長く悲しかった親の介護の話 その1
私の一番つらい体験をここで披露することは躊躇していましたが、今回自分の記録として残すことにしました。
悲惨な内容なので介護経験の無い方はピンとこないでしょう。今介護問題を抱えて苦しんでいる方には、共感できることがあるかもしれません。
私は、親の介護問題を22年抱えておりました。2013年に母が、2015年に父が亡くなって終わったわけですが、確か1993年に母が倒れて再起不能になった時に、私の人生の一部は終わっています。そして20年後に母が亡くなった時点で半分は終わってしまったでしょうか。もちろん娘2人はもっと大事ですが、母のことは1日たりとも忘れていません。
母のことは物心ついた頃から大好きでした。でもそれを表現したことも甘えたこともりません。昔の人間だし照れ屋だし。
母は、父親を戦争で亡くし(フィリピンで死んだらしいことしか分かっていない)、さらに中学生の時に仲の良かった妹を亡くして、小さい頃から働きづめだったようです。そして19歳で父の養子先に嫁ぎました。
さらに長男(私の兄)を生後3ヶ月で病気で亡くしています。だから私は危険なことをしないようにしないようにと育てられました。そのせいで今でも水泳がヘタで高所恐怖症です(笑)。でも貧乏な兼業農家だったから家の手伝いはかなりしましたよ。
私が中学生の頃から父の体調が悪くなり、あまり稼げなくなったものですから、母が余計に働くようになりました。そして私が高校、大学と進学したから働きどおしでした。私も大学ではバイト三昧で負担をあまりかけにように
したとはいえ、家計を支えるため、母は苦労しっぱなりだったと思います。恥ずかしいことですが、母は何より父の存在がものすごくストレスになっていました。
この頃に、実は母は頑張っていただけで実は身体が丈夫でなく、高血圧で薬に頼っていることを知りました。離れて暮らしながら、母のことが気になっていました。
1990年頃母はついに脳梗塞になって入院し、その後血管のコブが見つかってクリップを止める手術をしました。この時も家族で協力して世話をして何とか母は復帰し、そのうち仕事に復帰しました。しかし、母が倒れて少しは優しくなると思われた父が今まで以上に荒れるようになり、益々母を苦しめました。
1992年秋の稲刈りのさなかに、母が「お前のところに1人で行って一緒に住みたい」とボソッと言いました。よほど父と離れたかったのだと思いますが、父を1人残して逃げるわけるわけにもいかず、生返事しただけでした。
でもいつか取り返しのつかないことが起こるんではないかと悪い予感がしていました。優柔不断で当時まだ給料も安かった私は何も手を打ちませんでした。
そしてその数ヵ月後に母は輸血が必要な酷い胃潰瘍で入院しました。見舞いに行った時よほどショックだったのか「屋上から飛び降りたい」とこの時も小さい声で呟きました。
退院してしばらく経過して、父と母を松山市によびましたが、この時私はなんとか総合病院で精密検査でも受けさせられないものかと考えていましたが、大した作戦も無いので、気難しい父を説得できずに、田舎に返してしまいました。母は私が彼女を紹介してくれるものを期待していて、それが無かったのでショックだったようだったと後で父に聞きました。
そしてあろうことか松山に出てきた疲れでまた体調を壊し、その後血圧も上がり入院しました。
仕事で土日も出張や残業が多かった私はこの時見舞いに行けず、退院した翌日に実家に帰りました。そしてこの日から激動の日がスタートすることになりました。
この日母と2人きりになった時、やっと言いました「もう働かんでいいよ。俺が面倒見るから」と。母はすまなそうなちょっと嬉しそうな反応だったと思います。
そしてその約1時間後に私の目の前で母は倒れました。明らかな脳溢血。
救急車を呼びましたが、その当時はまず近くの病院へ行く規則で、検査で激しい脳内出血ということだけわかりました。その病院は脳外科も無く時間が無駄になっただけで40キロ離れた脳外科に運ぶことになりましたが、「だから何度も言ってるやろ」と激怒したいところを我慢して、やっと脳外科のある病院にたどり着き、即長い手術。電話で私より遠くにいて嫁いだ姉と妹を呼び、2人はすぐに移動開始しました。
母は一命をとりとめましたが、脳内出血が多く、かなりひどい後遺症が残るを宣言されました。
恐れていたことが、本当に起こってしまいました。そしてこれからどうなるのかという底なしの不安もおしよせました。何より母を守りたいと思い続けてそれを実行せずに救えなかったこと、小さい頃から苦労しっぱなしの母を55歳の若さで再起不能にさせてしまったことが一番のショックでした。
母が可哀想過ぎるという悲しさ、守れなかった激しい後悔、これからの大きな不安という3つのことが頭の中をグルグル回り続けていました。
でも悩んでいる暇はありません。当時は世話の大半を家族がやらないといけなく、また大手術の母の介護は2人がかりでないと無理なため、残った家族4人2人ずつ交代で張り付きました。実家と片道45分かかる病院と実家を行き来しながら。
この時は、私は会社をやめて田舎に戻り、結婚もせずずっと介護だろうなと覚悟が出来つつありました。
しかし一週間後、姉と妹から「あんたが働いてくれないとお金が持たない」と説得され、松山に戻り2週間に一度実家に帰る生活になりました。
しかし帰った時に当時の彼女から「田舎で親が再起不能になった人とは結婚できない。親も親類も皆反対している」と宣言されてしまい、唯一の心のよりどころが無くなってしまいました。それでも出張して精力的に働きました。でもどんな時でも1分に1回は母を思い出すという状況がエンドレスに続きました。
それだけ母は、最愛の人だったのです。
親の介護は誰しも厳しいものです。しかしある程度老後を楽しんだ75歳以上で介護が必要になったのなら、まだ可哀想という点は大きくは無いと思います。が、私の母の場合人生苦労しっぱなしで若くして再起不能になったわけなので、本当に可哀想で可哀想で常に胸が張り裂けそうでした。
田舎の病院に入院して数ヵ月、母はなんとか世話をすれば食事が少しはできるようになっていました。でも右半身は全く動かないから寝返りも打てず、24時間ほぼ2人体勢での世話が必要でした。この頃は基本家族が面倒見ると書きましたが、私がいない間は、病院介護専門の家政婦さんを雇っていました。24時間で1万円払い、うち4千円国から返ってくるという仕組みです。中には働かない人もいましたが、ほとんどの人に凄くお世話になりました。介護のコツや洗濯の仕方もこの時のおばさん、おばあさんに習いました。
後、振られた彼女となんとか寄りを戻しました。「今更新しい彼氏を作って結婚までいくって面倒やろ」という強引なせりふで。それが今の奥さんです。後この時「結婚しても絶対に親の介護はさせない。全部俺がやるから」と約束しました。
次に母を松山のリハビリ専門病院に転院させるという大事業がありました。田舎の病院から片道5時間を私が自分の車で先導してどうにか転院しました。
しかし1ヵ月後、ようやく母が自分で車椅子を動かすことができつつあった時に再度不幸なことが起きました。
今度は頭の逆側が脳内出血したのです。そして近くの脳外科に転院しましたが、この時はもう手術もできず、点滴で処理をしましたが、母の苦しみは想像を絶する感じで暴れ、もがき続けました。
そんな母を泣きながら抑え続けたのも、今日書いてて思い出しました。この頃は、姉と妹も資金が付き、父が週に5回、私が週に2回病院に泊まり込んで介護をしていました。
2つの脳外科の病院は、なかなか凄まじい環境でした。日々倒れて運ばれる患者と亡くなる患者。「お父さん、死んじゃ嫌だー」等と泣き叫ぶ声も何度も聞きました。人の命のはかなさを常に感じていたと同時に、脳外科で働く医者とナースは、相当な覚悟が必要なんだなと分かりました。
2回目の脳内出血により。母は知能障害があり、せっかく話せた片言すら発することができなくなっていました。母の介護はここから18年半続きますが、2回目倒れたことにより自宅介護は不可能になり、病院や施設を転々とします。
この続きは気力があれば近々書きたいと思います。
以上長々と私のツライ記憶にお付き合いいただきありがとうございました。
いや、暗い暗い内容で申し訳ないです。