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6 汚れちまった悲しみに

オフィスに着いてドアノブに手をかけた所で、トミタロウは室内の異変に気がついた。第六感とかサイキックの能力とか、そういうものではない。部屋の中から声がしたのだ。

「あ…ん……そこは…」

ハルキの声だ。いつもの雰囲気ではない。しおらしいというか、艶かしさがある。
室内に人の気配はあるが、異様に静まり返っており、何か嫌な予感がした。

「大丈夫だ…」

静かなフォルクハルトの声。こちらは、さほどいつもと変わらないような気もする。何が一体「大丈夫」なのかはわからない。

「え…でも…あっ…」
「声を出すな…」
「ん…」

(いやいやいや…そんなまさか。朝っぱらから、そんな事は…)
嫌な予感を頭の中で否定するが、怖くてドアを開ける勇気が出ない。

「ほら、大丈夫だったろ」

フォルクハルトの声だ。だから、一体何が「大丈夫」なのか。声を出してはいけない理由はなんなのか。僕はドアを開けてしまっていいのか。

「ゆっくりでいい」
「うん……あっ」
「落ち着け。そんなに緊張する事じゃないだろ」
「でも…」

トミタロウには、ハルキの声はどう聞いても情事の最中としか思えなかった。もう直ぐ始業時刻である。
(そんなこと…ある訳…だって、別に恋人とかじゃないって言ってたし…なんだこれ、どうしたらいいんだ?)

「ん…」
「ほら、いけたろ?」
「うん…」
「次いくぞ」
「え、待て!それはいくらなんでも…」
「だから大丈夫だって言ってるだろ…」

何も大丈夫じゃない。
「…何してんの?」
不意に後ろから声をかけられてトミタロウは心臓が止まるかと思った。たぶん一瞬止まった。振り返るとミドリが怪訝な表情で立っていた。トミタロウはできる限り小声で話す。
「ミドリさん…あの、なんか…中にお二人がいらっしゃるんですけど、様子が…」
ミドリはトミタロウの様子から、なんとなく事情を察してドアに耳をつけ中の様子を伺った。

「ダメだ!そこは触っちゃ…あ…」
「どこがダメなんだよ」
「ん…」
「ほら、お前の番だぞ」
「う…どうすればいい?」
「俺に聞くな。」
「しかし…こんな状態では…」
「お前が誘ったんだろうが」
「…そう…だが…」

ミドリが勢いよくドアを開ける。
(えええええええ?!!)
トミタロウは声にならない悲鳴をあげた。
「あ、ミドリ。おはよう」
室内にいたハルキは、いつものトーンで挨拶をしてきた。
「おはよう。何してんの?」
「将棋崩しだ」
ミドリの問いにフォルクハルトが答える。トミタロウが室内を見るとテーブルの上に何かが積み上がっていた。将棋の駒だ。
「実家から将棋持って来た。あ、トミーもおはよう」
「お…おはようございます…」
トミタロウがおどおどしている事にハルキが気づく。
「どうした?」
聞かれたが、トミタロウは言葉に詰まった。
ミドリの後ろに隠れて、ミドリにだけ聞こえる声で反省する。
「すみません。僕の心が汚れていただけでした…」
「二人が情事の最中だと思ってたぽい」
せっかくコッソリ伝えたのにミドリはそれを台無しにした。
「ミドリさん?!す、すみません…本当にすみません!」
ハルキはポカンとしたあと、笑い出した。
「ないない!それはない!」
ゲラゲラと大きな声で笑う。トミタロウは必死に謝る。
「でもまあ、外で聞いてるとハルキの声がちょっとエロい感じだったなとは思った」
「ええ?そんな事ないだろ。な?」
ミドリは感情のない声で伝えたが、ハルキはケラケラと笑って同意を求めるべくフォルクハルトの方を見た。
「…」
フォルクハルトは、黙って視線を逸らして目を合わそうとしない。ミドリと同じように、感情を排した無の顔をしている。
「何か言えよ!ちょ、え、そんな事思いながら将棋崩ししてたのか?!」
ハルキの顔がみるみる紅潮する。
「思っては…ない」
絞り出されたフォルクハルトの言葉にミドリの表情が険しくなる。
「何その含みのある言い方」
「…」
フォルクハルトは目を逸らしたまま、何も言わない。
ミドリはフォルクハルトの左腕をとって脈を測った。
「心拍は…チッ…いつも通りか」
「確認しなくていいだろ…」
ふと見ると、トミタロウがものすごく悲しそうな顔でフォルクハルトを見ていた。
「なんだトミー。それは、どういう顔だ?」
フォルクハルトに問われ、トミタロウは泣きたくなった。
「心が汚れていたのは僕だけなんですね…」
「ったく…始業時刻だ!仕事仕事!」
空気を変えるべく、フォルクハルトは大きな声で始業を告げた。
ハルキは、少しだけ「フォルクハルトは性欲がないのだろうか」と訝しんだが、直ぐに忘れて仕事を始めた。

おまけ

「普通の!普通の将棋しましょう!僕、将棋できますよ!」
昼休みにトミーが騒ぎ出した。
ハルキは「無理」と言い、ミドリには「ルールはわかるけど、挿せる程じゃない」と断られた。
「じゃあ俺とやるか。AIとの対戦も飽きてきたところだ」
と、フォルクハルトだけが取り合ってくれた。

トミーは負けた。

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