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参天台五台山記読記042

住持の老僧が迎えに来て、両手を胸の前で重ねて挨拶をした。布施として銀一両を納めた。智者大師のお墓から出て、輿に乗って大慈寺に向かった。南北に金地、銀地道場が広がった。東西には松の植木や竹が茂み、そのなかに一本の道が通るようになった。二里進んだら、大慈寺に辿り着いた。

天台金地嶺(画像引用元:sohu.com)


陳朝の太建十年(578、戊戌)二月六日、宣帝(陳)が智者大師の為にお寺を建てさせ、それを修禅寺と号した。仁壽元年(601、辛酉)にはこのお寺が国清寺の出現により荒廃した。そして、改築が行われ、禅林寺と寺名が改められた。會昌法難(845年頃)の破壊を受けたが、建て直しが行われた。
殿堂など部屋数は219と多かった。大宋三朝(宋真宗の時代)大中祥符元年(1008、戊申)七月初三日(辛酉)、勅命により禅林寺の寺名が大慈寺に改められた。これは、正に智者大師が伝法された縁のある地であり、銀地道場とも号した。

国清寺伽藍配置図(画像引用元:『支那文化史蹟』)


智者大師は陳の太建七年(575)にその兆しに心驚かされ、東方に遊んで、九月にこの山に辿り着いた。そこで定光禅師と出会い、夜には金地に宿られた。禅師には、北峯が銀地に当たるから、爾が此処に住すべし、と勧められたので、初めて道場に入られたのだ。

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