自己物語探究の旅(4)
2月の北海道は例年のことながら氷点下の日が続き、寒さが身に染みる日が過ぎていきました。インフルエンザの流行が重なり、当方の勤務校でも相次ぐ学級閉鎖にスケジュールの変更が余儀なくされ、娘の幼稚園も先週一週間、園全体が閉鎖。遊び相手不在で退屈して過ごした平日が過ぎ、週末はたっぷり娘と過ごすことができました。土曜は妻が仕事で、私が娘と2人であれこれと日用品の買い物をして歩き、たっぷり疲れを感じつつ目覚めた日曜の朝のこと。娘は枕元で「ギターつくって」と言います。どうも平日ひとりで工作をして遊んでいたらしく、キッチンタオルの空き箱に輪ゴムを巻き付け、ギターもどきのおもちゃを自作していたようです。
ふと心に浮かんだのは40年前の出来事。私自身の小学校時代の想い出です。以前の連載(音楽・平和・学び合い)初回(2011.1.31)で、私は「音楽」との出会いとして次のような自己物語を綴っていました。http://archive.mag2.com/0000027395/20110131001000000.html
(以下引用:前略)
私は北海道の中央部に位置する農村地帯に、米作り農家の長男として生まれました。1970年のことです。隣の家まで500mもあるような田舎で、学校まで4キロ、同級生で一番近い友人宅まで2キロあるという環境でした。農家の跡取りとして期待されて育ちましたが、痩せっぽちで体力がなく、おまけに近くに遊び相手もおらず、専ら4つ年上の姉とばかり遊んでいる内向きの子どもだったように思います。家には文化的な環境はほとんどなく、楽器などはもっての他。唯一叔父が置いていった壊れたギターがあるだけで、それも日頃は誰も触れないまま放置されていました。
折りしも時代はフォークソング全盛期。当時大学生だった叔父が夏休みに帰省する時にだけ、その楽器は音を立てるのでした。何を弾いていたのかは記憶にありませんが、今思えばギターを弾き語る叔父の姿が、私が音楽に魅かれた最初のきっかけであったように思います。歌を歌うことは好きだったようで、田んぼの畦道に腰掛けギターを爪弾く叔父の隣で、一緒に歌っていたのを覚えています。奏でてみたいと思ったものの、幼い私はギターを構えることさえできず、数本残った弦を弾いてみるのが精一杯でした。当時の私は他に「星を見ること」や「切手集め」、「スーパーカー」などに夢中で、時と共にギターへの憧れも薄れていったのでした。
(後略:引用以上)
娘の名前の由来についても、連載(14)で次の様に書かせて頂いたことがあります(2013.3.31)。http://archive.mag2.com/0000027395/20130331230508000.html
(以下引用:前略)
生まれた娘には「綸子(りんこ)」と名付けることにしました。「綸」は弦楽器の糸を意味する字で、「つかさどる、おさめる、つつむ、おおう、まとう、からめる」といった含意を持っています。「リンズ」と読めば「光沢のある絹織物」のことなのだそうです。自らを美しく、しなやかに紡いで生きて欲しいとの祈りを込めました。様々な出会いに感謝して、優しく、かつたくましく育って欲しいと強く願わずにはいられません。
(後略:引用以上)
私自身は自身の専門を管楽器(トランペット)としましたので、未だに弦楽器は苦手なのですが、大学院の1年目に1年間だけ、学生オーケストラでヴィオラを弾いていたことがあります。妻はピアノ専攻ですが副科でチェロを弾いていましたので、私たち夫婦の間にはどこか弦楽器に対する憧れが強いようです。日曜の夕方、娘と一緒に楽器作りに興じ、サランラップの芯をネックに見立てた4本弦のギター(もどき)と小さな太鼓、短三和音に調律した糸3本の琴を、小一時間ほど作成。妻は家事で忙しかったので娘と二人、即興の歌でセッションしたのでした。
曲名は『明日への手紙』。「幼稚園で習った歌なの?」と訊くと、「いや、私が作ったの」と言います。どこかで聞いたことのあるメロディなのだと思うのですが、できたばかりのギターをサウスポーで構え、ベース音に合わせて弾き語ります。当方は太鼓でサポートしつつ、一緒に歌う楽しさ。親バカなのは承知の上ですが、生まれた時からひたすら即興の子育て歌(きちんと数えていませんが、夫婦合わせると20曲ほどあるでしょうか…)であやしながら育ててきたことがこんな風につながるのかと、しばし深い感慨にひたったのでした。食後は家族三人で『シング』http://sing-movie.jp/ を楽しみ、劇場の魅力をしばし想い出す機会となりました。妻とは学生オペラの合宿(1992.8.11)が付き合いを始めるきっかけで、この秋には札幌に待望の劇場(札幌文化芸術劇場「hitaru」http://www.sapporo-community-plaza.jp/theater.html)がオープンすることも重なり、これまでのライフヒストリーを様々に想い出す、ひさびさに幸せを感じる得難い夜となったのでした。
こんな風に父・母・娘三人の典型的家族の風景を綴りましたが、実は今月は、その背後にたくさんの悲しいエピソードがありました。当方のフェイスブックを見ていただいた方は既にご存知かと思いますが、上記連載第一回で紹介した叔父(笹木功)が、3年半のがん闘病を経て、過日2月6日に逝去しました(享年67歳)。通夜を終え告別式を控えた2月8日の早朝に叔母から連絡を受け、その日は重い気持ちを抱えたまま拠点校指導教員の打ち合わせ会議に参加。午後の授業では平静を装うことができず、生徒に迷惑をかけてしまったのでした。
30年前の大学入試(武蔵野音大・東京学芸大)に際して身を寄せ、埼玉からわざわざ合格発表を見に行ってくださった叔父夫妻。都立校一校、区立校二校で障害児教育に専念し、平成5年から荒川区など二校で教頭、平成13年~21年は三校で校長を務め、退職後も適応指導教室指導員を務め、支援を必要とするこども達に寄り添い続けた生涯でした。
父方の兄弟6人は皆健在だったのですが、末っ子の功おじさんが一番先に逝ってしまいました。当方は祖父が地元の教育委員を16年(最後5年は教育委員長)務め、父は長男で農業を継ぎましたが、次兄は教育長で役場を引退、長女の夫(吉田邦男)も平成9年に校長3校を経験して退職した学校教員です。吉田のおじさんは満80歳を記念して「縁(えにし)」という私家版の自分史を作成し、一昨年(2016)私にも送って下さいました。今回、この原稿を書くために吉田叔父の自分史をゆっくりと紐解きましたが、多くの出会いと別れ、喜びと悲しみに彩られた人生物語を読みつつ、当方も自身の人生の折々を想起し、何度も心が震える想いでした。
世に悲しみは絶えず、吉田叔父の義娘さんも先月末に亡くなり、当方も3校目での同僚の奥様が先週不帰の客となりました。思えば2月は喪失の悲しみに耐えつつ、ぎりぎりで生きていた感があります。それでも、いやそれ故に、人は生き続けねばなりません。当方の師匠(寺沢喜幸先生)の追悼文となった連載(12)で、私は次のように書いています。http://archive.mag2.com/0000027395/20120203234855000.html
(以下引用:前略)
思えば人の死は、命のかけがえのなさを深く生きている者に刻みつけます。今回、師匠の死と向き合うことで私の心の中に深く刻まれたのは、亡き者の想いを受け継ぐことこそ、より善く生きるということなのではないか、ということでした。(中略)
3・11以来、様々に「いのち」を巡る不条理に心を痛めてきましたが、身近な大切な人の死を体験する機会は、幸いにも無かった様に思います。「いのち」ある者、残された者は、与えられた「かかわり」を最大限に活かして、精一杯生きていかなければなりません。今年の1月11日は、気丈に振舞われる奥様の声にじっと耳を傾けながら、私にできること、やるべきことを、坦々と・粛々と進めていかねばならないと、決意を新たにする日となりました。
(後略:引用以上)
師匠が逝って6年あまりが経ち、あらためて「私にできること、やるべきこと」とは何か、あの時決意した様に私は生きられているか、深く考え直しています。2月頭に参加した「グリーフを学ぶ会」において、吉野淳一氏(札幌医科大学看護学科教授)は「遺族の苦悩は何をどうやっても消せない。むしろ、消さないほうがよいときもある」とし、「傷(キズ)は絆(キズナ)のはじまりでその一部」と仰っていました。
庄井良信先生も『いのちのケアと育み』(2014)で、こんな風に書いています。
(以下引用:前略)
被(こおむ)った後を生きるということ、喪失を抱えていきるということ、そのなかで、自分の生き方を問い、未来への導きの糸を探る子どもや若者たちの人生も始まっています。その一人ひとりのかけがえのない〈いのち〉のいとなみを徹底して尊重しながら、そのささやきにも似た小さな声を聴き取り、社会がともに背負うべき責任を真剣に考えることが必要です。
(後略:引用以上)
悲しみを悲しみのまま受け止めて、死者を忘れることなく関係を保ち続けること。私が「亡き者の想いを受け継ぐことこそ、より善く生きること」と書いたのは、「傷/絆」こそ「縁」を紡ぐ大切な証であるとの感覚を表現したものだったのかもしれません。最後に、叔母に送った私信を紹介して、今回の原稿を終えます。先月に引き続き、死を巡る言説が続いたことを深くお詫びします。8回目の3・11まで2週間を切りましたが、我が「自己物語探究の旅」は、もうしばらく「死者を想うmemento mori」ことに充てられるでしょう。そう予告しつつ、それでも春の訪れを待ちながら、悲しみの向こう側に見える希望を手放さないでいたいと深く祈ります。
(以下引用)
功おじさんの訃報に接し、深い悲しみを感じています。謹んで哀悼の誠を捧げます。私が生まれた時、おじさんはすでに大学生でしたので、一緒に住んだという感覚はないのですが、祖父母の部屋にあった学生時代の油彩画を見ながら育ちましたので、他の親戚よりも身近に感じておりました。東京に出ず、おじさんが学んだ北海道教育大学札幌校に進学した私ですが、中一の時にご一緒した定山渓旅行2日目に、旧教育大構内を案内してもらったことをはっきりと覚えています。
結局、おじさんの生き方を倣うように私自身も教員の道を選び、勤務20年の節目で初任者担当の指導教員となり2年目が終わろうとしています。今年度からは特別支援の研究団体にも名を連ねました。障がい児教育からスタートし、管理職を経て退職後も適応指導教室指導員として、支援を必要とするこども達に寄り添い続けたおじさんの生涯は、私の範であり続けることでしょう。
最後にお会いできたのは、学くんの結婚式の時だったでしょうか。もっとたくさんお話を伺っておけばよかったと悔やんでいます。3年半のがん闘病とお聞きしました。当方も40になる直前、胃に過形成性ポリープを得て、以来十年近くがん転移を恐れながら通院加療中です。ありがたいことに娘はもうすぐ5歳で、健やかに育っております。何としても養生して、生き延びねばと思い直しているところです。
手紙を認めつつ、おじさんから受け取ったものをゆっくりと振り返るつもりでしたが、なかなか言葉が見つかりません。代わりになるかわかりませんが、8年前、大震災の少し前に書いたエッセイをご紹介します。「中・高校教師用ニュースマガジン」というメールマガジンに、「音楽・平和・学び合い」というタイトルで連載を始めた第一回で、小学校時代の音楽との出会いとして、おじさんとのエピソードを書きました。一部紹介します。
(上記連載引用:略)
この部分に先立って、私はこの連載の目的を「何故私はこの困難な時代に教師であり続けているのか、との実存的な問いに形を与える」と書きました。思えばおじさんの人生も「教師であり続ける」ことを問い続けたものであったのだろうと拝察しています。何もできなかった不躾な甥ですが、おじさんの遺志を継いで、「教師であり続ける」ことを問い続けたいと思います。いつか改めて想い出をお聞かせいただける機会を待ちたいと思います。
まだ2月で寒い日が続きます。皆様ご自愛の上、心穏やかに過ごされますことを願っています。
(引用以上)
参考資料:映画「SING/シング」公式サイトhttp://sing-movie.jp/
札幌文化芸術劇場「hitaru」HP
http://www.sapporo-community-plaza.jp/theater.html
笹木 陽一 「自己物語探究の旅」HP https://sasakiyoichi1020.jimdo.com
〃 フェイスブック https://www.facebook.com/yoichi.sasaki.507
〃 「音楽・平和・学び合い(1)」(2011)
http://archive.mag2.com/0000027395/20110131001000000.html
〃 「音楽・平和・学び合い(12)」(2012)
http://archive.mag2.com/0000027395/20120203234855000.html
〃 「音楽・平和・学び合い(14)」(2013)
http://archive.mag2.com/0000027395/20130331230508000.html
〃 「『家族』を巡る自己物語探究の試み
~私の<結婚・性・家族>観を語り直す~」
さっぽろ自由学校「遊」講座資料(2017)吉田 邦男「縁(えにし)」私家版(2016)
「グリーフを学ぶ会」フェイスブック
https://www.facebook.com/griefhokkaido/吉野 淳一「自死遺族の癒しとナラティヴ・アプローチ
~再会までの対話努力の記録」共同文化社(2014)庄井 良信 「いのちのケアと育み 臨床教育学のまなざし」
かもがわ出版(2014)
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