リリックビデオを解剖する(前)Text by えむ
「ミュージックビデオの身体論」番外編
連載「ミュージックビデオの身体論」の番外編として、えむさんに「リリックビデオ」をテーマとする論考を寄稿していただきました。えむさんは大学で視覚メディア表現を学び、実写とアニメーションを組み合わせた映像作品制作も行ってきた方です。
本稿では「リリックビデオ」という語のうちに含まれる多種多様なありようを詳しく分析して腑分けし、①実写映像の中に歌詞の文字を造形したオブジェ等が含まれる〈実写/単一レイヤー〉、②実写映像と歌詞テロップなどを合成した〈テロップ/二重レイヤー〉、③歌詞も含めてすべての映像がアニメーションもしくはCGで制作されている〈アニメーション/多重レイヤー〉に3分類した上で、それぞれの「前史」にあたる映像表現を考察しています。
さらにえむさんは、歌詞自体を「見る」ためのものとして表示させる作品を「映像先行型」、歌詞を「読む」ための記号として表示させる作品を「楽曲先行型」と呼び分けることで、それぞれの目的に応じた表現手法の傾向を浮かび上がらせています。まさに「リリックビデオの解剖学」あるいは「リリックビデオという身体の地理学」とも言うべき、詳細な分類を行なっています。
もちろん、こうした分類にうまく当てはまらない作品や、逸脱するような作品もあるでしょう。しかし、これまで曖昧にしか語られてこなかった「リリックビデオ」の世界に足を踏み入れ、その広大な沃野を旅するためのガイドマップとして、また実作者にとっては、リリックビデオ制作のアイデア源として、本稿は大いに役立つのではないかと思います。YouTubeで公式に公開されているMV計50本のリンクも付していますので、ぜひ本文と共にお楽しみください。(佐々木友輔)
(後編はこちら)
はじめに
『アルクアラウンド』からリリックビデオへ
サカナクションの『アルクアラウンド』(2010)は、一度見たら忘れられないミュージックビデオだ。映像はボーカルの山口一郎がリンゴを片手に夜の幕張メッセを歩くところから始まる。イントロが終わると、山口は設置されたパネルを回転させたり、ある一定の角度からしか読むことができない歌詞のオブジェの間を潜り抜けたり、スケッチブックやコンピューターの画面上、水槽の中など物理的に歌詞を表した様々な仕掛けを順にたどることで、曲に合わせて歌詞を浮かび上がらせていく。そして、最終的に冒頭にいた場所に戻ると、再びイントロが流れ出すというループ構造になっている。全編がワンカットで撮影されているため、観客自身がその場に立ち会い、山口と共に歌詞のオブジェをたどっているような特有の臨場感がある。
サカナクション『アルクアラウンド』(2010)
このMVが強く記憶に残るのはなぜだろうか。もしかすると、空間を巡回していく構造が「記憶の宮殿」に類似していることが関係しているのかもしれない。「記憶の宮殿」とは、詩人シモーニデースの逸話をもとにした記憶術で、「心の中に仮想の建物を建て(=器の準備)、そこに情報をヴィジュアル化して順序良く配置した上で(=情報のインプット)、それらの空間を瞑想によって巡回していく(=取り出し)」ことによって、物事を効率的に記憶する方法である(桑木野幸司『記憶術全史——ムネモシュネの饗宴』講談社、2018年)。『アルクアラウンド』において、夜の幕張メッセという器のなかに歌詞のオブジェをはじめとする様々な仕掛けが並べられていることは、仮想の建物の中に情報をヴィジュアル化して配置することに該当し、ワンカットで主観映像のように仕掛けをたどっていくことは空間を瞑想によって巡回していくことに該当するのではないだろうか。
『アルクアラウンド』はなぜ記憶に残るのかという私の問いは、次第に「リリックビデオ」への関心へと移行していった。リリックビデオとは、MVの一種である。MVの定義を(1)楽曲が使用されている映像作品であること、(2)「アーティスト、あるいは音楽の広告であることを目的として制作」されていること(「リリックビデオ」デジタル大辞泉)とするなら、そこに(3)「全編にわたり、曲に連動して歌詞が表示される」こと(『エクリヲ vol.11』巻頭言、エクリヲ編集部、2019年、p.7)を付け加えれば、リリックビデオのひとまずの定義になるだろう。
私は様々なリリックビデオを鑑賞して、その特徴や歴史について調べ始めた。早い段階で気づいたのは、リリックビデオに関する先行研究がまだ極めて少ないこと、そして一口にリリックビデオといっても、歌詞を表示する手法や制作目的の面で、それぞれの作品に違いがあることだ。例えば『アルクアラウンド』は——タイトルテロップを除けば——実写のフッテージのみで作品が完結しているが、他のリリックビデオには、主となる実写のフッテージに歌詞のテロップを合成したものや、歌詞も含めたすべてがアニメーションやCGのフッテージで構成されたものもある。このことは、リリックビデオが複数の「前史」をもつことを示している。すなわち、映像史のなかで、映像・音楽・歌詞を同期させるために行われてきた複数の試みが、21世紀初頭に合流・収斂して1ジャンルを形成したものが、現在のリリックビデオなのである。
分類方法と分析対象
本稿では、インターネット上で見ることのできる主要なリリックビデオを対象として、実写(カメラ映像)、テロップ、CG、アニメーションなど、その作品で中心的に使用されているフッテージのレイヤーと、歌詞の表示に用いられているフッテージのレイヤーの関係に応じて、3つの型に分類し、それぞれの型の特徴や効果、用いられている手法の前史となる映像表現について考察する。
具体的には、中心的なフッテージと歌詞のフッテージが共に実写フッテージかつ同一レイヤーで構成されている作品の型を〈実写/単一レイヤー〉として、第1章で扱う。実写のフッテージを背景にして、後から歌詞をテロップなど非実写のフッテージで合成した作品の型を〈テロップ/二重レイヤー〉として、第2章で扱う。歌詞も含めてすべてのフッテージがアニメーションやCGで制作され、それら複数のレイヤーを重ね合わせるかたちで構成されている作品の型を〈アニメーション/多重レイヤー〉として、第3章で扱う。
本稿で分析対象とする作品は、動画共有サイト「YouTube」で「リリックビデオ」または「Lyric video」と検索し、それに該当した動画の中で、アーティストやレーベルが公式に公開しているものを選択した。またこの方法で発見したリリックビデオと同じYouTubeチャンネル上にアップロードされている他のMVも確認し、リリックビデオと明記されていなくても、本研究におけるリリックビデオの定義に当てはまるものは分析の対象とした。その他、大学のゼミなどで情報提供を受けた作品についても、YouTube上に公開されているものは分析対象に加えた。後述するリリックビデオ専門チャンネルの動画など、投稿作品のほとんどが共通した特徴を持つ場合は、1チャンネルにつき1作品を参考に取り上げることにした。
以上の取捨選択の結果、約100作品のリリックビデオを研究対象とし、文中には、そのうち50本の視聴リンクを掲載した。
内訳としては、2020年以前に公開されたリリックビデオは少なく、2010年以降に公開されたものが大半を占めている。もちろんリリックビデオやそれに類する映像作品は古くから存在しており、例えば最初のMVにして最初のリリックビデオともいわれるボブ・ディランの『Subterranean Homesick Blues』は、ディランのドキュメンタリー『ドント・ルック・バック』のオープニング映像として1967年に公開されたものだ。また同作と共にリリックビデオのルーツとして語られるプリンスの『Sign O' The Times』は1987年の作である。だがリリックビデオがMVの一大ジャンルを形成するのは2000年代以降、2005年に登場したYouTubeをはじめとして、世界中で動画共有サイトが普及してからのことだ。
動画共有サイトは、MTVなど従来のメディアに頼らず、企業やアーティストが自らをプロモーションする場として機能した。映像の内容や形式の自由度も高く、アーティストは同一楽曲の複数パターンのMVやスマホ向けの縦型動画、360度動画やストーリー選択型動画のようなインタラクティブ・ミュージックビデオなど様々な試行を行ったが(西村智弘「インターネット時代のミュージックビデオ―インタラクティブ・ミュージックビデオを中心に」『東京造形大学研究報』21号、2020年、p.152)、中でもリリックビデオはもっとも定着したジャンルの一つといえよう。例えばテイラー・スイフトは、自身のアルバム『folklore』(2020)の全曲分のリリックビデオをYouTube上で公開して注目を集めた。
テイラー・スイフト『the 1』(2020)
アルバム『folklore』より
またエド・シーランの代表曲『Shape Of You』(2017)のように、一つの楽曲につき、通常のMVとリリックビデオの2パターンが制作されるケースも珍しくない。アーティストによる公式のMVやリリックビデオの他にも、2013年開設の「7clouds」や2015年開設の「Taj Tracks」のように、リリックビデオを専門に取り扱うYouTubeチャンネルも登場している。
エド・シーラン『Shape Of You』(2017)
また動画共有サイトの普及や映像制作環境の充実により、これまで動画を受容する側だった視聴者が自作動画を制作し、全世界に公開できるようになったことも、リリックビデオ流行の要因の一つだろう。トロント大学でポピュラー・ミュージックやMVの研究を行うローラ・マクラーレンは、ケイティ・ペリーのリリックビデオの分析を通じて、個人制作や二次創作の動画がプロのアーティストのMVにも影響を与えていることを指摘している(Laura McLaren, THE LYRIC VIDEO AS GENRE: Definition, History, and Katy Perry 's Contribution, uOttawa Theses, September 17, 2018.)。日本でも、画面内にコメントをつけられる動画共有サイト「ニコニコ動画」やその人気コンテンツの一つである「ボカロPV」は、じん『カゲロウデイズ』(2012)など多くのリリックビデオを生み出すと共に、プロのMVや他ジャンルの映像作品でもしばしば参照・模倣されている。
じん『カゲロウデイズ』(2012)
第1章 〈実写/単一レイヤー〉
1-1. 映像と音楽の同期
〈実写/単一レイヤー〉とは、作品の中心となるフッテージと歌詞のフッテージが、共に実写フッテージかつ同一レイヤーで構成されている作品の型を指す。
例えば、最初のリリックビデオといわれる『Subterranean Homesick Blues』では、路上に佇むボブ・ディランが歌詞の書かれたスケッチブックを楽曲に合わせて次々にめくる姿が、ワンカットのロングテイク(長回し)で記録されている。サカナクションの『アルクアラウンド』では、山口一郎が歌詞のパネルやオブジェが設置された通路を歩いて行くことで、楽曲の進行と画面上に表示される歌詞とを同期させる。歌詞の表示方法は様々だが、いずれも映像と音楽の同期がもたらす「共感覚」的な心地よさが作品の魅力を支えている(佐久間義貴「同期/非同期」『エクリヲ vol.11』p.40)。
ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』(1967)
映像と音楽の関係には長い歴史がある。1893年にキネトスコープ、1985年にシネマトグラフが発明された時点では、まだ映像と音楽を正確に同期させる技術は開発されておらず、映画は基本的にサイレント映画だったが、台詞やナレーションは字幕もしくは活動弁士による語りによって補われ、BGMとして楽団などによる生演奏が行われることもあった。最初期のトーキー映画として知られる『ジャズ・シンガー』は1927年に公開され、「お楽しみはこれからだ」と語り、歌う唇と音声の同期(リップシンク)が大いに話題を集めた。豪華絢爛なミュージカル映画は1930年代のハリウッド黄金期を支えた。
アラン・クロスランド『ジャズ・シンガー』(1927)
アニメーションでは、『蒸気船ウィリー』(1928)でトーキーに参入したディズニーが、その後も過剰なまでに厳密な映像と音声の同期を試みて、「ミッキーマウシング」という言葉が生まれた。また抽象的な映像と音楽を結びつける試みはヴィジュアル・ミュージック(視覚音楽)と呼ばれ、後述するモーション・グラフィックスの発展にも多大な影響を及ぼした。
ウォルト・ディズニー、 アブ・アイワークス『蒸気船ウィリー』(1928)
アニメーションやCG中心の作品であれば、映像と音楽の厳密な同期はそれほど難しいことではないが、実写中心の作品の場合は、撮影までに綿密な準備や練習を重ねるか、撮影後にフッテージを細かく編集して楽曲と同期させる必要がある。またどちらの方法を選ぶかによって、完成した作品の印象も大きく変わってくるだろう。ここからは、〈実写/単一レイヤー〉の作品を撮影・編集の方法に応じてさらに細かく分類していくが、どの分類も、実写のフッテージと音楽をいかに同期させるかという問題と深く関わっている。
1-2. ショットの長さ
まずはショットの長さに応じて分類を行う。ロングテイク(長回し)とは、「一つのショットを撮影するとき、通常よりかなり長くカメラを回し続けて撮る技法」である(「長回し」『世界映画大辞典』岩本憲児 監修、日本図書センター、2008年、p.615)。一見ロングテイクのようでありながら、実は隠された編集点がある擬似的なロングテイクも存在する。他方、複数カットの作品は、主に場面ごとやフレーズごとにカットが切り替わるように構成されている。
① ロングテイク
先に見たサカナクション『アルクアラウンド』やボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』、吉澤嘉代子『手品』(2016)がこの分類に該当する。ロングテイクを多用した作品の特徴は、編集によって場面やカットが切り替わることがほとんどなく、視聴者が映像の世界観にのめり込みやすいことである。撮影者にとっても、一回の撮影を失敗できないというプレッシャーがかかるため、生み出される緊張感は映像にも反映されやすい。このように、ロングテイクによる撮影には、特有の臨場感があり、ミュージックビデオに限らず、ドラマや映画など、様々な映像作品で活用されている。特に、映像全編を通して、カメラを止めることなく撮影し続け、編集によるカットを一切作らない作品は「ワンカット」「ワンカット映画」「ワンシーンワンカット」などと呼ばれ、映画やミュージックビデオなどでも人気の演出である。
吉澤嘉代子『手品』(2016)
② 疑似的なロングテイク
アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『ロープ』(1962)のように、ロングテイクを装っているが、実際には複数の編集点があり、それらを観客には気づかせないようにつなぎ合わせ、上手く融合させることで、まるでカメラを止めることなく撮影した映像のように見せる手法もある。
アルフレッド・ヒッチコック『ロープ』(1962)
近年では、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)のように、CG・VFX技術を駆使して、現実の撮影では難しいカメラワークや演出も可能になっている。これらは厳密にはロングテイクやワンカットではないという見方もあるが、本論ではこうした疑似的なロングテイクも、ロングテイクの一種と捉える。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)
リリックビデオの実例としては、 ケイティ・ペリー『Birthday』(2014)が挙げられる。同作は、フレーズごとにキリのいいタイミングでカメラが次の被写体に対象を移すように撮影されているため、明確なカットの切り替えがないように思えるが、実際には、被写体を変えるタイミングで映像をぼかし、編集点をわかりにくくすることで、すべての映像がつながっているかのように見せている、擬似的なロングテイクである。
ケイティ・ペリー『Birthday』(2014)
③ 複数カット
複数カットの作品例としては、Perfume『Hold Your Hand』(2016)が挙げられる。楽曲の歌詞が書かれた手のひらの写真をつなぎ合わせ、コマ撮りアニメーションのように制作された作品である。一秒間に約五枚の写真が使われており、手のひらに書かれている歌詞は最も少ないもので一文字、英語では一単語と、カット、歌詞ともにかなり細かく分けて制作されていることがわかる。複数のカットで構成されている作品は、歌詞を画面上に表示させるタイミングを後に編集することができるため、ロングテイクの作品と比較すると、楽曲の進行に合わせて歌詞を表示させる演出がしやすくなる。
Perfume『Hold Your Hand』(2016)
1-3. カメラワーク
続いて、カメラワークに注目して作品を考察する。ロングテイク主体の作品は、カメラを固定した状態で撮影するか、移動させながら撮影するかで、作品の性質が大きく変わる。なお、ここでいう「固定」とはカットの中で、カメラを動かさず、構図を変えないことを意味する。移動撮影やパン/ティルト、ズームイン/アウトといった手法を用いた撮影は、「移動」に分類する。
①固定
カメラが固定され、構図の変化がないとなると、画面内で何をどう動かすかがポイントになる。リリックビデオにおいては、特に決められた構図の中で歌詞をどのように表現するかに注目が集まる。
水曜日のカンパネラ『ブルータス』(2012)は、ボーカルのコムアイが各面に歌詞の書かれたサイコロのようなボックスを回転させる様子を固定カメラで撮影した作品である。全編を通してというわけではないが、長回しで撮影され、歌詞の書かれたボックスを交換するタイミングでカットが切り替わる。ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』や、後述する酸欠少女 さユり『ふうせん』(2015)も、この分類に該当する。固定カメラで撮影された作品は構図の変化がないため、出演するアーティスト自身が歌詞に動きをつけるパターンが多い。
水曜日のカンパネラ『ブルータス』(2012)
②移動
カメラを移動させると、必然的に撮影位置や構図が変化する。それに応じて、歌詞が画面に表示されるタイミングもその都度変化する。歌詞をどのようにして配置し、どのようなカメラワークで撮影するかが重要になる。
SING LIKE TALKING『風が吹いた日』(2016)は、白いシャツの女性(仁村紗和)がレコードに針を落とすシーンから始まる。室内を移動する女性と、壁面や連続旗など部屋中に設置された歌詞をカメラで追いかけるようにして撮影されている。後半には女性の身体に書かれた歌詞、スケッチブックの上に事後的に合成されたと思しきアニメーションの歌詞も登場する。全編を通して一台のカメラで撮影されたワンカットの作品で、空間を活用した流麗に移動するカメラワークが特徴的である。
SING LIKE TALKING『風が吹いた日』(2016)
1-4. 再生速度
MVの演出においては、撮影したままのフッテージを用いるのではなく、早送りやスロー再生、逆再生など元の映像の速度や時間の流れを編集・操作する方法もある。特に映像・音楽・歌詞など同期させる要素が多いリリックビデオでは、事後的な編集で再生速度を調整することで、各要素の同期性・連動性を高めることも可能である。ただし時間操作にはロングテイクの緊張感を損なわせるなどの短所もある。作品の狙いや見所をどこに設定するかに応じて、実時間で見せるか、それとも時間操作を加えるかが選択されることになる。
① 時間操作
酸欠少女 さユり『ふうせん』(2015)は、ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』と同じく、歌詞の書かれた画用紙をアーティストのさユり自身が次々とめくっていくことで、音楽と映像を同期させている。ただし『Subterranean Homesick Blues』と異なるのは、撮影した映像の再生速度を変えることで音楽と同期させている点である。『ふうせん』では画用紙をめくる映像を先に撮影し、事後的に楽曲の速度に合うように映像の速度が早送りに変更されている。このことは、さユりの背後の歩行者を見ると明らかである。また『ふうせん』において特徴的なのは、画用紙一枚あたりに書かれている文字数が少ないことだ。歌詞がかなり細かく分けられており、すべての画用紙をめくり終えるのにかなりの時間がかかったことが推測できる。その上で、映像の再生速度を細かく調整し、楽曲の進行と歌詞の表示されるタイミングを同期させている。
酸欠少女 さユり『ふうせん』(2015)
同様に、撮影した映像の再生速度を変えることで音楽と同期させているリリックビデオとして、水曜日のカンパネラ『マチルダ』(2012)を挙げることができる。
水曜日のカンパネラ『マチルダ』(2012)
② 実時間
実時間の作品とは、文字通り、撮影した映像の長さや速度を操作せず、実際の撮影時間と同じ進行をする作品を指す。すでに紹介した中では、サカナクション『アルクアラウンド』やSING LIKE TALKING『風が吹いた日』がこれに該当する。
Little Glee Monster『好きだ。』(2015)は、『風が吹いた日』と同様に、建物の壁や窓、室内の家具などに歌詞が飾られており、そのエリアをアーティスト六名が移動し、それを追いかけるかたちでカメラを移動させながら撮影した作品である。撮影に使用されたカメラは一台で、ワンカットで撮影されている。全編を通じて時間の経過に目立って不自然な点はないことから、時間操作にあたる編集はないと判断した。中盤には、アーティストがその場で実際に歌唱するシーンがあり、そのライブ感を強調するためにワンカットかつ実時間が選択されたと考えられる。
Little Glee Monster『好きだ。』(2015)
1-5. 歌詞の素材と支持体
私たちは普段、書籍やノート、ディスプレイ、看板やネオンサインなど、様々な素材で作られた文字や、様々な支持体の上に書かれた文字に触れているが、リリックビデオも同様に、様々な素材や支持体を用いて歌詞が表示されている。ここでは、歌詞が立体的に表現されている作品と、平面上に表現されている作品とに分類して、それぞれ考察を行う。
① 立体
歌詞の文字が、何らかの素材を用いて一種のオブジェとして造形されている作品がここに該当する。
例えばサカナクション『アルクアラウンド』では、歌詞の文字を象ったパネルのようなオブジェがそれぞれスタンドに設置されている。このオブジェは決まった角度でしか文字として読めないように配置されており、その立体感を活かした演出になっている。楽曲の進行と共に歌詞が浮かび上がるように緻密に計算されたカメラワークで、「見る」ためのオブジェとしての文字の視覚的な面白さを追求した作品だとわかる。ただし、決まった角度から少しでもずれてしまえば判読できなくなるため、「読む」ための記号としての文字の機能はかなり限定的である。
amazarashi『季節は次々死んでいく』(2015)では、楽曲の歌詞がレーザーカッターによって切り抜かれた生肉で表現されており、眼鏡をかけた長髪の女性(松永かなみ)が切り抜かれた文字を次々と食していく 。この楽曲はテレビアニメ『東京喰種トーキョーグール√A』(2014)のエンディング曲であり、生肉で立体的に表現された歌詞が、映像と音楽だけでなく、アニメの世界観とMVの世界観をリンクさせる役割を果たしている。
amazarashi『季節は次々死んでいく』(2015)
こちらも『アルクアラウンド』と同様に、文字が文字として成立しなくなる瞬間がある。生肉で表された文字が皿の上に乗っているときは、「読む」ための記号としての機能を果たしているが、それが口に運ばれるとかたちが崩れ、読むことはできなくなる。このように、立体の歌詞が「読む」ための記号であるには一定の条件があり、それを満たさなければ文字は文字でなくなる。「見る」ためのオブジェとしての側面が強調され、視聴者の意識は楽曲の歌詞よりも映像に向くことになる。
② 平面
水曜日のカンパネラ『ブルータス』、酸欠少女 さユり『ふうせん』、SING LIKE TALKING『風が吹いた日』、Little Glee Monster『好きだ。』など、歌詞の文字が、紙や壁などの平面を支持体としてプリントもしくは描画された作品がここに該当する。
アヴィーチー『The Days』(2014)では、ステンシルが用いられている。楽曲の歌詞をくり抜いた黒い紙を白い壁にあて、その上から黒いスプレーを吹き付け、紙を壁から離すと、黒いスプレーが壁に付着した部分が歌詞となって浮かび上がる。
アヴィーチー『The Days』(2014)
また歌詞を平面上に直接描くのではなく、プロジェクタや映写機を用いて平面上に歌詞を投影する方法もある。テイラー・スウィフト『Lover』(2019)では、壁に張られた白いスクリーンに映像と歌詞を投影し、それを固定カメラで再撮影している。
テイラー・スウィフト『Lover』(2019)
平面を支持体とする作品は、その面に限りなく平行な角度からカメラを向けるなどの極端な状況を除けば、基本的に可読性が高い。そのため一般的には、歌詞が立体で造形された作品よりも、視聴者が歌詞を「読む」ための記号として捉え、その内容を理解することに意識を向けやすい傾向があるといえるだろう。ただし『風が吹いた日』や『好きだ。』のように、カメラワークや演出によっては、歌詞の内容よりも映像に意識が向かいそうな作品もある。
ケイティ・ペリー『Birthday』では、立体と平面の両方が混在している。ケーキなどのスイーツを支持体として、チョコペンで歌詞を書いたり、アルファベット型のキャンドルやクッキーの抜き型などを台に並べるなど、様々な支持体や素材が用いられている。また作中には、歌詞がプリントされたへら、ケーキナイフなどの調理器具も登場する。楽曲の世界観に合わせて、歌詞がパーティーの飾りつけの一部になるような演出がなされている。
1-6. 楽曲先行型と映像先行型
ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』について、批評家・ビートメイカー・MCの吉田雅史は「画面上にアーティストと同時に歌詞が表示されるという状況は、文字に目が行き、言葉の意味を理解しようという意識が働くため、アーティストの身体に対しては注意が散漫な状態になる。だからこれは最初から、作者が画面内にいるにもかかわらず作者の死=楽曲中心主義を後押しする奇妙な試みともいえる」と述べている(吉田雅史「リリックヴィデオ」『エクリヲ vol.11』p.38)。ここまでも見てきたように、リリックビデオにおける映像・音楽・歌詞の関係は多種多様であり、すべてが「楽曲中心主義」的であるとはいえないが、リリックビデオが歌詞を「読む」ことと映像を「見る」ことの間で常に引き裂かれたMVであることは確かである。
そこで本稿では、歌詞自体を「見る」ためのものとして表示させる作品を「映像先行型」、歌詞を「読む」ための記号として表示させる——吉田のいう「楽曲中心主義」的な——作品を「楽曲先行型」と呼び、区別する。
映像先行型に該当する作品は、歌詞の内容に注目を集めることよりも、映像の世界観や演出など視覚的な印象を強く残すのに優れている。〈実写/単一レイヤー〉においては、視聴者に没入感や臨場感を与えるために、ロングテイクや移動撮影、再生速度を変化させない実時間での編集などの手法が、組み合わせて用いられていた。視覚的な面白さをより強調したい場合、歌詞を立体的に表現することも有効な手法の一つである。
一方で、楽曲先行型の作品は、視覚的な印象を強めるよりも、歌詞の内容に注目を集めることに優れている。〈実写/単一レイヤー〉においては、複数カット、再生速度の操作など、事後的な編集を加えることで、映像・音楽・歌詞の同期性・連動性を高め、映像作品のなかの楽曲の存在感を強調している。また平面の支持体に歌詞を表示させることで、可読性が高まり、視聴者の意識が歌詞の内容の理解に向かいやすくなる。
以上のような映像先行型と楽曲先行型の対立は、この後に論じる〈テロップ/二重レイヤー〉と〈アニメーション/多重レイヤー〉の分類にも見ることができるだろう。(後編に続く)
「リリックビデオを解剖する」(後)
「ミュージックビデオの身体論」(これまでの連載)
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