57 従順な男
ハルキは端末に来たメッセージを読んだ後、フォルクハルトに声をかけた。
「次の休みの昼メシは外で食べてくる。」
「わかった。カワトか?」
「いや、マツダだ。この前代わりにカイバラさんのチームに入ったお礼に奢ってくれるって」
フォルクハルトは眉間に皺を寄せ、少し考えてから「マツダ…て、誰だ?」と言った。
「カイバラさんとこの…うるさい方の男」
ハルキに説明されて、「ああ」と理解する。
「………二人でか?」
「あーうん。ダメか?」
ハルキに問われて返答に窮する。
「…ダメではないが…その…」
ハルキは「また心配なんだろうな」と思い、頭を掻いて鼻から息を吐く。お互い知っている人間なのだから、別にフォルクハルトがいても問題はないだろう。
「じゃあ、一緒に行ってもいいか聞いてみるか」
「で、本当にミュラーも来たわけだ」
マツダは、珍しい物でも見るように、目を丸くして呆けていた。
「そっちは、なんでローズがいるんだ?」
ハルキが聞くと、ローズがテーブルの向かいから身を乗りだした。
「マツダさんだけハルキさんに会うなんてズルい!」
「て、訳だ。ズルいの意味はわからんが。」
マツダは言いながらメニューをハルキに渡した。
「まあ、好きなもん頼めよ。ミュラーとローズは自分で出せよ」
各々好きなものを注文して一息つくと、マツダはテーブルに置かれた水を飲んだ。
「しっかし、ミュラーは本当に変わったよな。D地区の狂犬とまで言われたお前が、すっかりハルキの番犬じゃねぇか。」
グラスを置いたマツダに、フォルクハルトは怪訝な顔を向ける。
「なんだその二つ名は…聞いた事がないぞ」
「うん。俺が言ってただけだからな」
ハハハと笑う。
「だいたいなんで犬に喩えたがるんだ。」
やや不服らしいフォルクハルトに、マツダはまた笑った。
「ミュラーがなんかドーベルマンとか軍用犬ぽいからじゃね?」
フォルクハルトはハルキを見る。ハルキもそう思っているのかという確認だったが、彼女はふいと目を逸らした。
ローズが手を叩く。
「あーわかる!ドーベルマンて飼い主にはすっごい従順だけど、家族以外には警戒心強くて攻撃的って言うもんねぇ!」
マツダが笑いを堪えきれずに噴き出した。
「…まんまミュラーじゃん。」
「それは、ハルキが飼い主という意味か?」
フォルクハルトに睨まれて「いや、そうは言ってねぇけど…」と弁解する。
「そうそう、この前ハルキさんが先帰った時とか捨てられた子犬みたいな顔してたぁ!」
ローズの追い討ちに、フォルクハルトが奥歯をギリと噛み締める音がした。かなり腹を立てているらしい。ハルキは彼の肩に手を置いた。
「落ち着けフォルクハルト」
「………ん」
ハルキに嗜められて一旦は心を落ち着ける。
「ほら、従順じゃん」
ローズの言葉に、マツダは飲みかけていた水を噴き出した。慌てておしぼりでテーブルを拭いていると、フォルクハルトがゆらりと立ち上がった。明らかに怒っている。
「あ、ご飯きたぁ!」
火に油を注いだ張本人は、一切気にした様子もなく配膳ロボットが運んできたきたものをテーブルに移動させている。
マツダがフォルクハルトの様子を伺っていると、彼は運ばれてきたものを見て席についた。食事より優先するほどの怒りではなかったらしい。ともかく落ち着いたようで安堵する。
「あ、そうだ。」
食事をしながら、マツダはハルキに話そうと思っていた事を思い出し声を上げた。
「昆虫展の割引券があるんだが、ハルキ行くか?」
「え!いいのか?」
ハルキが目を輝かせて、身を乗り出す。
「ああ、知り合いから二枚貰って…」
ポケットから割引券を取り出してから、ミュラーを見て、はたと気付く。
「ええと…お前ら二人で行くか?」
本当は一枚は自分の分のつもりだったが、夫婦で行くなら二枚渡した方がいいかと思い聞いてみる。
「ん?フォルクハルトは虫は別に好きじゃないよな?」
「あ…ああ、まあ、別に…」
ハルキに問われてフォルクハルトはそう答えたが、何か思うところがあるのか歯切れが悪い。
「…じゃあ、一枚は俺が貰っとくな」
マツダは一枚をハルキに渡して、もう一枚はポケットに戻した。自分の分を確保できてホッとするが、フォルクハルトは眉間に皺を寄せてこちらを訝しむように見てきた。
「…一緒に…行くのか?」
問われて「やっぱりな」と思う。マツダは首を横に振った。
「いや、前は一緒に行ってたからそのつもりだったけど、ミュラーが怖えから別で行くわ」
「え?マツダなら大丈夫だろ」
ハルキがフォルクハルトの方を見る。
「前は二人で行っていたというのも初耳なんだが…」
フォルクハルトが不貞腐れたような顔になり、マツダは「そこからかあ…」と苦い顔をした。
「結婚前の話だし別にわざわざ言う事でもないから言ってなかったかもな。」
ハルキが軽い調子で答えると、フォルクハルトは気まずそうに目を伏せた。
「結婚する前なら…そうだな」
「ヤマトならともかく、マツダだぞ?」
「いい、いい。別に一緒に行きたくて渡した訳じゃねえし。ミュラーが心配なら、別で行こうぜ。変な疑いかけられたくねぇし。」
マツダは苦笑いしてそう言ったが、今度はハルキの方が不満顔になる。
「えーマツダと行く方が、いろいろ解説してもらえて楽しいのに…」
「こうやって友人関係を徐々に希薄にしていく感じ、モラハラっぽいよねぇ。こわ」
黙って聞いていたローズがボソッと呟いた。
モラハラ。モラルハラスメントとは、一般的は精神的虐待とも言われるが、その本質は相手を精神的に支配する事とされる。外部との接触を減らし支配をより強固なものとする手法は怪しい宗教団体などでもよく利用される。
フォルクハルトは頭を抱えた。別にハルキを支配したいとか、思い通りに動かしたい訳ではない。訳ではないが、実質やっている事は周囲からの断絶を促す行為だ。これまでの彼女の交友関係を無視して、向こうから彼女を避けるように仕向けてしまっている。これは、ダメだ。
「…二人で行ってくれて…大丈夫だ。」
フォルクハルトがなんとか絞り出した声に、マツダが慌てる。
「おいおい!無理すンな!俺だって、パートナーが他の男と二人だけで遊びに行ったら嫌だし。気持ちは分かるから。」
「えーでも、こういう束縛するのってぇ、結局相手を信じてないってことじゃん」
しかしローズは引き下がらない。
「ローズ、黙ってろよ…そういうのは二人の問題だろ」
マツダが、フォルクハルトの様子を気にしながら、なんとかフォローしようとする。
「いや、確かに言う通りだ。それは、わかっている。俺の問題だ。」
フォルクハルトは苦々しい表情で奥歯を噛み締める。
「そんな思い詰めなくても…ハルキも、なんか言ってやれよ」
ハルキに振ったが、彼女は彼女で「んー」と言って何か考えているようだった。
やがて小首を傾げながらフォルクハルトに問いかける。
「フォルクハルトは何を心配してるんだ?マツダがどんな人間か分からないから不安なのかと思って、今日は一緒に来ることにしたんだが、違うのか?」
ハルキの話にマツダが眉根を寄せる。
「え?どんな人間かわからないって、A地区の時から一緒に働いてただろ?D地区になってからも暫くは同じチームだったじゃねえか」
「フォルクハルトがそんなの覚えてる訳ないだろ」
「マジかよ」
ハルキに即答されて唖然とする。
「一週間前まで、カイバラさんとこのうるさい方の男としか思ってなかったぞ」
「うっそ!ミュラーさんて記憶力ないの?」
ローズがギョッとする。
「記憶力はある。容量の無駄だから覚えないだけだ」
「ひでぇ…」
当たり前のように反論したフォルクハルトにマツダとローズは異界の生物を見るような顔で彼を見た。
「でもまあ、パートナーがどこのどんな奴かも分からない男と二人で出かけるのは嫌だわな。なるほど。」
マツダは、それでもなんとか理解を示そうと試みた。
「うん。で、今日話してマツダの事はだいたいわかっただろ?あと、何が心配なんだ?」
ハルキに真っ直ぐ見つめられ、フォルクハルトは口籠る。
「う…」
正直、自分でも何が心配なのかはわからない。
確かに、マツダのこの様子を見るに、ハルキと二人で遊びに行って心配するような事にはならないだろうとは思う。
「自分に自信ないんでしょ?」
「…ぐ…」
ローズに言われて返す言葉もなく、ただ呻く。
「ミュラーがか???」
マツダは不思議そうにしていたが、確かにその通りだった。
「…そうかもしれん。未だにハルキが何故俺の事を好きなのかよく分からん。俺が人に好かれる様な人間だとはどうしても思えん。」
「え?未だにか?」
フォルクハルトが内心を吐露すると、ハルキも驚いて口をポカンとあけた。
「ほらぁ、だからそれが相手を信じてないってことじゃん。」
「?」
「自分の思い込みを優先して、ハルキさんの気持ちを信じられないって事じゃん」
フォルクハルトは、ローズの言ったことを頭の中で反芻した。自分の「好かれる訳がない」という思い込みを優先して、ハルキの気持ちを信じていない。
「………なる…ほど…」
「ローズ、なんかよく分からんがお前スゲェな」
マツダが褒めたが、ローズはそんな事には取り合わなかった。
「好き好き言ったって、結局パートナーの事信じてないとか、マジ萎えるぅ。」
彼女は蔑んだ目でフォルクハルトを見ていた。尊敬する先輩の事を信じることもせず、人生のパートナーという特等席に当然のように居座ろうとするこの男に腹を立てていたからだ。
「おい、言い過ぎだぞ。」
マツダがローズを諌めようとしたが、なんともならず、ハルキは黙ってフォルクハルトをじっと見つめ、フォルクハルト気まずそうに目を逸らした。やはり、ローズは連れてくるべきではなかったと、マツダは後悔した。楽しくランチを食べようと思っていただけなのに、とんでもない空気になってしまった。
「ま、メシ食おうぜ。メシ。」
なんとか空気を変えようとして、マツダが言えたのは、これだけだった。
家に帰ってからもハルキは口数少なく、何か難しい顔をしていた。
「どうした?」
フォルクハルトに聞かれても、そちらを見ようとはしない。
「どうしたら信じてもらえるのか考えてる」
考え込んでいる彼女に何か申し訳ない気持ちなり、その手を握る。
「いや、ハルキは充分伝えてくれている。俺の問題だ。」
「その問題を少しは手伝わせてくれ」
ようやくこちらを向いてくれたものの、少しむくれたような表情に困ってしまう。
「そう言われても…自分でもよく分からんから、どう手伝ってもらえばいいのかも、分からん」
「だから、一緒に考えよう?」
手を握り返され、心の奥まで見透かされそうな真摯な瞳で見つめられる。
「う…うん」
素直に頷いて、とりあえずは疑問に思っていた事を聞いてみる。
「ハルキは…どうやって人を信じてるんだ?」
考えてみると、家族を含めて人を信じるということをした事がない。
「え?あーなんだろう?」
ハルキは上を見て少し考える。
「でも、信じるって、意志だからな。」
「意志?」
「なんていうか、楽観的な意志なんだよ。この人なら大丈夫だろうっていう。」
フォルクハルトは首を傾げた。
「で、まあ、騙されたらその時はその時だなっていうか」
ハルキはまた少し考える。
「そもそも、私はフォルクハルトに愛されなくても、傍に居られればいいと思ってたクチだしなあ。」
ハルキに言われて、フォルクハルトは「あ」と声をあげた。そうだった。すっかり忘れていたが、ハルキはそうやって傍に居てくれたのだ。
「ハルキは…俺が、他の誰かを好きになったらとか、考えないのか?」
結局、不安なのはそこなのだ。ハルキが他の誰かを好きになって自分から離れていってしまうのではないかと思うと、それを考えるだけでも怖い。
「前はそんな事も考えて不安になったりしてたけど、今はないな。」
ハルキは軽い調子でそう答えた。
「どうして、そこまで信じられる」
「これは信じるとは少し違って…知ってる…かな。フォルクハルトは、そもそも人を好きにならないし、好きになってもらうのに相当苦労する事は身を持って知っている。もしなったとしても、私に黙って浮気なんかしないと知ってる。あと、嘘をついてもすぐ分かる。」
ハルキの言う事は自分でもそうだろうと思う。最後のトリックだけが未だにわからないが、そうらしい。そんなに表情に出る方でもないはずなのだが。前にどうやって嘘を見抜くのか聞いたがニヤニヤして「秘密」とだけ言って教えてくれなかった。
「それは信じるとは違うのか?」
「フォルクハルトを信じると言うより、フォルクハルトを知ってる自分を信じる。かもな。」
フォルクハルトは眉間に皺を寄せた。
「相手を知っている、自分を信じる。」
「信じると決めた自分を信じるとか?」
「自分を信じる。」
「あと覚悟を決める?とか?」
「覚悟を決める」
彼女の言う事を一つ一つ繰り返してみるが、どうも腑に落ちない。
「うーん…あ、どうしても信じられないなら、私に騙されてみればいいんじゃないか?」
ハルキは思いついて、ニヤリと笑った。
「騙される?」
「覚悟を決めて、騙されてみろ。損はさせない」
ハルキはフォルクハルトに寄りかかって下から顔を覗き込む。
「嫌か?」
悪戯っぽく微笑みかけられてドキリとする。
「嫌…じゃない」
「私はフォルクハルトしか愛さない。口ではそう言っても、嘘かもしれない。でも、そう騙されておけ。」
ハルキは俺しか愛さない。ハルキに騙されるなら、それも悪くない。
頬に触れた柔らかな手に上から自分の手を重ねる。
彼女の手のひらの上だ。でもそれが心地よい。
こんな事でいいのかと、どこかで思う。
「ちゃんと信じられるようになりたい」
「すぐには無理だろ。しばらく騙されていろ」
素直な気持ちを伝えたが、ハルキはクスクスと笑っていた。
「…はい」
結局は、彼女に従順な自分を受け入れてしまうのだな。と、フォルクハルトは思った。
おまけ
「しっかし、安全な男みたいな扱いを受けると、それはそれで微妙な気分になるな」
食事を終えて、二人を見送った後、マツダはぼやいた。
「えーマツダさんは安全な男ですよぉ」
別にローズに話しかけたつもりはなかったが、そう言われて尚更微妙な気持ちになる。
「ハルキは同期だからいいけど、一回り下の後輩にまで言われると男としての自信無くすな…」
「じゃあ、今から二人でカラオケ行きますぅ?」
「え…それはダメだろ。男女二人きり密室とか。」
「ほら、安全な男じゃん。」
ローズに言われてキョトンとする。
「え?普通だろ?」
「それを普通と思ってるから、安全な男なんじゃん。」
マツダは眉根を寄せて、首を傾げた。
「わからん…」
ローズはケタケタと笑っていた。