
参天台五台山記読記036
十三日(壬辰)
本日も晴れる一日だった。卯時に出発した。五里進んで、永保鄉にある旻十三さんの家で休憩を取った。さらに五里進み、飛泉口で休息した。続けて五里進んで、陳七叔さんの家に着いて一服した。みんなでお茶を飲み、支払おうとしたが、陳七叔さんがそれを断った。



さらに三里進んで景福院に着き、そこで休息した。そして金堂にある高さ半丈六の釈迦如来像に参拝した。心賢師は、古い仏教経典の中から、「療痔病経」「八陽経」「地蔵十王経」を選び出し、それらをまとめて書物にした。
さらに二里進むと萓家橋に着き、そこで休憩をとった。そこには「天台県まで後二十里、関嶺から二十里」と書かれた標識があった。
そして五里進むと、高さ五上の石塔が見えてきた。この石塔は何方洋塔と呼ばれているものだった。
さらに五里進むと、午時に赤城山が見えてきた。山頂にある塔を遥拝した。そこは智者大師が入滅された場所であり、今日初めて拝見させていただき、感動のあまり涙が溢れた。




支那文化史跡』)



その後も五里進み、未時に清家に到着し、そこで足を留めた。頼縁供奉は百五十八文を出し、十三人の人夫にお酒を御馳走した。
途中、「大平鄉から東、国清寺まで十里、京県まで五里」という道しるべがあった。
大家さんは求道の心があり、お茶を奢ってくださった。しばらくすると、赤城山の南側に赤石で作られたお城が見えてきた。
さらに五里進んで、国清寺山に入り、高さ五丈の石塔(五重塔)が見えた。山道を五里進み、未時の一点に、国清寺の大門前に到着した。橋殿がほのみえ、お寺を囲む松の木々が十里ほどの長い参道を形成していた。木々が美しく、白く輝いており、周りには五つの峰がお寺を囲んでいた。二つの山渓が合流するなど、四つの絶景が素晴らしかった。

寺主賜紫仲方、副寺主賜紫利宣、監寺賜紫仲文をはじめ、数十人が出迎えてくれ、一緒に大門から入って、椅子に座りお茶を楽しんだ。
そして、宿房に案内され、僧侶たちが暖かく接待してくれた。平生の知己のような感じがした。再びお茶を飲み、寺主大師が唐暦を取り寄せて本日の吉凶を判断したところ、壬辰の日で吉日とのことだった。それで、お堂へ参って線香を焚いた。


最初行った敕羅漢院には、十六羅漢の等身大木像や五百羅漢の三尺像があった。仏像の前に其々茶器が置かれており、寺主に導かれて、一つ一つの仏像に線香を上げて礼拝した。感動のあまり涙がたまらなかった。これまでただの伝説として聞いていたものが、現実の景色として広がっていたことに、大きな感動を覚えたのだ。
次に大仏殿を参拝し、丈六の金色釈迦像、その両脇の丈六の弥陀、弥勒像に線香を上げて礼拝した。さらに戒壇院を参拝したが、その美しさに言葉を失った。そして、大師堂を参拝した。額は「真覚法空大師院」と書かれており、智者大師を模したお像は禅床に安座し、定光古仏(宋初の高僧)の影像が宝座の上に掛けられており、さらに三方には天台の諸大師は一堂に集まった。線香をあげて礼拝した。後日、他の堂舎も参礼、焼香する予定だった。

国清寺は、隋朝開皇十八年(戊午)正月二十九日に、司馬王弘が皇帝の命令を受けて、智者大師の遺旨によって建立された。唐の武宗皇帝の時代、會昌五年(乙丑)に下ると、三澄が住持したこのお寺は廃寺となった。いわゆる「会昌法難」に遭われたのだ。宣宗皇帝の時代、大中五年(辛未)正月に、再建の勅命が下され、殿堂の数が八百に登るほど寺勢が大きくなった。お寺は天台県の北十一里の地に所在していた。

宿房に戻ってから、しばらく休息を取った。申時に、寺主が素晴らしい献立の晩餐会を用意してくれていた。食卓も丁寧に飾り付けられており、何とも不思議な雰囲気だった。
七時には勤行を修了した。輿に乗っていた際は、通常より六巻多くのお経を唱えた。酉時に入浴院で風呂に入った。そこでは毎日湯に浸かることができるようだった。
