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44 河戸くんと田中さん

研究の中間発表会が無事終わり、研究室の面々との打ち上げもお開きとなり、僕と田中さんは自宅へ帰り着いた。学部の四年の頃にルームシェアを始めたので同居生活もそろそろ一年になる。家賃を減らすために始めたルームシェアだが、案外お互い居心地が良く、大学院に入ってからもその状況は続いていた。
順番に軽くシャワーを済ませると、冷蔵庫から缶ビールを二本出して、改めて乾杯する。
「まずは無事に終わって良かったー」 
田中さんはビールをグビグビと飲むと「ぷはー」と息を吐いた。いつものように、いい飲みっぷりだ。化粧を落として長い髪を後ろでまとめて、Tシャツにジャージというラフな格好でも、その整った顔立ちは絵になる。
「教授からの厳しい追究もなかったし、上出来上出来」
僕もよく冷えたビールの喉越しを楽しみながら、二人で喜びを分かち合う。
「二週間前にデータ足りないってなった時はどうなるかと思ったけど、なんとかなったね」
と、うんうんと頷く田中さんに、僕も同じようにうんうんと頷く。
「あれは危なかったよねー」
「はい、かんぱーい!」
二人で「いえーい」と言いながら缶を突き合わせる。
「ところでさ」
ビールを一口飲んだ田中さんが、急に神妙な面持ちになる。
「ユッキーと谷くん付き合い始めたらしいよ」
ユッキー(雪野さん)と谷くんは学部の四年生で、今年研究室に入って来た後輩達だ。
「え、知らなかった。」
仲は良さそうだと思っていたが、まさかそこまで進んでいるとは思わなかった。
「この前、学食の裏でキスしてるの見ちゃった」
田中さんは口元を隠してそう言った。
「マジですか…なんでそんなところで…キスか…」
僕は、ぼんやりとそんな事を返す。
「キスした事ある?」
普段そんな話をしない田中さんに唐突に聞かれて、一瞬戸惑う。
「んー、一回だけかな」
僕が答えてビールを一口飲むと、田中さんは身を乗り出してきた。
「えー誰?」
「高校の時の彼女」
田中さんは「へえー」と揶揄うようにニヤニヤしたあと、何かに気づいたらしく「あ」と声を漏らした。
「でも、そういえば、どっちかに恋人できたら、この関係は解消しなきゃいけないね」
「まあ、そうだね」
「そうなったら住むところ探さなきゃなあ」
「そうだねえ」
あまり考えた事はなかったが、まあ、言われてみれば当然の話しだなと思う。
「予定は?」
田中さんに聞かれて、僕は首を振る。
「ないない」
「いい人いないの?」
「四六時中一緒にいるのに、見た事ある?」
お互い研究室に入り浸って家に寝に帰るだけの生活なのに、そんなものがいるはずもない。
田中さんは「まあ、そうか」と納得してビールを一口飲んだ。
「ていうか、たぶん皆は僕らが付き合ってると思ってるよ」
「まあ、それもそうか」
同棲しておいて「付き合ってません」なんて、周りが信じるわけもない。実際は、完全にただのルームシェアで、そういう関係ではないとしても。
「もういっそ付き合っちゃう?なんて…」
僕は酔った勢いで半分冗談でそんな事を口走ってしまい、一瞬「まずかったかな」と思う。
「あーありっちゃありだけどね」
間をおかずに返ってきた田中さんの答えに言葉を失う。
「…………ありなんだ」
「………え?河戸くん的にはなしだった?」
ギョッとして「しまった」という顔をした田中さんの言葉を、僕は慌てて否定する。
「いやいやいや。ありです。全然ありです。僕にはもったいないなと思っただけです」
成績トップクラスで容姿端麗、教授達からの信頼も厚く、後輩からも慕われている。若干性格がキツイところはあるが、それも含めて彼女の魅力だ。
「何、もったいないって」
「んんんんん…」
彼女に追及されて言葉に詰まる。褒め言葉は溢れるように頭に浮かぶが、これを吐露してしまうのは勢いでいらない事も言ってしまいそうで危険だ。
「何?」
もう一度聞いてきた彼女は、空になった缶をテーブルに置いた。
「あ、ビール空じゃないですか」
僕は冷蔵庫からビールを二本取り出してきて「ささ、飲んで飲んで」と、彼女に新しい缶ビールを差し出す。
「えーそんなに飲ませてどうするつもり?」
彼女は冗談ぽく言って僕を揶揄った。
「いやいや、何もしないです。本当に、本当に何もしないです。ずっと何もしなかったでしょ?」
そう言った僕を少しつまらなそうに見て、彼女は缶ビールを受け取ると、プシュと開けて「まあ、ね」と言った。
「だって、付き合ってもないんだし」
言った僕に、彼女はニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「付き合いはじめたら何かするのかしら?」
ここまで言われると、流石に僕にも意地がある。
「田中さんがいいならね」
僕は余裕ぶって笑顔でそう返した。
彼女は「ふーん………」と言うと、視線を落として一呼吸した。
「いいよ」
僕は目を瞬いた。今、一体何を言われたのだろうか。聞き間違いか。
「いいよ」
彼女はもう一度そう言った。聞き間違えではない。
「いやいや、まずはちょっと段階を踏んでから」
「え?何?キスとかじゃなくて?」
慌てた僕に、彼女はキョトンとしてそう言ってきた。先走ってしまった事に気づき心臓の音が速くなる。
「あ……………キス…ね…キスはいいよ。と」
天井を扇いて「うんうん」と頷く姿は完全に動揺しているのが丸わかりだったのだろう。
「え?何にOKが出たと思ったの?」
彼女に怪訝な顔を向けられて、恥ずかしさから叫びたい気持ちになる。
「ごめん。ちょっと混乱してるから、整理させて」
なんとか叫ぶのは耐えて、彼女にそう伝えると、彼女は「はい」と改まった様子で返事をした。
「まず、付き合うって話は合意できた認識で合ってますか?」
「はい。相違ございません」
「で、キスはOKと」
「はい」
彼女は研究室での問答のように真面目な調子で答える。これも、ある種の揶揄いだ。
「うんうん。なるほど」
とりあえず、ここまでは整理できた。
「で、その先はどうなのかって話?」
「あ、まあ、うん。そうだけど、まだそんな話は、ね」
彼女に聞かれたが、今日付き合い始めたばかりなのにキスの先の話は早急だろう。
「うーん…試してみないと何ともなあ」
彼女がとんでもないことを言い出したので、また思考が停滞する。
「試す…………とは?」
「試してみたらいいんじゃないの?無理だと思ったら言うし」
「酔った勢いでそんな事言っていいんですか?!」
「酔った勢いでもないと話進まなくない?」
「えっと…この話…進めてよろしいので?」
「なんなのさっきから…」
「すみません。ちょっと混乱してます」
これは完全に彼女の手のひらの上だ。
「あ、ビール無くなってるね。ささ、飲んで飲んで」
僕の缶が空になっている事に気付いた彼女は、新しい缶を僕に勧める。
「えーそんなに飲ませてどうするの?」
僕は彼女がやったのと同じように冗談を言う。
「面倒だから襲っちゃおうかな?」
軽い感じで返してきた彼女の発言に、僕は目を見開いた。妄想が、アルコールで正気がぐらついた頭を掠めて生唾を飲む。
「なんで本気にしてんの?」
続いた彼女に冷めた口調で現実に戻される。
「あーずるい。それは、ずるい」
脱力してテーブルに突っ伏した僕を、彼女はケタケタと笑った。
「ねえ、付き合うなら呼び方変える?」
「あ、いいね。そういうの。」
話を変えてくれた彼女に同意して、難を逃れる。
「翠でいいよ」
「あーじゃあ…翠ちゃんて呼んでいい?」
「うん。じゃあ祥悟くんね」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
先ほどの空気は忘れて、和やかにお互い座ったままお辞儀をする。
ビールも飲み終えたらしい彼女、改め翠ちゃんが欠伸をした。
「眠くなってきたし、そろそろ寝るね」
「うん。僕も片付けて寝るよ」
打ち上げから考えると随分飲んだ。テーブルの片付けを終えて、それぞれの部屋へ向かう。
「あ。祥悟くん」
「何?」
部屋に入る前に声をかけられて振り返る。
「私は、今日試してみてもいいよ」
翠ちゃんは自室のドアの前で悪戯っぽくそう言った。
「また、そういう冗談言う…」
僕はため息をつく。そう何度も同じ手は食わない。
「本気。じゃあおやすみー」
「おやす…え?」
バタンと翠ちゃんの部屋の戸が閉まった。
「んー」
僕は頭ぽりぽりと掻く。今、彼女は「本気」と言った。
(試す…試す…何をどこまで?いや、それ以前に…)
僕は自分の下半身に問いかける。少し待ったが、応答はなかった。つまりはそういう事だ。ふうと息を吐く。
「こんだけ酔ってたら、勃ちません!おやすみ!もう…」
ドアの向こうから翠ちゃんの笑い声が聞こえた。


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