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「師匠」をめぐる自己物語探究 Self narrative Inquiry― ―寺沢喜幸氏 を偲んで 「じぶんを、かたり、ふかめる」

Ⅰ.出会い
 1986 年 4 月。 中学時代の音楽科教師 に紹介
して頂いたトランペットの 師匠 (寺沢喜幸 氏
の最初のレッスン があった。 私は高校に入学し
たばかりで、 楽器と出会って既に5年が経過し
ていた 。 将来の進路希望を音楽に定めたものの、
なかなか具体的な取り組みを始めることができ
ず、親を説 得してようやく本格的に音楽を学ぶ
機会を得て、意気揚々と初レッスンに臨んだ。
しかし私は、初回から強烈な挫折感を味わ
う 。

 ジャズに夢中になり、我流のでたらめな奏法で
吹いていた私に、 師匠 は静かにこう告げた。
「申し訳ないが、君はトランペット奏者になる
ことはできないよ。我流の奏法は大学入試まで
に修正できるようなものではない。君は広く音
楽に関心を持っているようだから、大学に入っ
たら別の専攻に変わるといい。とりあえず音大
に入学できるレベルにまではしてあげよう。そ
の代わり今までのやり方を捨てて、必死に練習
しなければいけな いよ 。 」

 正直ショックで頭が真っ白になり、返す言葉
を失 った 。普通ならここで別の師匠を捜すのか
もしれ ないが、 私はあきらめられ なかった 。         
あまりに悔しく、逆に「見返してやる」と奮起し
たように思 う 。 元来ジャズへの志向が強く、
クラシック への関心 は 薄かった私だが、 師匠 は
レッスンの際、オペラアリア集から16小節ほど
の短い旋律を取り上げ、毎回必ず課題に含めて
おられた。 「音楽の本質は歌にある」 というのが
師匠 の口癖で、最初は意味も分からず吹いてい
た私も、徐々にその旋律の虜となり、原曲のレ
コードを探して聴くようになったのだった。
 
 当初レッスンは隣町にある、通学していた高
校の近く(滝川市)で行われていた。時代はバ
ブル景気にさしかかっており、音楽 プロモータ
ーでもあった師匠の仕事が忙しくなるにつれて、
滝川に通ってレッスンをして 頂くことができな
くなり、 高校2年からは月1回、札幌近郊にあ
る師匠 の自宅に通うこととなった。バスを乗り
継ぎ片道2時間半、初めてご自宅に伺った時の
ことが忘れられない 。壁一面に並んだレコード
と書籍に圧倒され、音楽の世界の奥深さに魅了
された。「興味があるのがあったら、自由に借り
ていっていいよ」。それから毎月、次は何を借り
ようかと考えるのが楽しく、次のレッスンを待
ち遠しく感じたものだ 。
 
 本当に沢山 の音源や書籍を貸していただい
た 。ほとんど借りる資料を指示することのない
師匠だったが、唯一「これは読んでおいた方が
いい」と勧めて下さったのがクルト・リースの
『フルトヴェングラー 音楽と政治』(みすず
書房)
だった。自身が高校生の時に読んで「自
分の人生を決めた一冊と言ってもいい、あげる
から読んでごらん」 と私に手渡して下さったの
だ 。エピグラフにはゲーテの 「芸術によってほ
ど確実に世界を避けるすべはなく、芸術によっ
てほど確実に世界と結びつくすべはない」との
言葉が掲げられている。それはボードレールを
座右銘にしていた孤独な高校生にとって、浮世
の雑事から逃れたいとの思いを見事に表現して
くれるフレーズだった。

 ナチスドイツとの関係に苦しんだフルトヴ
ェングラーの苦悩が生々しく綴られたその書物
を読みながら、この偉大な音楽家がナチスの迫
害にあってなお高貴な精神を失わず、音楽への
情熱の内に平和を希求していたのだということ
が、ひしひしと伝わってきた。特に印象的だっ
たのは、ナチスがベートーヴェンを政治的に利
用しようとすることに対して、はっきりと拒否
を示したエピソード だ 。

 「偉大な音楽のかかる悪用に二度と利用されまい」と固く心に誓った彼は、病気を装い医師に診断証明書を書いてもらって、何とかヒトラー誕生祝賀会への参加を拒む。疑念をもたれるからと証明書を書きたがらない医師に彼が言った言葉は、「もしあなたが証明書を書かないのなら、私は、私の窓から街路に飛び降りよう!ドイツと全世界を不幸のどん底に突き落とした男のために指揮棒をとるよりは、まだその方がどれだけましかわからない!」だったという。

 寺沢氏は1949年の生まれ。1967年に単身東京に移り、一年間の浪人生活を送る。1968年の大学紛争最盛期に国立(くにたち)音大に入学した我が師匠にとって、あの激しい「政治の季節」を耐え抜くためには、フルトヴェングラーの生き様をモデルとすることが必要不可欠だったのだろう。リースを初めて読んだ高校時代には意識しようもなかったことだが、ウクライナ危機の只中で新たな転換の時代を生きている私には、どうもそのように感じられてならない。

Ⅱ.別れ
 2011年12月20日に息を引き取ったとの報せを受け、御霊前にご挨拶に伺わせて頂いた。寒中見舞いの葉書には、次のような奥様の言葉が書かれていた。
「この様なお知らせとなり、すみません。主人が昨年の夏に陽一くん達に会った時に言った様に、家族でお見送りしました。最後はベニーグッドマンを流し、子供達とゆっくりお別れしました。去年会ってくれてありがとうございました。」

 遡ること4ヶ月前の8月17日、数年来ご無沙汰していた師匠から、直接お電話を頂いた。「ピアノどうする」の言葉の影にがん転移の不安を感じ、親友と連絡を取って久々に会いに行くこととした。放射線治療の影響で坊主頭になった師匠の姿に接し、その時ばかりは背筋が伸びる想い。病を得て尚も変わらぬ気丈な姿に様々な感慨を持つが、上手く言葉にならない。かつて聴聴いたことのある言葉が、再び師匠からから語られる。
「おれは才能を伸ばす=えこひいきしかできない」
「だから学校の先生はおれには無理だ」
「おれはおまえ達の後に弟子は取らない」
「教えるってことは、同じだけやるっていう責任がある」
「おまえ達良くやってるよ」…。


 トランペット奏者になることはできない、との衝撃の言葉から始まった師匠との縁は、四半世紀の時を経て、私に様々な実りをもたらしてくれた。結婚して家を建てた場所が師匠の事務所から歩いて1分ということで、ご無沙汰していることをいつも心苦しく思いながら、時間ばかりが過ぎていった。
「自分の葬式は家族だけでやると決めているから、気にしないでくれ」と淡々と語る声を聴きつつ、そんなこと言わずにまだまだ元気でいて下さい、と返すのが精一杯。肺ガンが脳に転移していると仰っていたが、まだまだお元気そうで、まさかこの時がお会いする最期になるなどとは夢にも思わず…。返す返すも、もっと沢山お話ししたいことがあったのに…と悔やまれてならない。
 寺沢師匠のご自宅には、私が実家で使っていた古いアップライトピアノが置いてあった。お参りさせて頂いた折、奥様は「夏はピアノのことを口実にしていたけど、本当は陽一くんたちに会いたかっただけだと思うよ。自慢の弟子だっていつも言っていたよ」」とお話しして下さった。

 3・11以来、様々に「いのち」を巡る不条理に心を痛めてきたが、身近な大切な人の死を体験する機会は、その時が初めてだった。「いのち」ある者、残された者は、与えられた「かかわり」を最大限に活かして、精一杯生きていかなければならない。2012年1月11日は、気丈に振舞われる奥様の声にじっと耳を傾けながら、できること、やるべきことを、慌てず・騒がず・坦々と進めていかねばならないと決意を新たにする日となった。
 あれから11年の時が過ぎ、娘10歳の誕生日に坂本龍一が逝き、私もがんとともに生きて5年目を迎えた。「自己物語探究=じぶんを、かたり、ふかめる」と捉えて、「主体的・対話的で深い学び」というスローガンへのカウンターを、命ある限り語り続けたいと想う。


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