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スライドが映画になるとき――SCOOLシネマテークに寄せて①

8月19日(金)〜8月21日(日)に、佐々木敦さんの運営するスペースSCOOLで、新作と過去作を織り交ぜた特集上映を行うことになりました。このnoteでは、何回かに分けて上映作品の紹介と、作品をより楽しめるかもしれない裏話&制作背景を書いてみようと思います。第1回は、新作『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』について。

オンデマンド授業動画映画


2020年の春、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、大学は一ヶ月の準備期間を置き、5月からオンライン中心の授業を展開することになりました。オンライン授業は大きく分けて二種類あります。少人数の講義や双方向のやりとりが必要な演習では、ZoomやGoogle Meetを用いた「リアルタイム配信授業」。学生数の多い講義では、事前にパワポやKeynoteでスライドに音声を録音した動画を期間内に視聴してもらう「オンデマンド授業動画」。私の場合、特に後者の準備が大変でした。何しろ毎週、授業1コマにつき90分以内のスライドを準備し、録音、編集、動画ファイルへの変換、Google Driveへのアップロード、学生への通知を行わなければならないのです。しかも、授業開始時刻までに。

対面授業とちがって、記録された授業内容や自分の声を聞き返さなければならないのも、なかなかつらいものがあります。言い間違いやノイズ等、気になる箇所があれば録り直したくなるし、制限時間ギリギリまで内容を詰めたくなる。徹夜で動画を準備する日々が続き、コロナ禍という試練を恨みながら、ある時ふと気づきました。これでは、授業1コマ毎に1本の長編映画を制作しているも同然じゃないか。ならばいっそのこと、初めからオンデマンド授業動画を「映画」として制作すれば、毎週新作を完成させられるのではないか……!?

こうして「オンデマンド授業動画映画」の構想が生まれ、菊地裕貴さんと共同で新作『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』(2022)の脚本を書き始めたのです。

デスクトップノワール

もともと私は、2010年代初頭から映画とインターネットの関係についてのリサーチを始め、特に全編がパソコン画面で構成された作品群=デスクトップノワールを収集したり、自分自身でも制作を試みてきました(『落ちた影/Drop Shadow』2015年)。

スライド映画

上り終えた梯子は棄て去らねばならない』もまた、こうしたデスクトップノワールの一種と言えるかもしれません。ですが、制作のためのリサーチを行う過程で、「オンデマンド授業動画映画」の系譜はインターネットを題材にした映画以前にまで遡る必要があると感じるようになりました。

例えば日本の視聴覚教育史を語る上で欠かせない論争として知られる「動く掛図論争」において、関野嘉雄は「映画が例へば動くスライドであるといふのはあまりにも一面的である。個に対する全、孤立に対する連関、瞬間的固定に対する過程的流動、既にそれだけでも映画はスライドの及びえない境地をもつ 」と述べ、単に授業の補助手段(=動く掛図、動くスライド)として用いられるような、教材的な映画の利用に苦言を呈しています。

ですがデジタル化によって実写とアニメーションの境界が曖昧になり、カメラ映像の特権性に疑問が付されるようになって久しい現在からすると、関野の見方はあまりに一面的であるように思えます。「動くスライド」のような映画・映像の系譜は、これまで実写至上主義的な映画観の裏に隠れながらも、さまざまな領域やジャンルを横断しながら脈々と受け継がれてきました。

 スライド幻灯機、映画字幕やタイトルデザイン、モーション・タイポグラフィ、インフォグラフィックス、モーション・グラフィックス、論文映画・教材映画、UPAによる平面的な背景レイヤーで構成されたリミテッド・アニメーション、クリス・マルケル『ラ・ジュテ』、飯村隆彦『ホワイト・カリグラフィ』、ゴダール『東風』およびジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』の「黒画面」をめぐって津村喬や蓮實重彦らの間で交わされた論争、黒画面論争と風景論争が交差するところから生まれた足立正生のニュース映画=プロパガンダ映画『赤軍派-PFLP 世界戦争宣言』、フライシャー兄弟のバウンシング・ボールからカラオケ映像を経て現在のリリックビデオへと至る映像内の歌詞表示など、「実写」の枠組みから逸脱しつつ、同時に「アニメーション」の枠組みからも長らくこぼれ落ちて来た無数の映画・映像表現を挙げていくことができるでしょう。

レクチャー・パフォーマンス

上り終えた梯子は棄て去らねばならない』は、こうした「スライド映画」の系譜と「レクチャー・パフォーマンス」の系譜が交わる地点に生まれた作品だと言えます。レクチャー・パフォーマンスにはまだ確立した定義はないそうですが、Artwordsでは以下のように書かれています。

レクチャー・パフォーマンスはパフォーマンスの一形式で、レクチャーを主体としたパフォーマンスを指す。そもそもあらゆるレクチャーはパフォーマンス的な側面を持つが、単なる知識の伝達のみならず、なんらかの芸術的目的をもって行なわれるものを指してレクチャー・パフォーマンスと呼ぶ。イヴォンヌ・レイナー、ヨーゼフ・ボイス、ロバート・スミッソン、ジョン・ケージなどによって1960年代に隆興したパフォーマンス・アートが起源とされる。
2019年現在、確立した定義はなく、リサーチに基づいたオーソドックスな講義形式のものからフィクションを交えたもの、あるいは観客が街中を歩き回るものまで、さまざまな形式の作品がある。内容も多岐にわたるが、作家自身の出自や体験に関連するものが多く、ほとんどの場合、作家本人が出演する。教育、学術、あるいは商業的プレゼンテーションなどを想起させるレクチャーという形式それ自体に焦点があたっている場合も多い。

山﨑健太「レクチャー・パフォーマンス」Artwords

私がレクチャー・パフォーマンスに関心を持ったのは、同僚の木野彩子さんによる『ダンスハ體育ナリ?』シリーズがきっかけです。なぜか体育の授業で教わることになっているダンス、そこへの疑問を出発点に、建国体操や日本体操など戦前〜戦時期の体操教育を振り返り、さらには東京オリンピックやコロナ禍における身体の在り方を見つめていく野心的な作品です。私自身も2020年に木野さんとコラボレーションし、同作品の映像化『【補講】ダンスハ保健体育ナリ?』の制作を行いました。

『【補講】ダンスハ保健体育ナリ?』2020年

最近では、恵比寿映像祭で見た佐藤朋子さんによる映像インスタレーション《オバケ東京のためのインデックス 序章 Dual Screen Version》が印象に残っています。コンテクストも込みでパッケージングできるレクチャー・パフォーマンスの可能性を感じさせてくれる作品でした。

本当は、今回の新作上映と併せてスライド映画とレクチャー・パフォーマンスに関するまとまった文章を書いて、パンフレット的な感じで刊行するつもりでいたのですが、結局間に合わず。いずれ機会があれば世に出せたらと思っています。

アイドル映画

上り終えた梯子は棄て去らねばならない』は、2019年に制作した『コールヒストリー』と同様に、誰かが発する「声」がどこへ届くのか(届かないのか)、そしてその「声」によって何が変わるのか(変わらないか)を可能な限り微細に検討する「コミュニケーションの基礎研究」のような映画であり、また作者の認識としては、一種の「アイドル映画」でもあると思っています(菊地裕貴さんとmtgを重ねて脚本を書くうちに、いつしかそのような結論に至りました)。

実際に作品をご覧くださる方が同様の印象を持つのか、それともまったく異なる感想を抱くのか、まったく予想ができず、今からとても楽しみ(恐ろしい)。ぜひとも皆さま自身の目で確かめてただけたらと思います。

『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』作品概要

『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』(2022)

67分/2022年/揺動FILMS07
監督・脚本:佐々木友輔、朗読・脚本:菊地裕貴、音楽:田中文久、挿画:823、デザイン:蔵多優美
主題歌:Cafun「Ladder」作曲:田中文久、作詞:菊地裕貴、ヴァイオリン:秋山利奈
出演:遠藤浩明、大久保藍(096k熊本歌劇団)、にゃろめけりー、櫛橋南美

2021年11月、コロナ禍が続く中、ある大学でオンデマンド授業の動画配信が行われた。講師の堀多は、2011年3月に起きた大規模な集団失踪事件の記憶を記録するデジタルアーカイブの取り組みについて話し始める。そこで紹介されたのは、事件当時高校生のakane。彼女は失踪した祖父と過ごした最後の記憶をたどり、アーカイブにインタビュー映像を提供したことをきっかけに、事件を象徴する存在として祭り上げられていく。聞こえた声と聞き逃した声、聞きたかった声と聞けなかった声が乱反射する、ソーシャルメディア時代のスター誕生譚。



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