自己物語探究の旅(9)
先月の大阪北部地震に続いて、7月は「西日本豪雨」と名付けられた大災害がこの国を襲いました。改めて亡くなったたくさんの尊い命に哀悼の意を捧げます。重ねて、被害に遭われ今も苦境の中におられる皆様に心よりお見舞い申し上げます。このような紋切り型のあいさつでは伝えきれない深い悲しみを感じています。
列島の北に住む者でありながら、縁あって南国鹿児島発のこのメールマガジンに書かせていただくようになった頃、忘れられない「東日本大震災」が起こりました。あれから7年余りの時を経て、今回は津波ならぬ豪雨が多くの悲劇を生みました。異常気象と言ってしまえばそれまでですが、その根には、自然への畏敬の念を忘れた私たちの文明の罪深さが横たわっているように感じます。3・11を機に、このメールマガジンを通して知った哲学者・内山節氏は、著書において次のように書いています。
(以下引用:前略)
他者のために生きる。その他者とは他の人々でもあるし、自然という他者であってもいい。他の人たちの中には外国の人々もふくまれる。歴史や文化、思想といったものもわたしたちにとってはかけがえのない他者である。日本の伝統思想に従うなら、死者もまた忘れてはならない他者だ。
(中略)
「利他」的な生き方をしようとすれば、そこから「共同」「協同」という課題がでてくる。なぜなら他者のためになるようなことをしようとすれば、そのなかのごく一部のことは個人でもできるかもしれないが、ほとんどのことは共同で実行していかなければ成果はあがらないからである。ここから新しいネットワークを組みなおそうとする動きが生まれてきた。今日の人間たちは、自分のためにではなく他者のために生きる楽しさを少しずつ身につけはじめた。
~『文明の災禍』
「第五章 共有-何かがはじまっていた 自利と利他」より~
(後略:引用以上)
前回ご紹介した神戸の村井雅清さんは、今回の豪雨災害においても代表を務める「被災地NGO恊同センター」を通して積極的に活動し、その様子を「梅雨前線の影響による記録的大雨被害についてのレポート」http://ngo-kyodo.org/201807gou/として発信しています。一部紹介します。
(以下引用)
2018年7月13日 「平成30年7月豪雨」災害レポート―NO3
西日本を襲った大雨災害から、丁度1週間になりますが、被災者はもちろん、支援に入っている人たちも、泥と暑さとの格闘でもう精神的にも、体力的にも限界のようです。こういうときには、とにかく一人でも多くのボランティアが被災者のそばに寄り添い、水を運んだり、泥かきを手伝ったり、家の掃除をしたりとお手伝いすることが必要ではないかと思います。そのことでどれだけ被災者は喜ばれるか。ボランティアができることはたくさんあります。ただし、ボランティアは自己完結が当たり前です。少しでも被災地の渋滞を緩和するためにも可能な限り日帰りボランティアに徹する方がいいのではないでしょうか?また遠方から行かれる場合は、被災地の主要な駅から少しはなれたところで宿舎を確保し、徒歩か公共交通機関を使って被災地まで移動するなど工夫して欲しいですね。
今朝の毎日新聞で、倉敷市真備町での「互助」「共助」の話が紹介されていました。手伝いに来たボランティアが汚れたスコップを洗いたいのだが、その被災地は断水で水が出ない。そんな状況の中で貴重な水を下さいとは言えない。ところがその支援に入ったお宅は、井戸水があったために、水を使うことができたとのこと。こうした被災者と支援者の共助が、あちらこちらで行われているのだろうなぁと想像します。また被災者同士の「互助」もあるでしょう。阪神・淡路大震災後、私たちは「自立は支えあいから」というメッセージを発信していましたが、まさにこのような過酷な日々の中で、「自助」「共助」がしっかり生まれていることは、こちらも元気になりますね!
(引用以上)
内山氏の言う「利他」や「共同・協同」、村井氏が強調する「自助・互助・共助」について、私は以前の連載で「学び合い」という言葉に想いを託しつつ、様々に論じていました。学校の教室における「協同学習」の一種である『学び合い』(上越教育大・西川純氏提唱)に止まらず、広く発達援助に関わる人々との出会いを紡いで、「かかわりあうこと」の意義について臨床教育学というフィールドで探究してきました。キーワードを「セルフ・ナラティブ(自己物語)」と定め、そこで響き合う他者性をいかに自覚するかということを、「自己物語探究」というリサーチ・クエスチョンを通して明らかにしようともしています。当方の原稿は、いつも別の機会に書いたものを紹介してお茶を濁しておりますが、それもまた当方のスタイルと割り切って、今回は今月発行の北海道臨床教育学会紀要に掲載された共同執筆論文より、当方の執筆分をお読みいただきます。連載(2)同様、学術論文の文体にて読みづらく、難解に感じられる方もいらっしゃるでしょうが、予めご容赦ください。
(以下引用)
『北海道の臨床教育学 第7号』所収
「臨床教育学におけるリフレクションとは何か
-学校教育リフレクション部会 3年間の経験を通して-」
(前略)
4 他者と共に紡がれる「自己物語探究」
4-1 リサーチ・クエスチョンの模索
2017年の紀要に寄せた「部会報告」1)において、私は以下の様なまとめを書いていた。
本学会での6年/部会の2年を振り返れば、自身の問いが「協働・共同の学びCollaborative Learning」から「自己物語探究 Self-narrative Inquiry」へと移行/変容してきたことに気づかされます。部会でのカンファレンスを通して自己リフレクションが深まった故の必然と言うことも可能でしょう。それは又、私にとって葛藤の物語conflictive storiesを語り直す「アリーナ:闘技場」であった様にも感じます。
(中略)
本部会を参加者の声が多声楽的に交響する舞台(アリーナ)と捉え、互いに安心して「自己物語探究」を紡ぎ合うフィールドとして大切に育てたいと考えます。第7回大会では、本部会発の企画(課題研究・ラウンドテーブル)も予定されています。会員の皆様には、是非とも本部会の活動に関心を持って頂き、互いに「聴きあい・語りあうNarrative Conference」ことを通した「自己の振り返りSelf Reflection」を味わっていただきたいと強く願っています。
臨床教育学のキー・コンセプトである「自己物語self-narrative」について、私は2014年の紀要掲載論文2)執筆段階では「探究 Inquiry」という構えを採用していなかった。ただ、クランディニンらの「ナラティブ的探究 narrative inquiry(NI)」を参考にして自身のナラティブを「語り直す retelling」ことや「再叙述restorying」することへの関心から、自身の研究を「セルフ・ナラティブ・インクワイアリー」と呼ぶのはどうかという発想が生まれたのは、この論文執筆時である。
遡れば、本学会設立(2011.1.29)とほぼ時を同じくして、私は「セルフ・ライフヒストリー・アプローチ」と自称するメールマガジンでの連載3)を始め、その目的を「自己言及(セルフ・ナラティブ)に終わることを覚悟しつつ、『何故私はこの困難な時代に教師であり続けているのか』との実存的な問いに形を与えること」と「本来なら他者の力を借りて対話的に引き出されるであろう『観=思想』に『書くこと』を通して迫る」こととしていた。そこから、当時は「他者との対話を想定しない自己言及」を「セルフ・ナラティブ」と見做していたことが読み取れる。
上掲論文においては、「自己言及としてのセルフ・ナラティブ」という認識は克服されず、「自己の振り返りself reflection」のみに重きが置かれることとなった。いかにして「他者/外部との交通(柄谷行人「探究Ⅰ」)4)を、自身の自己物語論に位置づけるのか。庄井良信氏が学びを「社会参加による自己物語の構築」(「学びの共同性と生活指導」)5)と捉え、当事者と援助者の「双方向的な自己物語の再構築」(「ナラティブ・カンファレンス」)6)を志向していることに共感する者として、自身のリサーチ・クエスチョンを模索していた時期であったと感じる。
4-2 リサーチ・クエスチョンの成立
部会発足の前年(2014.7.16:第4回研究大会の直後)、小笠原はるの氏の発表(「聴く」という行為について考える)への応答として書いたメールの中で、私は小笠原氏が引用したベンヤミンの言葉「自己を語り出すことと他のすべてのものに呼びかけることとは同じ一つのこと」7)を、「セルフ・ナラティブとは、自己の内面に映し出される(リフレクション)、他者との協働・応答・感応である」と捉え直している。小笠原氏はそれに、「語られることは、隠蔽化と固着化の始まりでもあり、物語を求めるということは、どこかに着地点を求め、実体化、一般化することを免れ得ない」と応えて下さった。その続きを紡ぐ様に、2015年5月、「学校教育リフレクション部会」がスタートすることとなった。
本部会第1回(2015.5.10)に参加した時の「研究ノート46」(2009年3月に書き始め、2017年4月の第62冊から「Inquiry Notes」と改題:現在66冊目)を開くと、参加者それぞれが自身の当事者性を背景に、「臨床」「ケア」「(セルフ)ナラティブ:(自己)物語」「リフレクション」「カンファレンス」といったキーワードを巡って、それぞれの想い(情動を伴った思考)を聴きあい、語りあった跡が読み取れる。
ターニングポイントとなったのは、部会が発足した年の秋(2015年9月)、日本臨床教育学会と共催で行われた第5回研究大会の実践事例研究部門で発表を行った時である8)。発表では自身の「支えとするストーリー stories to live by」(クランディニン)9)を「自己物語」と同様のものとして扱い、自分自身のナラティブに対する分析にNIの方法や概念を援用しつつ自己省察を深め、自身のコア・ナラティブを明らかにしていく実践研究を「自己物語探究 Self-narrative Inquiry」と呼ぶことにした。文部科学省の研究協力校で研究担当を務めていたことから、理想と現実のギャップに深く悩んでいた時期でもあり、自身の当事者性を問い直し、語り直す機会でもあったため、強い葛藤の中で理論的に整理することが叶わないまま、消耗感だけが残る結果となった。
部会はその後も継続し、第11回の部会(2016.5.15)では、上記の葛藤事例について検討していただいた。仲間の先生に声をかけグラフィックレコーディングしてもらったおかげで、混乱と痛みの語りに終わらない深い内省がもたらされた。数年来味わってきた強烈な葛藤が、聴きとられることによって異化され、語ることを通して「生き直す reliving/narrative empowerment」ことが実現した様に感じる、得難い機会となった。
この時は上記のノートに加え、2006年に電子メールを始めて以来SNSなどで書いてきた言葉を集めた「セルフ・ナラティヴ・データベース」をフィールドテキストとして再叙述の素材とした。キーワード(この時は「ナラティブ」)で検索をかけると、折々に感じ、考え、表現してきた自身の思考の遍歴が時系列で物語化される。誰に対してどんな言葉で応答したのかが可視化され、自己物語に織り込まれた他者性を自覚するツールともなる。もちろんそれらは「ネット上の書き言葉 On-line ecriture」でしかないので、本来的には「語り」の範疇から外れるのかもしれない。しかし、やまだようこ氏(「多文化横断ナラティブ」)10)におけるナラティブの定義(広義のことばによって語る行為と語られたもの/経験を組織化し、出来事を有機的にむすびつける編集作業、意味づける行為)に照らせば、自己物語探究の対象に十分なりうるものだと考えている。
4-3 リサーチ・クエスチョンの深化
昨年の第7回大会(2017.7.16)では、本部会の提案が課題研究Ⅰとして位置づけられ、「日々の実践の中で『学校』を問う」と題し、「金魚鉢討論」という珍しいスタイルで、重層的なリフレクション・ワークショップが行われた。午後には自身の自由研究発表があり、参照した文献・資料を大量に並べて、それを眺めながら参加者の雰囲気を探りつつ、その場で紡がれる「物語」が即興的に自分からあふれ出すことに身を任せるスタイルで臨んだ。
20分以上語り続けた最後に庄井氏から、私にとって「自己物語とは『作品』なのではないか」という指摘をいただいた。その時は「でもエクリチュール(書くこと)は苦手で、元来ジャズ・ミュージシャン=インプロヴァイザー(即興演奏家)なんです」とのコア・ナラティブで応じたのだが、大会終了後、「とてもインスパイアされました。ジャズなのですね。エンゲストロームもJammingと言う比喩を使いますし…」と言って下さり、自分の研究の方向性が見えた様に感じた。奥様にも、マックス・リューティの「役に立ちそうもない人や物こそが、魔法の力を持った援助者・救済者である」11)という言葉を私の教師=発達援助専門職としての在り方に重ねて、励ましていただいた。
部会発足から二十数回に及ぶ語り合いを経て、私のリサーチ・クエスチョンは確固としたものに深化しつつある。今後も当事者性(木村敏氏の言うactuality)12)を失うことなく、現場研究者としてのアイデンティティをもって積極的に学会に参画し、それを臨床教育学の更なる発展につなげたいと考えている。
注
1) 笹木陽一「「自己物語探究」の舞台(アリーナ)としての学会/部会の意義」北海道臨床教育学会編『北海道の臨床教育学 第6号』所収(2017)pp.87-88
2) 笹木陽一「不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容-中学三年男子生徒の事例を通した「ナラティブ的探究」の試み-」北海道臨床教育学会編『北海道の臨床教育学 第3号』所収(2014)
3)笹木陽一『音楽・平和・学び合い(1)』
http://archive.mag2.com/0000027395/20110131001000000.html
中・高校教師用ニュースマガジン連載(2011)4)柄谷行人『探究Ⅰ』講談社(1986)特に「第1章他者とはなにか」を
参照のこと。
5)庄井良信「学びの共同性と生活指導」折出健二編『生活指導』所収
学文社(2008)6)庄井良信「ナラティブ・カンファレンス」課題研究Ⅴ 臨床教育学の
方法と概念、報告③『日本臨床教育学会第3回研究大会発表要旨集録』所収
(2013)7)W.ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」(1916/1989)
『ベンヤミンコレクションⅠ-近代の意味』所収 筑摩書房(1995)8)笹木陽一「インクルーシブな学びをめざす発達援助実践~中学校教員としての『自己物語の探究』を通して」『日本臨床教育学会第5回研究大会発表要旨集録』所収(2015)
9)D.ジーン・クランディニン他(田中昌弥訳)
『子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ-カナダの小学生が語る
ナラティブの世界』明石書店(2006/2011)
10)やまだようこ編『多文化横断ナラティブ-臨床支援と対話教育』
編集工房レイヴン(2013)11)M.リューティ『民間伝承と創作文学』法政大学出版局(2001)
12)木村敏『心の病理を考える』岩波書店(1994)
参考資料:内山節『文明の災禍』新潮新書(2011)
被災地NGO恊同センターHP http://ngo-kyodo.org/
〃 梅雨前線の影響による記録的大雨被害についてのレポート
http://ngo-kyodo.org/201807gou/荒木奈美・小笠原はるの・今田章子・笹木陽一・野原竜太
「臨床教育学におけるリフレクションとは何か
-学校教育リフレクション部会 3年間の経験を通して-」
北海道臨床教育学会編『北海道の臨床教育学 第7号』所収(2018.7.4)笹木陽一「自己物語探究の旅(2)」(2017)
http://archives.mag2.com/0000027395/20171225225020000.html
Y.エンゲストローム『拡張による学習: 活動理論からのアプローチ』
新曜社(1987/99)山住勝弘・Y.エンゲストローム他
『ノットワーキング―結び合う人間活動の創造へ』新曜社(2008)
庄井良信「フィンランドにおける発達援助学の現在」教育科学研究会編
『なぜフィンランドの子どもたちは「学力」が高いか』所収、
国土社(2005)
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