30 三十八度五分
38度5分。体温計の示す数字に、余計に体がだるくなる。朝起きた瞬間から熱があるのはわかっていたが、数値で示されるとどっと疲れが出てきた。こんなに体温が上がったのは久しぶりだ。
「寝てろ。仕事はトミーと二人でなんとかなる。足りなきゃ他の班に応援を頼む。私が帰るまでインスタントとレトルトでなんとか食いつなげ」
ハルキはそう言って出勤していった。
トミタロウと二人かと思うと、なんとなく不安だ。体調のせいで少し気が弱くなっているのかもしれない。
幸い食欲はあるので、取り敢えず適当なパンを腹に入れてベッドに戻る。
ヤマトは今日も早く来てハルキに絡むだろうか。ハルキが嫌なことを言われなければいいが。気がかりな事は色々とあるが、寝てさっさと治すしかない。病院にも行った方がいいだろうが、怠くて一人で行って帰って来れる気がしないのでやめた。
やる事もなく、ベッドでぼうっと横になっていると、子供の頃に怪我で入院した時を思い出す。あれは何が原因で怪我をしたんだったろうか。サッカーの練習中に転んで骨折したんだったか。お菓子や果物をお見舞いに貰ったが、ことごとくアルベルトに食べられてしまって、あの時はさすがに泣いた。
弱っている時に一人で暇にしていると、嫌な事を思い出してしまう。オットー先生に会ったのも良くなかった。もう何年も思い出す事もなかった昔の事を思い出してしまう。
不意に、あの時ハルキに頭を撫でられてしまった事も思い出して、なんとなく自分の頭に触れる。冷静に考えると、大の大人の頭を撫でるとはどういうことかと思うが、泣きそうになっていた自分も大概だった。人に頭を撫でられたのは何時ぶりだろうか。ずいぶん昔過ぎて思い出す事もできない。ハルキに頭を撫でられるのは、不思議と悪い気はしなかった。少し前なら、あんな事をされたら腹を立てていたと思う。いつの間にか、ずいぶんと心を許している自分に気づき、なんとなくむず痒い感じがした。「フォルクハルト!」と真っ直ぐな瞳で何度も名前を呼んでくるハルキは、子供の頃のあの扱いの対極にあったのだなと思う。
そんな事を考えていたら少し気持ちが落ち着いてきて、フォルクハルトはそのまま眠りに落ちた。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
ハルキとカワトの声がした。昼にインスタントのラーメンを食べた後、うつらうつらしながら寝たり起きたりを繰り返し、気づいたら夕方になっていたらしい。熱は少し引いたらしく、気分は多少楽になっていた。
「わ、部屋綺麗にしてるじゃん。ハルキの一人暮らしの部屋とは大違い」
「ちょ…それは言わないで…」
二人の声と冷蔵庫に何か入れているらしい音を壁越しに聞きながら、引っ越しの時にハルキに「手伝うか?」と聞いたら頑なに拒否された事を思い出す。
「片付けとか掃除も全部ミュラーがやってるんじゃないでしょうね?」
「そんな事ない!ちゃんと私もやっている!」
フォルクハルトはハルキの「ちゃんと」という言葉にはやや疑問を感じながら、壁越しの会話を聞いていた。
寝室の戸が開いて、ハルキがそっと入ってきた。
「フォルクハルト?寝てる?」
「いや、今起きた」
答えて体をゆっくりと起こす。いつもとは違う優しい静かな声をかけられると、少しソワソワする。
「カワトが来てるのか?」
「うん。熱は?」
ハルキが額に手を当てる。掌では、いまいちわからなかったのか、今度は額を合わせてくる。
ドアから漏れる薄明かりの中、鼻が触れ合うほど近づいたハルキの顔に、下がってきた体温がまた上がりそうで「体温計で測る」と肩を押し返した。
「明かりつけて、ミドリに入ってもらっていいか?」
「?ああ、構わん」
ハルキに聞かれて、目的がよくわからなかったが、了承する。
「あと、何か食べたいものとかあるか?プリンとゼリーは買ってきた。リンゴも冷蔵庫にあるし、お粥とかが良かったら作るが」
「ありがとう。食欲はあるし、普通に食べられる。そんなに気を遣わなくても…」
言いかけて、ハルキが心配そうにじっと見ている事に気付く。こういう時は相手の好意に多少は甘える方がいいか。
「…とりあえずプリンをくれ」
「うん」
ハルキは普段見せることのない柔らかい笑顔で頷くと寝室を出ていった。出て行く時に部屋の明かりをつけ、ドアの外でカワトに何か伝えている声が聞こえた。体温計を腋に挟んでいると、入れ替わりにカワトが入ってくる。
「ハルキが心配だから診てくれって言うから一応来たけど。症状は?」
ぶっきらぼうにカワトに言われて、ハルキがそこまで心配していた事に驚く。
「喉が痛くてだるい。朝は38度を超えていたが…」
体温計から計測終了の音がした。取り出して確認する。37度6分、概ね下がったか。
体温計をカワトに渡すと、カワトは「平熱は?」と聞いてきた。「37度」と短く答える。
「じゃあ、今は微熱程度まで下がった感じね。口開けて」
素直に口を開ける。カワトは中を見て「腫れてるね」と言った。
「水分取ってる?食欲はある?」
続いたカワトの質問は極めて事務的だった。
「ああ、問題ない」
「まあ、ミュラーが食欲ないって言ったら流石に一大事だもんね」
カワトが要らぬ一言を言っていると、ハルキがプリンとスプーンを持って寝室に戻ってきた。
「どう?」
ハルキが心配そうにカワトに聞くと、カワトは少し呆れた様に肩をすくめた。
「普通の風邪でしょうね。寝てれば治ると思うけど、薬欲しいなら病院で診察してもらってください。」
カワトの言葉にハルキは安心したらしく、表情を緩めてカワトに「ありがとう」と言った。
それから、フォルクハルトの方を向くと、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「食べさせてやろうか?」
「自分で食べれる」
さすがにそこまで子供扱いされるとイラッとして、目の前に出されたプリンのカップとスプーンをハルキから奪い取る。
様子を見ていたカワトは、ワザとらしくため息をついた。
「じゃ、私は帰るね。ごゆっくり」
フォルクハルトは、「そこは「お大事に」だろう。」と思ったが、敢えてそう言った意図を察して「ありがとう」とだけ伝えた。カワトは「ん」と頷いて、ハルキに玄関まで見送られて帰っていった。
ダイニングへ移動してプリンを食べていると、ハルキがキッチンに入って調理を始めた。
「さっきは私の感覚でお粥と言ったが、パンの方が食べやすいか?適当な野菜と鶏肉はあるからスープを作る。腹が減ってるなら、プリンはまだあるから食べていてくれ。」
ダイニングからでは手元は見えないが、お世辞にも手際が良いとは言えない手つきで野菜を切っているハルキを眺める。一人暮らしでは全て自分で対処しなければならなかったが、これは共同生活のありがたいところだ。
「そうだな。パンの方がいい。スープはブイヨンを使ってくれ。」
フォルクハルトの返答に、ハルキは野菜を切りながら「ブイヨン?ブイヨン…」と、多分あまり分かってない顔をしていたので「冷蔵庫に粉末がある」と伝える。
ぼんやりとハルキを眺めていると、見られている事に気づいたハルキがムッとした顔をした。
「大丈夫だから、プリン食べてろ」
調理の手際を心配して見ていると思われたらしい。言われて「ああ」と応えて、プリンに目を戻して食べ始めたが、別に調理の心配をしていた訳ではなかった。なんとなく、本当に、ただなんとなく見ていただけだった。
出来上がったスープは、野菜の形がやや不揃いだったが、美味しかった。ハルキは自画自賛していたほどだった。正直、粉末ブイヨンと塩胡椒の味付けで失敗のしようもないだろうとは思ったが「うまいな」と言うと、ハルキは照れた様に笑っていた。
シャワーの音がする。明かりを消した寝室で一人でいると、また急に不安になる。
アルベルトはいつもフォルクハルトのものを持っていってしまう。なんでも、全部だ。
もういない兄にいつまでも縛られているのは、滑稽だという自覚はある。それでも、まだずっと、頭の中にニコニコとした笑顔の兄が住み着いている。
風呂から出たハルキが寝室に入ってきたのを見て、少しホッとする。もう少し甘えてもいいだろうか。そんな事を思って、自分のベッドで寝ようとするハルキに声をかけた。
「すまないが…寝るまで手を握っていていいか?」
「え?」
ハルキは驚いて目を瞬いたあと「…ああ…それは構わないが…」と戸惑いながら答えた。
そして、フォルクハルトのベッドの横に椅子を持ってきて座り、左手を差し出した。
フォルクハルトは少し考えてから、手を伸ばしハルキの右手をとった。温もりのある手。
「こっちがいい」
ハルキが意外そうな顔をしているのをチラリと見て、フォルクハルトは小さな声で続けた。
「左腕は…外せる」
「そんな事はしない」
ハルキが小さく笑った。腕だけ外していなくなるのを嫌がったのだと思われたようだ。
ハルキがそんな事をしないのはわかっていた。フォルクハルトは暖かい小さなハルキの右手を、両手で握りしめた。アルベルトに連れて行かれないように。