60 何もない日々
見えたのは、いつもの天井だった。
天井を眺めたまま、状況を整理する。
左側にはいつもの温もりがあった。視界の端に映る大きな体。見なくてもわかる。
ああ、夢か。と、安堵する。
同時に、本当にただの夢なら良かったのになと、心を締め付けられる。
「どうした?うなされてたぞ」
フォルクハルトに指で目尻を拭われ、泣いていた事に気づく。彼を見ると、心配そうにこちらを見ていた。
「あ…」
声は出したものの直ぐには言葉にならず、彼の方に体を向け、その胸に顔を埋める。柔らかい。
「事故に遭った時の夢を見た」
左上半身と弟を失ったあの時。目を覚まして、重くなった体に理解が追いつかないまま、弟の死を知らされた。
「そうか…」
フォルクハルトは優しく抱きしめてくれた。隣にいてくれて良かった。ひとりだったら、気持ちが落ち着くまで丸一日はかかっただろう。
少し経ってから、フォルクハルトがぽつりと呟いた。
「ハルキが苦しむような出来事は、全部起こらなければ良かったのに」
彼にしては珍しく実現できる訳のない夢物語を口にしたので、胸に顔を埋めたまま少し笑ってしまった。
「弟が生きていて、私の体が無事だったら、この仕事には着いていないし、フォルクハルトとは会っていないぞ?」
「…それでも…俺がハルキと出会えなくても、起こらなければ良かったと思う。」
顔を上げて彼の顔を見たが、下から見上げる形なので表情はよく見えない。
「たとえ出会えていたとしても、俺はきっと、サイバネのないハルキに興味を持たなかっただろうし、今の関係もなかったと思う。俺は、それまで通りだっただけだ」
フォルクハルトもこちらの顔を見る。ポカンとして彼を見つめていると、彼は少しホッしたように頬を緩めた。
「ハルキが辛い思いをしなくて済んだなら、その方がいい」
優しく微笑みかけられて、もしそうだったら自分はどんな風だったろうかと考え目を伏せる。
「私も、弟が生きていて、サイバネでなければ、フォルクハルトにここまでの気持ちは持たなかっただろうな。」
言って、またフォルクハルトの胸に顔を埋める。
「でもそれは…やっぱり、少し寂しいな」
自分の胸に顔を埋めるハルキを優しく抱きしめる。彼女の抱えてきた物の重さを考えてみるが、それを理解するには自分の思考は機械的すぎる。ハルキ以外に失いたくない家族がいたこともない。生家の家族は自分に対して温かな物ではなかったし、兄弟にも関わりたくないから絶縁した。肉体を失った事もない。生体を補完するサイバネの重みも、それで日常生活を送れるようになるまでの苦労も、不安も、「ある」のはわかるが、それがどんな物なのかは皆目見当もつかない。ハルキは苦しんでいるのだな、という事だけがわかる。
「苦しんでるハルキに、何もできない。」
嫌な思いはしてほしくないが、自分の手の届かない過去の話だ。どうしようもない。歯がゆい想いだけが燻る。
「今、こうして傍にいてくれるだけで充分だ」
言って彼女は胸に頭を擦り付けてくる。
「同情くらいできればいいんだが」
何となく言った言葉に、ハルキが噴き出したのがわかった。
「同情され過ぎると息苦しいんだ。されない方が気楽でいい。」
彼女は胸の中でおかしそうにくつくつと笑っている。
「そうか…」
そう言われると、尚更どうしていいのかわからない。
「ハルキが苦しむような事は、これから何も起こらなければいいな」
過去は変えられないので、未来の話をする。
「そうだな。フォルクハルトが苦しむような事も何も起こらないといいな」
「…ん」
同意して、ハルキの頭に頬擦りする。少しクセのある黒髪から、甘い匂いがした。僅かに湧き上がった気持ちの昂りを抑えて息を吐く。
ずっと、こうやって二人穏やかに過ごしたい。何もない日常が続いて少し退屈なくらいが、幸せなんだと思う。