18 Kastor -カストール-
珍しくスッキリと晴れた空をビルの谷間から見上げると、上空を飛行機が飛んでいくのが見えた。久しぶりに一人で買い物に出たハルキは、太陽の眩しさに目を細めた。普段の買い物はフォルクハルトと一緒に行く事が多いが、今日は何か用事があるらしく別行動だ。
一通り買い物を終えて、どこかでフロートでも飲んで帰ろうと入れる店を探していると、見知った顔を見つけた。フォルクハルトだ。
「あれ?フォルクハルト、用事は終わったのか?」
駆け寄って声をかけるとフォルクハルトは「ああ」と答えて微笑んだ。
「…?そうか」
何か違和感がある。フォルクハルトには違いないが、妙に愛想が良すぎる。
「行こうか」
彼はごく自然にハルキの腰に手を回そうとした。
ハルキは男の手首を掴んだ。
「貴様、フォルクハルトではないな?」
男は少し驚いた顔をする。
「おや…そんなにすぐバレるとはね…」
「フォルクハルトは腰に手を回すようなマネはしない。そもそも」
「?」
「フォルクハルトの胸板はもう少し厚い。腕や太腿ももの太さも違う。その程度の筋肉でフォルクハルトを語るなど片腹痛い」
睨みつけるハルキに男は優しく笑いかけた。
「思ったより面倒な子だね。もう少し遊べるかと思ったのに」
後ろで車が止まった音がした。
「!」
ハルキは突然の衝撃に動けなくなった。スタンガンだ。車から何人か人が出てきた気配があった。
「おい、運んでおけ。丁重に扱えよ。サイバネは重いから気をつけろ」
フォルクハルトと同じ声。ハルキの意識はそこで途切れた。
用事を済ませて家に帰ってきたフォルクハルトは、玄関前で自分と同じ顔に鉢合わせした。
「やあ!久しぶりだね。愛しい弟よ。」
久しぶりに聞いた母国語と共に、自分と同じ顔に満面の笑みで迎えらる。
「何しにきた。俺はお前らとは縁を切ったんだ」
フォルクハルトは自分と同じ顔を睨みつける。とうの昔に絶縁した家族の一人、双子の兄アルベルトだ。人の生活を、人生をぐちゃぐちゃにして面白がるために、ここまで来たというのか。
「連れないな。あの探偵はなかなか優秀でね。お前が結婚したと聞いたからお祝いに来たんだ。君の妻を僕の部屋にお連れしてるところだから、君も呼びにきただけだよ」
探偵?しばらく前に来たアルベルトの息子が言っていた探偵だろうか。それよりも…
「ハルキに何をした?」
「少し眠ってもらっている。サイバネは重いから運ぶのに苦労したよ。何もしていないさ。まだ」
この快楽主義のクソ野郎が女にする事などわかりきっている。「まだ」ということは最悪の事態には至っていないということか。
「本当はもう少し騙されてくれたら楽しもうと思ってたんだが、案外早く気付かれてしまってね。君は妻の腰に手も回さないのか?顔の傷も上手く出来たと思っていたのに、残念だよ。とはいえ、ずいぶん愛されてるようで安心した」
「あ?」
「君にしては筋肉が足りないと言われた。会ってみたら、言うほど違いは感じないんだが」
(何言ってんだあいつ…)
フォルクハルトは奥歯を噛み締めた。
「アジアンビューティもいいな。ミステリアスで。日系か?少し幼い顔立ちも可愛らしい。しかしサイバネなのは残念だな。美しくない。」
「なんだと?」
滑らかな仕草で流麗に話し続けるアルベルトに、フォルクハルトは青筋を浮かべた。
「まあ、俺としては穴があればなんでもいいが。あ、穴はあるよな?ずいぶんサイバネの範囲が広いようだったが、そういえば確認するのを忘れていた。」
何の悪意もなく当たり前の様に言う態度にゾッとする。
「クソ野郎が…」
「泊まっている住所はここだ。来てくれるのを楽しみにしているよ。あ、来ないなら来ないで君の妻で勝手に楽しませてもらうよ。」
アルベルトはにっこりと笑うと、さわやかに去っていった。
とにかく、ハルキの状況を確認しなくてはならない。アルベルトが言った事が、そもそも嘘かもしれない。
(頼むから出てくれ…)
端末でハルキにコールしたが反応がない。
何度も何度もコールしたがハルキが応答することはなかった。
ぼんやりとした意識の中で、揺れとエンジン音から車の中だなと思った。何故車に乗っているのか。そうだ、スタンガンでやられた。麻酔でもくらったのだろうか、感覚が鈍い。左腕はある。後ろ手に縛られている様だ。とはいえ、サイバネに詳しくない人間で助かった。腕を外されていたら完全に詰んでいた。少しずつ意識が覚醒していく。外はよく見えないが、まだ昼間ではあるらしい。そんなに時間は経っていないだろう。後部座席にいるのはハルキのみで、見張りの様な人間はいなかった。目的地に着くまで起きる事はないという見込みだったのだろう。
サイバネである程度の毒に対する解毒能力は高いため、犯人の想定よりかなり早く目が覚めたはずだ。ミドリの特別製だ。
通信端末は流石に取られているが、幸いサイバネ内に仕込んだ護身用ナイフは取られていない。ナイフを取り出して、なんとか拘束を解く。まだ気づかれてはいない。ドアを開けられればいいが、ロックがかかっている可能性は高い。窓を破れるか?破ったとして、そこから出られるか?周囲を見回す。後方の窓ガラスなら破って出られそうだ。問題は出た後か。
揺れの感じや、たまに減速、停止しているところをみるに一般道だろう。走行中に後方に飛び出してしまうと後続車に轢かれるかもしれない。
腹部のパネルを開けて緊急時用のサイバネブーストを稼働させる。これで、日常生活用の軽量タイプでもある程度出力を上げられる。耐久性は低いのでおそらく破損するが仕方がない。
(ミドリ、ごめん)
車が減速するのに合わせてサイバネアームを後部窓ガラスに叩きつける。
盛大な破砕音に運転していた男達が後部座席の異常に気づいた。何か叫んでいる。
ハルキは破った窓から這い出し、車の上へ飛び乗る。
周囲を見渡す。見知った街だ。日の高さから見ても、さほど時間は経っていない。車が完全に停止する前に、歩道側へ飛び降り、転がって、体勢を立て直して走る。
走りながら後方を見ると、男が二人、車から降りてきたところだったが、追ってくる様子はなかった。金を貰って雇われたが、街中を追いかけるのはリスクが金額に見合わなかったのだろう。
左腕は、動かせなくはないが骨格にヒビがいって神経系も損傷している様だった。痛みがひどいので腕の痛覚を遮断して走り続ける。気絶する前に見たあれは、フォルクハルトの双子の兄だろう。フォルクハルトが心配だ。ミドリにはおそらくサイバネ側からのアラートが飛んでいるはず。
まもなく、左の肩口からミドリの声が聞こえた。
「ハルキ!大丈夫?!聞こえてる?何があったの?!」
「暴漢に襲われた。生体側はダメージなし。今は安全な場所にいる。通信端末を盗られた。フォルクハルトと連絡を取りたい。」
端的に報告して、必要な情報だけを伝える。
「わかった。繋ぐわ」
少し待つとフォルクハルトと繋がった。
「無事か?!」
「アームは壊れたけどな。なんだ、心配してくれたのか?」
フォルクハルトの声が存外動揺していた事に、不謹慎ながら嬉しくなる。
「当たり前だ、大事な仕事の仲間だぞ」
「そっちか」
ハルキはやや不満気にボヤいた。
「何処にいる?迎えにいく」
「自分で帰れる」
迎えを断ろうとするとミドリが割って入ってきた。
「ハルキはその辺の安全な建物に入ってて。スペアの腕持っていくから。ミュラーは座標送るから、迎えに来て」
「はい…」
ハルキは大人しくミドリの指示に従った。
近くの商業施設のベンチに座って待っていると、先にミドリがやってきた。スペアのサイバネアームを入れたアタッシュケースと、サイバネの簡易検査用機材を入れた大きなカバンを持って小走りでこちらへ寄ってきた。
「本当に大丈夫?何もされてない?」
「大丈夫だ。アームだけ。」
「ホントに?下腹部に痛みとか違和感とかない?必要なら緊急避妊薬出せるからね」
ハルキは言われて初めて、そういう可能性もあったのかと気付いた。
「アームだけ」
もう一度同じ言葉を繰り返すと、ミドリはようやくホッとした顔になった。
「じゃあ、サイバネの方診るね」
アームを外して、ボディ側に端子を繋ぎステータスを確認する。
「うん。OK」
ミドリは頷いて、スペアのサイバネアームを確認後、ハルキの肩に繋いだ。ハルキは手を握り、開いて、肘、肩の動きも確認する。
問題なさそうだ。
「ハルキ!」
声の方を見るとフォルクハルトが息を切らせて駆け寄ってきたところだった。
「何ともないか?」
言ってハルキの両肩を掴み全身を見渡す。
「うん。今ミドリに診てもらった。」
フォルクハルトはハルキを抱きしめた。
「よかった…」
こちらが要求した訳でもないのに、フォルクハルトからそういうことをされるのは初めてだった。
ミドリが小さな声で「わぉ」と言ったのが耳に入り、フォルクハルトはハッとして体を離した。
「あ、すまん…」
目が泳いでいるフォルクハルトを一瞥し、ミドリは機材を片付けた。
「別に謝る事でもないと思うけど?大事にしてあげてください。」
ハルキは想定外の事態に固まっている。
「じゃあ、お迎えも来たし、帰るね。お大事に」
ミドリはそう言い残して去っていった。
「すまない…巻き込んでしまった。」
ミドリが去ったあと、フォルクハルトは沈痛な面持ちで謝ってきた。
「やはりフォルクハルトの兄か。最初わからなかったから油断した。でも、フォルクハルトのせいではないだろ。」
ハルキは言って立ち上がると、まだ重い表情のフォルクハルトに笑いかけ肩を叩いて「帰ろう」と促した。
家に着いても、フォルクハルトは塞ぎ込んでいる様だった。真剣な顔で何かをずっと考え込んでいる。家にある物で食事を済ませた後、フォルクハルトは自室にこもってしまった。
ハルキはソファで横になり天井を眺めていた。フォルクハルトの事は心配だが、出来ることもない。今日買った物も全部無くしてしまったし、とにかく疲れた。フォルクハルトの兄は、一体何をしようとしていたのだろうか。弟の結婚相手を拉致して何になる。ふと、ミドリの言っていたことを思い出して身震いした。フォルクハルトへの嫌がらせだろうか。また襲われることがあるのだろうか。そんな事を考えていると、フォルクハルトが部屋から鞄を背負って出てきた。
「どこか行くのか?」
ハルキに声をかけられ、フォルクハルトは部屋の鍵を閉めながら、少しだけハルキの方を向いた。
「アルベルトとケリをつけてくる。」
「私も一緒に…」
「俺の家族の問題に関わらせたくない」
言いかけたハルキの言葉を遮ってフォルクハルトは「家にいろ」と言った。
「でも…」
尚食い下がろうとしたハルキを手で制し、耳の後ろを掻く。
「話をしにいくだけだ…いい加減、ステイを覚えろ」
少し懸念はあったが、意思は固いとみえて、ハルキは引き下がった。
「気をつけて…」
大人しくフォルクハルトを見送ったが、胸はざわついていた。話をしにいくだけなら、どうしてそんな大きな鞄を背負っていくのだろうか。
鞄には、スポーツドリンクにプロテインを混ぜた物。Kアミド。そして、アルゴスの断片を入れた。あとは、警棒。できるはずだ。
今回の事を警察に被害届を出して司法に任せる事も考えたが、有罪になったところで数年もすれば出てくるのは目に見えていた。
14年見つからなかったのだから逃げ切ったと思っていたのに甘かった。こんな所までわざわざ来た上に、フォルクハルト自身ではなくハルキに手を出した。
(いや、違うな)
アルベルトはフォルクハルトから奪うのが楽しいのだ。何もかも全部奪って、フォルクハルトが酷い顔をしているのを楽しんでいる。それでいて、奪っているつもりはないのだ。弟の物は最初から全部自分の物だと思っている。アルベルトにとってフォルクハルトは愛しい自身の一部なのだ。
今持っている物も生活も全て捨てて逃げる事もできるだろう。だが何処に?また見つかったらそれまで積み重ねてきた全てを捨てて逃げるのか?アルベルトが生きている限り見つかる事に怯えて、僅かな平穏さえ手に入らない。そんな事をいつまで続けなければならない?死ぬまでか?
(「どちらかが」死ぬまで。だ。)
放っておいてくれれば良かったのに。ただ平穏に暮らしたかっただけなのに。放っておいてくれたら、それで何も問題はなかった。過去の事だって許しはしないが呪ったり復讐しようとも思わない。ただ、人生に二度と関わらないでほしかっただけなのに。
指定された住所は、雑居ビルに囲まれたアパートだった。どう手配したのかわからないが、まともな手段ではないのだろう。こんな事をする為に来たのであれば、おそらく偽装IDでの入国か。鞄からプロテイン入りのスポーツドリンクを出してよく振っておく。蓋を開けて捨てると、アルゴスの断片をもう片方の手に持った。
インターホンらしい物も見当たらず、フォルクハルトはドアをノックして声をかけた。
「よう兄貴。お招き頂いたから来てやったぜ?妻は来れないってよ。」
やや間があってから、ドアが開いた。
「なんの用だ」
ハルキの拉致に失敗したせいか、やや機嫌が悪そうだ。開いたドアの隙間に足を挟んで部屋の中に体を捩じ込む。
「あ?知らねぇのか?日本にはお祝い返しってのがあるんだよ。通常は半返しなんだが、大事な兄上だからな。出血大サービスで10倍返しにしてやるよ。」
「君はもう少し賢いと思っていたが…」
「いいや、これが最適解だ」
アルゴスの断片をボトルに入れて室内に放り投げる。同時にアルベルトの腹を蹴って部屋の奥へ突き飛ばした。ちょうど投げ込んだボトルのある辺り。
ボトルは粉砕し、異形の生き物がうまれた。
「…なんだこれは?」
アルベルトは奇妙な蠢いているそれに恐れ慄いた。人間様の手がいくつか生えており、歯の生えた口が何か声のようものを発していた。
「アルゴスは初めてか?そういや、あっちにはまだ居ないんだったな」
生えた手が纏わりつき、口は生きた肉を食む。アルベルトは振り解こうともがくが、肉の塊は離れようとしない。
フォルクハルトは警棒を構えた。アルゴスは手近に獲物がいる間は、他を襲うことはない。つまり、アルベルトが逃れられない様にしておく必要がある。目的が達成されればアルゴスはKアミドで処分する。必要な作業はそれだけだ。
「俺を殺す気か?!そんな事をしたら社会的に終わるぞ!」
叫ぶアルベルトをフォルクハルトは冷たく見下ろしていた。
「ああ、優しい兄さんだなあ。だが、俺の心配は無用だ。偽装IDで入国した外国人が不用意に窓を開けていたらアルゴスが入ってきて食われたんだ。かわいそうに。」
フォルクハルトは、特に感慨もなく淡々とそうつ告げた。
「俺が来た時には、もう遅かった。身元もわからないぐらいぐっちゃぐちゃだ。残念だなあ……」
アルベルトは振り解こうと躍起になっているが、一般人にどうこうできる物ではない。
「アルゴスに人が喰われるなんて日常茶飯事だ。事なかれ主義のこの国で、それ以上詮索するヤツなんかいねえんだよ。」
最期にアルベルトは何を言ったのだろう。「助けてくれ」と今まで散々奪ってきた弟に請うたかもしれない。フォルクハルトは自分と同じ形をしたモノが形を失っていくのを眺めていた。
ただ放っておいてくれれば、こんな事にはならなかったのに。
帰って来たフォルクハルトは、普段と変わった様子もなく、ハルキがどうなったのかと聞いたら「ケリはつけたから、もう二度と来ることはない」とだけ答えた。
数日経った今も、今までと特に変わりはないが、今日は珍しく始末書を書いていた。
「何の始末書だ?」
ハルキに聞かれて、フォルクハルトは画面から顔を離さずに答える。
「この間うっかりKアミドを持って帰っちまってな。それがバレた。」
ハルキは「ああ」と思い当たった。
「そういえば、アルゴスが出たのをフォルクハルトが対処したって聞いたけど、あれか」
「ああ、アルベルトとの件が終わった後に、たまたま遭遇した。」
言いながらフォルクハルトは耳の後ろを掻く。
(今…嘘をついた?)
ハルキは一瞬眉根を寄せたが、すぐに冷静を装った。
「被害者出たんだって?」
「ああ」
「偽装IDの外国人。身元不明か。」
「そうらしい」
ハルキは、こちらを向かずに淡々と始末書を書いているフォルクハルトを見つめた。
「フォルクハルト…」
何故、今、嘘をついた?
「なんだ?」
嫌な想像が頭をよぎる。直感が「踏み込んではいけない」と告げる。
「…いや、何でもない」
ハルキは不安に目を瞑り、平穏な日常を選んだ。
決して手放したくはない彼との日常を。