニュースになったのはどれくらい前だったでしょうか?
人の話を聞いて理解することや文字を正しく理解することも、会話や読書などの経験が養う基礎体力みたいなものなので日常からの慣れが必要ですけれど、そうした基礎体力がないと人と人が集まっても「対話」にさえならないですよね。
人の話を聞くにも段階があって、ファシリテート的な技術だと「よりよい聞き手になること(話す人が話しやすい聞き手で居ること)」も同じく慣れが必要なことなので、こうした色々な立場の方々の話を伺う機会は「聞く」経験を養う上でもよい機会でした。
話す人が居て、聞く人が居る。
それは演劇における、演じる人が居て、観る人が居る、その関係性と同じなんですよね。
両者の間の空間には非言語の意識が飛び交う。そうしたものを放ったり受け取ったりすること自体も「対話」の基礎なのだと思います。


② 日本の教育方針を決めてきたのは文科省

私は日本が高度成長期の時に小学校の義務教育を受けました。
当時、校内暴力がニュースになり始めた時だったのかなぁ・・・、私が住んでた地区の小学校では小学4~5年生の頃からクラスの半分くらいが塾に通い、私立の中学を受験して区外の中学校に進学するという感じでした。
受験戦争なんて言葉もあったくらいですから、学んで理解するというよりは、問題を早く正確に解ける方法を覚え、効率的に高得点を取れる子供が優秀な子とされた時代だったんですよね。親も子供も、そうした教育に疑問を持たなかった。
そうした時代が続いたのは、いつ頃までなんでしょう? ニュースで「ゆとり教育」なんていう言葉を耳にした頃に、それまでの「詰込み教育」を見直した、ということなのでしょうが、「学ぶ」ということの根本から考え直したわけではなく単に教える分量を減らして「(時間的な)ゆとり」をもたらしただけのことだったようで、結果、日本の子供の学力低下が顕著になり、また「詰込み」の方に舵を戻していった文科省は、そうした政策的な誤りを反省したことがあるのでしょうかね?

日本の経済が右肩上がりで続き少子化も起こらないなら、「詰込み教育」で優秀な(社会を回す)駒になれる人材を大量生産した方が便利だったのだろうけれど、今、時代は変わり「物を作る」時代から「価値(サービス)を産む」時代に変わって労働者の人口も減っていくのに、日本の義務教育方針(=方針を決めてる文科省)はそうした社会の変化に対応していけてないんですよね。
そして、今、社会の大部分は、そうした義務教育の中で育ってきた大人達が新しい時代の流れに対応する為の能力(コミュニケーション能力の向上など)を求められているけれど、教わってきてもいないし、自分自身(特に男性は)コミュニケーションを意識しなくても男性社会の暗黙の優遇によって従順に上司や会社の言うとおりにさえ動いていれば、そこそこ最低限以上には出世出来て仕事の能力は高くなくても生きてこれたんですよね。
そういう意味では女性(特に働き続けてきた層)は長年ガラスの天井の下で苦労してきた分、コミュニケートに長けているので時代の変化に適応できる人材がいるのに、実際の役職者は圧倒的に男性が多いので、自分達の男性社会の崩壊につながるような改革は行わない。根本的に何かが間違ってませんかね?と思うのが今の日本社会だと感じます。私が感じている「社会の歪み」はそこから来ているのだとも。


③ ここから先

人は追い詰められなければ、もっと言えば自分に実害が押し寄せてこなければ、社会全体の歪みなど自ら直そうとはしない。
日本経済においても、各企業や業界内においても、同様ですよね。
でも、社会の歪みは、仮に自分は世代的に免れたとしても、自分の家族や未来を生きる子供達に押し寄せてくる。自分達が見て見ぬふりをしたツケを未来に先送りしてるだけのことだと自覚するのか?そういう事だと思います。
自分一人に何が出来る?
そう想う気持ちも解ります。
でも、少なくとも、コミュニケーション能力を養って、周りと「対話」出来るようになって、何も悪いことはないですよね?だったら、今から一歩を歩み出せばいい。その先で自分の立ち位置から見える以外の世界が目に入るようになってくると思いますよ?
「対話」は本当に難しい。
単なる「会話」でもなく、「説得」にならないように、互いの尊重と折り合いの世界の中で両者が納得出来る結論を導き出す「対話」を行う。
その時に、自分の些少な不利益を全体の利益の前に必要なものだと自己制御出来ない人間がとても多いので(所有欲は本能的なものですし)、そこに争いが生まれてしまう。人類の歴史の多くは争いの歴史なのはそのせいですよね。


<3> 色々なものがつながってくる

シンポジウムを通して考えたことを書いていたら、昨日観た「未来少年コナン(舞台版)」の中とつながってくる部分が多いことに気付きました。
インダストリアの局長レプカ、あれは人の話に耳を傾けない男だと劇中でも評されていますが、正に「対話」が出来ず、社会の中で「協調」することを拒み、我が身の独占欲のみに突き進む男の末路でしたよね。
それに対比する形で描かれるコナンは人間や社会の本来あるべき姿として描かれている存在だし、船長のダイスやインダストリアのモンスリーは「変わっていくこと」に遅すぎることはないと言っているかのようで。そういう意味では普遍的な要素を多く持つ作品なのかなぁ・・・とも思います。


御紹介したシンポジウムを拝聴してから、豊岡市や世田谷区のHPを拝見したり、平田オリザさんの著書を取り寄せ読ませて頂いたりして、自分の中にあった気付きの点と点がつながり一つの線を見つけ出す過程を重ねていますが、まだまだ、最初の一歩のような状態で。
でも、そうした世界に触れて、なぜ、自分がそうした中に興味を持つのか?何を考えるのか?こうして言語化していくことで自分の頭の中が少しはクリアーになっていったりするので、その為のメモ書きのようなものですが。

きっかけを作って下さった主催(世田谷)および御登壇なされた皆様、ありがとうございました。
客席の参加者はシンポジウムの内容的に教育関係の方々が多かったようですが、こうした内容こそ、そうした関係者だけでなく広く社会一般に、そして演劇に興味を持たれている方々にも、広く共有されていったらいいのになぁ・・・と勿体なく思っています。
そうした機会の創出に、是非、公共劇場の方々も積極に動いて下さったらなと願っております。


こちらはシンポジウム当日の様子をアップして下さった主催者様のX。