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ミュージックビデオの身体論⑨ヴァルネラブルな身体──クリス・カニンガムからまふまふまで

9. ヴァルネラブルな身体──クリス・カニンガム


イラスト:湖海すず

9-1. クリス・カニンガム

前々回(「アマチュアの身体──スパイク・ジョーンズからCGMへ」)と前回(「デジタルな身体──ミシェル・ゴンドリーからバーチャルアイドルまで」)は、『ディレクターズ・レーベル』第1弾で紹介された3名のMV監督(スパイク・ジョーンズミシェル・ゴンドリークリス・カニンガム)が描き出してきた身体イメージが、現在のMVが描き出す身体イメージの「原型」もしくは「類型」となっているのではないかと仮説を立て、スパイク・ジョーンズミシェル・ゴンドリーの諸作品とその系譜に連なるMVを順に紹介して来た。今回、最後に取り上げるのはクリス・カニンガムである。

※なお、今回紹介するMVには残虐な描写や性的な描写が頻出するため、視聴の際はご注意いただきたい。

クリス・カニンガムは1970年にイギリスのレディングで生まれた。リドリー・スコットやスタンリー・キューブリック、デヴィッド・フィンチャーらのもとで映像制作を学び、1996年からMVの監督としての活動を開始。オウテカやエイフェックス・ツイン、スクエアプッシャー、ビョーク、マドンナなど著名なアーティストのMVを多く手がけている。デビュー作となるオウテカ『Second Bad Vilbel』(1996)では、楽曲のビートやノイズ音に合わせて、異星人らしきクリーチャーや機械の物体が映し出される。映像は不鮮明でノイズに満ち、断片的である。近未来的な新しいテクノロジーの出現を予感させながらも、「進歩」や「発展」といった前向きなイメージとは無縁な、不穏で終末的な世界観が描き出されている。

オウテカ『Second Bad Vilbel』(1996)

1999年には、プレイステーションのCM『Mental Wealth』が話題となった。同作では、俳優フィオナ・マクレーンが演じる少女が、視覚的に加工された容姿で現れる(元の顔よりも不自然に吊り上がった目、細く削られた顎など)。彼女は取調室のような場所で、宇宙探査に象徴される人類の進歩・発展の努力を皮肉り、代わりに精神的豊かさ(Mental Wealth)の重要性を説く。異星人なのか、より高次の存在となった人類なのか、作中の要素だけでは解明し得ない謎めいたキャラクターによる謎めいたメッセージは、当時の視聴者に強烈な印象を残した。

『Mental Wealth』(プレイステーションCM、1999)

9-2. 生理的でヴァルネラブルな身体

カニンガムの初期のMV『Back With The Killer Again』(オトゥールズ、1996)でも、人間なのか別の生物なのか判別し難いキャラクターが登場する。白く痩せた身体で、目を持たず、密室的空間の中で悶えるような動きを見せたり、血を吐いたりする。ここに見られるように、特殊メイクなどアナログな技術とデジタル技術の双方を駆使して虚構のキャラクターを生み出すと共に、何かしらの暴力に晒されてそのキャラクターが傷ついたり、痛みに悶えたりする姿を描くことによる、身体の生理的側面の過剰な強調が、その後のカニンガムのMVを特徴づける重要な要素となった。

オトゥールズ『Back With The Killer Again』(1996)

ビョークAll Is Full of Love』(1999)では、物々しい機械によって組み上げられた2体のアンドロイドが声を掛け合い、互いの身体を求め合う。両者から流れ出る白い液体は、機械の作動に関連した潤滑油か洗浄液か何かのようにも見えるし、生身の肉体から流れる体液のようにも見える。相手のほうをじっと見つめ、呼びかけ合う二体の切なげな表情が胸を打つ。ここでも、無機質な機械でしかないはずのキャラクターに生理的な側面や感情的な側面が備わっていることが示唆されている。

本稿ではこうした身体を形容するために、弱さや傷つきやすさ、攻撃誘発性といった意味を持つ「ヴァルネラビリティー」という語を導入したい。クリス・カニンガムのMVは、一方では、傷ついた身体や改造された身体を見世物のように提示する露悪的で耽美的な描写が目立つのだが、他方では、損傷・変形させられた身体の生々しい痛みや苦しみ(ヴァルネラビリティー)を視聴者にも想像させることで、MVというジャンルにおける現実離れした身体描写やフラットな身体描写への反省・再検討を促す契機にもなり得るように思うのだ。

ビョーク『All Is Full of Love』(1999)

ビョーク『All Is Full of Love』(1999)

9-3. ハイブリッドな身体

エイフェックス・ツインCome To Daddy』(1997)では、寂れた団地で犬の散歩をしていた老婆が、打ち捨てられたテレビモニタに不穏な気配を感じ取るところから始まる。ケーブルも接続されていないはずなのにモニタの画面が付き、激しいノイズと共に、歪んだエイフェックス・ツインの顔が映し出される。老婆は胸を押さえて苦しみ出し、その場を逃れようとするが、今度は彼女の前にエイフェックス・ツインの顔をした子どもたちが現れ、破壊の限りを尽くす。

こうした悪夢的世界を描き出すために、カニンガムはCGやVFXだけに頼らなかった。映画のマスク彫刻を作る仕事を手がけた経験を活かし、エイフェックス・ツインの顔写真をもとにシリコン製の不気味なマスクを作成(「Aphex Twin「Come To Daddy」:5つのトリビア」)。大人の顔と子どもの体を持つハイブリッドな身体が表現された。

エイフェックス・ツイン『Come To Daddy』(1997)

エイフェックス・ツインWindowlicker』(1999)のMVも『Come To Daddy』と同様のアイデアで制作されており、今度は水着姿の女性の身体とエイフェックス・ツインの顔が組み合わせられている。エイフェックス・ツインの本来の顔をさらに大きく歪めたキャラクターも登場し、不気味な印象がますます強調されている。

カニンガムのこれらの作品に見られる身体は、非現実的でありながら同時に生々しく、重厚な造形を持ち、強烈な実在感がある。それは、前回紹介したミシェル・ゴンドリーの描き出す「デジタルな身体」の軽やかさ・フラットさとは対照的な身体描写であると言えるだろう。またその身体を作品の軸として細部まで画面を作り込み、不気味だが完成された世界観を構築していくスタイルは、前々回紹介したスパイク・ジョーンズが「アマチュアの身体」の即興性・パフォーマンス性を前面に打ち出すスタイルとも大きく異なっている。

エイフェックス・ツイン『Windowlicker』(1999)

Come To Daddy』と『Windowlicker』に描き出された身体は、顔と身体のギャップが生み出す異化効果や不気味さを強調し、悪趣味な見世物として提示することに主眼が置かれているように思える。他方、そうしたハイブリッドな身体を単なる露悪的表現だけに留めるのではなく、宗教的・政治的文脈と結びつけて扱ってきたアーティストとして、マリリン・マンソンを挙げることができる。例えばポール・ハンターが監督を務めた『The Dope Show』(1998)では、同曲が収められたアルバム『メカニカル・アニマルズ』(1998)のコンセプトを視覚化するかたちで、ボーカルのマリリン・マンソン自身が演じる両性具有のエイリアン・オメガをMVに登場させた。アンチクライストを標榜し、男女二元論やその他の西洋的倫理規範の撹乱を試みるマンソンの活動は、社会からの抑圧や疎外を感じる若い世代の実存的な関心に応え、熱狂的な支持を得ると同時に、話題作りのために性的マイノリティーを偽装・利用しているだけではないかとの疑念も生み、多くの議論が繰り広げられてきた。

マリリン・マンソン『The Dope Show』(1998)

9-4. 幽霊的な身体

続いて、カニンガムのフィルモグラフィーの中でやや異彩を放つMVとして、ポーティスヘッドOnly You』(1998)を見てみよう。同作では、暗い路地裏に佇む少年の身体がふわりと浮き上がり、泳ぐように、あるいは溺れもがくように手足を動かす姿がスローモーションで映し出される。また同じ場所で歌うベス・ギボンズの髪も浮き上がり、たゆたったり、顔にまとわりついたりする。これらのシーンは水中で撮影され、その後、デジタル処理によって周囲の風景が合成されたものだという。先ほど紹介した『Come To Daddy』や『Windowlicker』における生々しい肉体の実在感や造形性とは対照的に、ここでは実在感が希薄で、すぐにでも儚く消え入りそうな身体が耽美的に描き出されている。

ポーティスヘッド『Only You』(1998)

カニンガムのMVで他に『Only You』と共通する要素を持つものとしては、マドンナFrozen』(1998)を挙げることができる。黒衣に身を包んだマドンナが、カリフォルニア州・モハーヴェ砂漠の只中で宙に浮かび、佇んでいる。風になびく長い黒髪と黒衣は烏をイメージさせるもので、実際、彼女が地面に倒れ込むとその身体は無数の烏に変容し、飛び去っていく。マドンナというスターの身体は常に衣装のヴェールに覆い隠されており、彼女の他のMVに見られるような、グラマラスなスタイルの強調は最小限にとどめられている。やはり生身の身体の実在感が希薄な、幻想的なイメージが全編に渡って展開するのである。

マドンナ『Frozen』(1998)

だが『Only You』にせよ『Frozen』にせよ、どこまでも暗く陰鬱な世界観を描き出しているという点では、いつものカニンガムらしさを確かに感じることができるだろう。共に後悔や失望、想いを寄せる相手への執着心が歌われており、そうした歌詞が——前者なら現世に縛られた亡霊、後者ならマドンナの魔術的・魔女的を思わせるような——実在感の希薄な幽霊的身体と結びついて、深い情念に塗り込められた世界を形成している。たとえ物理的肉体を喪失しても、痛みや苦しみの感覚は残り続けるのだ。

9-5. 暴露性と見世物性

ここまで見てきたように、カニンガムのMVは、過剰な暴力描写や露悪的な演出を通じて、物理的にも心理的にも痛めつけられ、もがき苦しむ身体を提示してきた。

それは一方では、理想的な身体イメージ(スターの身体など)や、開放感・多幸感に溢れた身体イメージ(アマチュアの身体やデジタルな身体など)が隠蔽してきた生身の身体のあり方、すなわちヴァルネラブルな身体の存在を明らかにする「暴露」的な役割を担ってきたと言えよう。現実の人間の身体は、スターの身体と違って無数の皺や染みがあり、均等なプロポーションを持たず、少し油断しただけで弛んでいく。非現実的なアクションもこなせるデジタルな身体と違って、切れば血が出るし、軽い自動車事故でもむちうち症になるし、高所から落ちればほぼ間違いなく死に至る。私たちはそうした、脆弱でままならない身体を抱えながら、MVが提示する幸福で煌びやかな世界とは対照的な、暗く救いのない世界に生きている……。カニンガムのMVは、そうした現実を容赦なく突きつけ、さらに誇張して露悪的に示すことによって、健全なイメージや幸福なイメージで塗り固めたMVに物足りなさや欺瞞を感じる人びとからの支持と共感を得てきたのだ。

だが他方では、それは誇張や風刺的な表現に留まらず、暴力的な描写や露悪的な描写を見ること自体の欲望に応える「見世物」的な表現としての役割を担うこともあるだろう。身体のヴァルネラビリティーと暴力性・加害性は表裏一体の関係にあり、非常に繊細なバランスで成り立っている。そのうち暴力性・加害性が突出すれば、ヴァルネラビリティーの表現というよりもむしろ、ゴア(血肉が飛び散るような猟奇的表現)的な快楽の追究という側面が前景化してくるのだ。

例えばスクエアプッシャーCome on My Selector』(1998)では、大阪の孤児院(実際には隔離病棟のような施設)を舞台に、逃走を図った少女が警備の男たちを巧みな格闘技術で徹底的に痛めつける。さらに少女はコンピュータから「脳交  Brainswap Industries」というサイトにアクセスし、拘束した男に電極をつなぎ、彼女と行動を共にしていた犬と脳を入れ替えてしまう。殴られ、蹴られ、注射を打たれ、脳交換に伴うショックで暴れる警備員の姿は、カニンガムの暴力描写に特有な鈍く重い痛みを感じさせるが、同時に、一連のアクションは音楽のリズムとぴったり同期させられており、すべてが別の場所から操作されているような、非現実的な感覚も備わっている。少女はあたかもデジタルゲームをプレイするかのようにして男に暴力を加え、快楽的な笑みを浮かべるのである。

スクエアプッシャー『Come on My Selector』(1998)

クリス・カニンガムエイフェックス・ツインによる短編映像作品『Rubber Johnny』(2005)は、実験室や病棟のような密室的空間を舞台とし、人間なのかそうでないかが不明なキャラクター(ラバー・ジョニー)が登場するという点で、カニンガムの初期作『Back With The Killer Again』と多くの共通点を持つ。ジョニーは巨大な頭部を持ち、胴や手足は細く虚弱で、普段から車椅子に座って生活をしている。序盤は暗闇の中でじっとしているが、どこかから無数の光線が迫ってくると突如として機敏な動きを見せ、身体をゴムのように変形させて回避したり、掌や頭部で光線を受け止めたりする。その動きは『Come on My Selector』と同じく音楽のリズムと同期しており、まるでリズムゲームやシューティングゲームのようだ。時折、ジョニーは頭を撃ち抜かれたり、勢い余ってカメラ(?)に衝突したりして、ぐちゃぐちゃに破壊された顔面を晒し、鈍い痛みの感覚を視聴者に伝える。ここでもやはり、生理的でヴァルネラブルな身体を提示する「暴露性」(批評性とも言い換えられよう)と、その身体への加害を一種の快楽として提示する「見世物性」が同居しているが、ゲーム感覚で振るわれる暴力という要素が付け加えられることで、後者の露悪的な側面がより強調されている。

クリス・カニンガム&エイフェックス・ツイン『Rubber Johnny』(2005)

9-6. ボディ・ジャンルのさらなる過剰

MVにおいて伝統的に描かれてきたスターの身体や、新たに台頭してきたアマチュアの身体・デジタルな身体と並行して、ヴァルネラブルな身体の暴露性と見世物性を兼ね備えたMVもまた、続々と制作が行われてきた。

こうした表現をより広範な視覚文化の歴史上に位置づけるならば、映画研究者のリンダ・ウィリアムズが提唱した「ボディ・ジャンル」という概念を導入することが有効だろう(『Film Bodies: Gender, Genre, and Excess』1991年、未邦訳)。ボディジャンルは、物語の効率的かつ経済的な語り口を洗練させた古典的映画(古典的ハリウッド映画)のスタイルから逸脱した3つのジャンル(ホラー・ポルノグラフィ・メロドラマ)を説明するための言葉で、身体表象の過剰なスペクタクル性や、視聴者の身体への直接的な働きかけ(震え上がらせる・性的に興奮させる・涙を流させるなど)を特徴とする。

私は特定の作品に限らず、MVというジャンル全体がボディ・ジャンルに該当する特徴を備えていると考えるが、詳しくは稿を改めて論じることにしよう。ひとまずここでは、そもそも過剰な身体表象を主要な特徴とするMVの中でも、さらに過激化し、過剰な暴力描写や性的描写を前面に打ち出した作品群が——カニンガムやマリリン・マンソンを筆頭に——1990年代後半から2010年代初頭にかけて増加してきたことに目を向けたい。

例えばラムシュタインMein Tail』(2004)は、「ローテンブルクの食人鬼」として知られる殺人犯アルミン・マイヴェスが起こした現実の事件をモチーフにしている。マイヴェスはインターネット上で知り合った男を合意の上で殺害し、その肉を食した上、その様子をビデオに記録していたことで世界中を震撼させた。MVでは、下着1枚だけを身につけた男が身体をよじり悶える姿や、天使がその羽をむしられながら陵辱される姿、マイヴェスの母親役(ドラマーのクリストフ・シュナイダー)が首輪を付られた他のメンバーを引き連れ、街頭を四つん這いで歩かせる姿などが映し出される。現実の事件が突きつける社会の暗部をメディアに乗せて拡散する暴露性と共に、それを露悪的かつ耽美的な表現で描き出す見世物性をも備えた挑発的な作品で、公開後は多くの議論を呼び、2006年には、マイヴェス自身が己の権利を侵害されたとして訴訟を起こしたとの報道もあった。

ラムシュタイン『Mein Tail』(2004)

ヴァルネラブルな身体の暴露性と見世物性を兼ね備えたMVの代表例としては、レディ・ガガの諸作品も外すことができないだろう。例えばフランシス・ローレンスが監督した『Bad romance』(2009)では、バスタブに浸かっていたレディ・ガガが、白いラテックスのスーツを着た女たちに拘束され、グラスに入った液体を飲まされ、そのまま連れ去られる。次の場面では、ガガは人身売買をする男たちの前で踊り、100万ロシア・ルーブルの値を付けられて、落札者であろう男が待つベッドへと向かう。男の前でジャケットを脱ぎ、下着姿になると、どこからともなく炎が上がり、男をベッドごと焼き尽くしていく。最後のショットでは、男の焼死体の傍にガガが寝そべり、タバコをふかす。ブラジャーの両胸に備え付けられた装置からは、白い火花が飛び散っている。

このように、レディ・ガガは卓越した歌唱力とパフォーマンスを武器に、人々のまなざしを一身に集めるスターとして振る舞いながらも、露出度の高い衣装や性的隠喩に満ちた歌詞、性的人身取引を扱ったMVの物語などを通じて、己に向けられる欲望自体を対象化し、スターの生身の身体が抱える傷や痛みを暴露する。さらには、そのヴァルネラブルな身体自体を再度見世物化し、挑発的なエンターテインメントへと昇華させてみせるのだ。

レディ・ガガ『Bad romance』(2009)

ボディ・ジャンルとしてのMVのさらなる過激化は、2010年代初頭にひとつのピークを迎える。その時代を象徴する作品として、映画監督の中島哲也が手がけた『Beginner』(AKB48、2011)のオリジナルバージョンを挙げておこう。

そもそもAKB48は、「会いに行けるアイドル」という身近さや親しみやすさをコンセプトに掲げて登場したアイドルグループである。また、熾烈な人気投票や過酷なステージの舞台裏を明かすリアリティショー的な戦略を採用し、常に話題を振りまいていた。その当時の様子は、ドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(高橋栄樹、2012)に生々しく記録されている。本稿で用いてきた言葉に置き換えるならば、彼女らは、一般人には決して手の届かないスターの身体ではなく、アマチュアの身体を前面に打ち出して活動してきたのだ。

高橋栄樹『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(2012)

Beginner』のMVでは、そうしたAKB48の過酷な競争やサバイバル的な要素を反映するように、コントローラで操作されたAKB48のメンバーたちがデジタルゲーム的な世界の中で戦いを繰り広げる。彼女らは人形のように無表情で、機械のようにぎこちない動きをする、デジタルな身体を持つキャラクターとして描写されている。だがその身体が、落下してきた立方体によって押し潰されたり、無数の針に貫かれたり、顔面を真っ二つに切断されたりする場面には、ゲームの世界の出来事として片付けることのできないような残虐さ、殺伐とした暴力に晒される恐怖が感じられる。さらには、腹部を貫かれて口から白い液体を吐いたり、コントローラの上に血痕が付着したり、傷つき出血した手を押さえながら叫び声を上げる姿は、アイドルの生身の身体にまで、その暴力と痛みが届いていることが示唆される。このように『Beginner』には、本連載で論じてきたアマチュアの身体・デジタルな身体・ヴァルネラブルな身体のすべてが同居しているのである。

『Beginner』(AKB48、2011)より

だがこのMVは一般公開前から物議を醸し、若年層への悪影響を懸念して有料配信のみの公開となり、CDに付属のDVDへの収録や、テレビ放映は見送られることになった(「AKB 衝撃の“残虐PV”は有料配信のみ」Sponichi Annex芸能、2010)。2024年現在も公式からは公開されておらず、YouTubeには、残虐な場面を省いた別バージョンがアップロードされている。ボディ・ジャンルのさらなる過激化は、ヴァルネラブルな身体を描き出すことの暴露性と見世物性のバランスを崩し、後者の側面を際限なく肥大化させることで、やがて視聴者の支持を失う。残虐な描写をあえて選ぶ批評性やアイロニーを読み取るよりも、ただ行き過ぎた暴力、ついていけない露悪趣味としか感じられなくなるのである。そしてこうした視聴者からの批判的なまなざしは、やがて、現実に過酷なゲームへの参加を強いられてきたアイドルという存在自体にも向かうだろう。

AKB48『Beginner』(2011)※別バージョン

9-7. 対抗的な身体

主流の物語映画についてローラ・マルヴィが指摘したのと同様に、多くのMVもまた、男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側を割り振られているという、まなざしの非対称性の問題を抱えてきた(「視覚的快楽と物語映画」斎藤綾子 訳、『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』所収、岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年)。だがレディ・ガガが『Bad romance』で自身に向けられる欲望のまなざしを対象化し、性的欲望のため人身売買を行う男を焼死させてみせたように、マイノリティはただ暴力に屈するのではなく、そのまなざしに抵抗し、逆に相手を批判的に見つめ返すことができる。そうしたまなざしのことを、ベル・フックスは「対抗的まなざし Oppositional Gaze」と呼んだ(「対抗的まなざし——黒人女性の観客性」『ブラック・ルックス——人種と表象』所収、1992年、未邦訳)。

MVにおいて、ヴァルネラブルな身体を描き出すことに伴う暴露性・批評性と見世物性のうち、前者を強調していけば、それは暴力や権力に抗う「対抗的な身体」となるだろう。例えばビリー・アイリッシュは『bad guy』(2019)で、文字通りのバッドガイ(悪い男)によって痛めつけられた自らの身体を提示する。鼻から垂れた血がサンダルと靴下を汚し、両膝には青痣ができている。だが支配を受け入れ、男の為すがままにされているように見える彼女の印象は、「私がバッドガイだ(I'm the bad guy)」という言葉と共に覆されていく。支配されているふりをしながら男に取り入り、彼の家庭生活を破滅に導こうと企む歌詞と連動して、ビリー・アイリッシュはMVでも男たちに反撃の暴力を加えていく。仰向けの男を踏みつけて口にミルクを注いだり、2人の男の生首を水を溜めたビニール袋に入れて吊るしたり、腕立て伏せをする男の背に胡座をかいて座ったりと、あくまで主導権はこちら側にあると誇示するのである。

ビリー・アイリッシュ『bad guy』(2019)

M.I.A.Born Free』(2010)は、スリランカ軍が国内の少数民族であるタミル人を迫害し、超法規的な殺人を繰り返した事件をきっかけに制作されたMVで、タミル系スリランカ人であるM.I.Aが脚本を書き、ロマン・ガヴラスが監督を務めた。作品の冒頭は、『ハート・ロッカー』(キャスリーン・ビグロー、2008)などの戦争映画を思わせる手持ち撮影で、SWAT部隊が建物を襲撃する様子を捉えた場面から始まる。SWATの隊員たちは赤毛の男性を拘束し、同じく赤毛の男たちが収容された護送車に押し込む。砂漠に連れて来られた捕虜たちは、ある者は殴殺され、またある者は射殺、爆殺される。何とか逃げ延びようと駆ける男の足元が爆発し、四肢がバラバラに吹き飛ぶショッキングな場面が忘れ難い。無慈悲な虐殺を淡々と見つめ続けることを通じて、スリランカはもちろんのこと、世界中で行使されている暴力への批判が試みられている。

M.I.A.『Born Free』(2010)

M.I.A.『Born Free

2018年には、チャイルディッシュ・ガンビーノ(俳優ドナルド・グローヴァーの別名義)のMV『This Is America』(2018)が世界中で大きな話題となった。監督を務めたのはヒロ・ムライ。広大な倉庫のような場所に佇んでいたガンビーノが、突如として銃を構え、布を被せられた黒人男性の後頭部を撃ち抜いたり、陽気に歌う聖歌隊にライフルを乱射したりと、ショッキングな殺人を見せつけ、「これがアメリカだ This Is America」と突きつける。また彼は、ジム・クロウ(かつて顔を黒塗りにした白人が演じた舞台ミンストレル・ショーのキャラクターで、その後黒人の蔑称となった)の特徴的なダンスを振り付けに組み込んだり、南北戦争時に奴隷制存続を求めた南部連合の兵士を連想させる衣装を身につけるなど、遠い過去から現在に至るまで、黒人が晒されてきた差別と暴力の歴史を自らの身体に宿らせて見せるのである。

チャイルディッシュ・ガンビーノ『This Is America』(2018)

9-8. フラジャイルな身体

ジェンダーや民族の多様性への関心が高まる中で、社会的なマジョリティとしてあり続けてきた男性のあるべき規範や、男性らしさ・男らしさといった概念にも、多くの疑問が投げかけられ、その見直しが行われてきた。2010年代後半に世界的な人気を得たK-POPアイドルグループBTSもまた、強く逞しく、鍛え抜かれた肉体を持つ旧守的な男性のスター像とは大きく異なる身体のありようを提示し、広く受け入れられたという点で、非常に重要な役割を果たしてきたと言えるだろう。

例えば『I NEED U』(2015)のMVでは、BU(BTS Universe)という他のMVやコンテンツとも連動した世界観と物語の元、7人で過ごした美しい過去の時間の思い出と、何らかの事件をきっかけに揺らいでいく各々の友情や関係性が描かれている。寒さに震えるように身をすくめたり、過去への後悔から激しく取り乱したり、涙を流したりと、BTSのメンバーが見せる行動や振る舞いはどこまでも繊細で、傷つきやすく、儚い印象を与える。

BTS『I NEED U』(2015)

こうした身体を、本稿では新たに「フラジャイルな身体」と呼んでみることにしよう。フラジャイル(fragile)であるとは、脆いものや壊れやすいもの、華奢なものや虚弱なもの、か弱いものであることを意味する。編集者・著述家の松岡正剛が指摘したように、こうした「弱さ」を「強さ」の欠如と捉えてはならない。「弱さ」はそれ自体で独自の特徴や価値を持っており、ささやかな一部分でありながら、時に全体の構造を揺るがせたり、大きな力に抵抗し得るような微細な力を持つのである(松岡正剛『フラジャイル——弱さからの出発』ちくま学芸文庫、2005年)。

フラジャイルな身体をまさに体現するアーティストとしてて、最後にまふまふを取り上げよう。 例えば『ひともどき』(2020)では、ひと(人間)になりきれないという疎外感や無力感、ただ生きることの痛みや苦しみが切実に歌われると共に、MVでも、生身の肉体感や実在感が希薄な、虚弱で儚げな身体が映し出される。演奏シーンではその身体の周りに輪郭線が引かれ、二次元的なアニメーションと組み合わせられることで、ますます平面性が強調され、現実感のなさが際立つことになるだろう。

また『ひともどき』では、こうしたデジタルな身体に加えて、ヴァルネラブルな身体も描き出されている。ただしそれは、クリス・カニンガムやマリリン・マンソンのように派手で過剰な暴力を打ち出すのではなく、身体に加えられる力やそれによって生じる影響、あるいは、自己の内面の揺れ動きをどこまでも詳細かつ繊細に表現しようとする姿勢を説明するための語としてのヴァルネラビリティーである。病院のベッドと入院着のような衣装、腕につながれた点滴、アニメーションによって塗りつぶされる顔面、自身の影が変形して現れる怪物の姿など様々な演出や表現技法を駆使して、まふまふは、自己の身体が世界に触れる際に生じる摩擦や、それに伴う微細な——だが重大な——痛みや苦しみのありようを正確に表現してみせようとしているのだ。

まふまふ『ひともどき』(2020)

「ミュージックビデオの身体論」について

この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。


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