「三角関数より金融経済を学ぶべき」「古典は不要」
これまでのnoteの加筆修正中なので、アクチュアルな事象についてだが、一度書いているから、改めて書き直すことにする。
「三角関数より金融経済を学ぶべき」
という話がTwitterで話題となった。
なるほど三角関数は実生活でほとんど使わないから、それなら直接役に立つ金融経済を学ぶのに時間を割いた方がいいというわけだ。
一見理にかなっているように見えるかもしれないが、
僕には、無駄に終わりそう思えてならない。
というのも、学び方が変わらないかぎり、金融経済を学んでも三角関数を学ぶこと同じ末路を歩み、
金融経済もまた、何か他のものに淘汰されるだろうからだ。
教育という言葉が「教えて育てる」という教える側の言葉であるかぎり、僕らはいつまでも自立しない。
「教わって育つ」とならないかぎり、抑圧やらやった振りやらになりやすい。
自律して自立しないかぎり、知識はあれど「つかえない」人間になる。
少し話は変わってしまうけれど、度々話題になる「古典不要論」についても同様であると思う。
古典なんか使わないから学んでも意味がない。
確かに仕事をする上では古典の知識を要求されることなど滅多にないであろう。
けれども、もののあはれを知らない日本人とは一体何者なのだろうか?
日本人をして日本人たらしめる美意識、価値観は「もののあはれ」に大きく影響を受けている。
それを知ろうとしない者をはたして日本人と言っても良いのだろうか。
別に専門的に理解しなければならないというわけでは決してない。
ただ、全く知らないというのは寂しい話ではないだろうか。
以上、三角関数より金融経済、古典不要についてつらつらと書いてきたが、そもそもこうした話題を耳にする度に共通して思うことがある。
人生は仕事だけじゃあないんだよ
有用性のみがそのものの価値をきめるんじゃあない
「使える」ものこそ素晴らしいなんてのは管理者の視点で、管理者の陰謀だよ。
社会で使えるものだけ、実学だけに学ぶ価値があるなんてのがまかりとおったならば、
古典に限らず、音楽やら美術、文学さへも価値がないことになってしまう。
世間で教養と呼ばれるものの大半が不要になってしまう。
でも考えてみてほしい。
芸術を知らない人間がいかに空虚であるかを。
僕はそんな空っぽな人間にはなりたくない。
けれども、金融経済を学べ、古典は不要なんてのが話題になるんだから、
世の中には僕たちに生産性のみを追求して馬車馬のように仕事をしてほしいと思っている人たちがいるのかもしれない。
空虚で、いくらでも替えのきく、生産性に囚われた奴隷を欲してる奴がいるのかもしれない。
あぁ、そう考えると息がしづらい世の中だな。