公衆道徳に頼るのではなく、アーキテクチャや市場によって社会が動いていく未来 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.822
特集 公衆道徳に頼るのではなく、アーキテクチャや市場によって社会が動いていく未来〜〜〜50年後の未来を想像するためのレッスン(5)
国土交通省はしばらく前から「ウォーカブルシティ(歩ける街)」という新しい都市のありかたを提唱しています。歩くことが健康につながり、高齢化社会における医療費削減の一助となるという期待もあります。しかし現実には、歩かない生活が以前よりも増えている印象が私にはあります。
前号でも述べたように、地方生活では「歩かない」は顕著です。クルマが日常の足になりすぎてしまって、コンビニに行くのもクルマ、ゴミ出しに行くのもクルマです。まあコンビニもゴミ収集場所も家から遠いと言うこともあるのですが、それにしても歩きません。これは地方生活の健康における重大なネガティブ要因になっています。
新型コロナ禍で、都市でも歩かない生活ができるようになりました。リモートワークなら自宅から一歩も出ずに仕事が満了してしまうからです。くわえてUberEatsのような食事の宅配サービスの充実、そしてこれは以前からですがAmazonなどのECが津々浦々に普及し、たいていのモノは翌日までに配達されます。映画館に足を運ばなくても、NetflixやAmazon Prime Videoなどの各種の動画サブスクサービスが充実していて、一生かかっても見切れない量の映画やドラマが自宅で楽しめます。これで運動不足にならないわけがありません。
そして近い将来には自動運転が普及することも期待されています。これはとても喜ばしいことなのですが、地下鉄やバスぐらいの料金で無人タクシーが使えるようになったら、運動不足も同時に進んでいくのは間違いないでしょう。「昔は地下鉄の駅までけっこう歩くのが当たり前でね……」と2050年のおじいちゃんは孫に昔話をしているかもしれません。
しかしこれからの超高齢化社会をとどこおりなく迎えるためには、できるだけ多くの人に健康な生活を維持してもらうことが必ず必要です。安価な無人タクシーが普及したとしても、なんとかして歩く習慣を維持してもらうしかないのです。
その方法のひとつとして、ウォーカブルシティに都市の設計を変更していくということがあります。先ほども書いたように現在の地方都市はコンビニやゴミ出しまでもがクルマに依存していますが、このような近距離移動はなるべく歩き、中長距離だけを無人タクシーに依存するという環境を意図的に作るというものです。
これはアーキテクチャ(構造)による人の行動の誘導です。人の行動を変えるものには、法律・規範・市場・アーキテクチャの四つがあるというのは、米国の法学者ローレンス・レッシグが2000年の著書「CODE インターネットの合法・違法・プライバシー」(山形浩生訳、翔泳社、邦訳は2001年)で解説して有名になりました。
たとえば煙草の習慣をやめさせるためには、以下の四つが考えられます。禁煙法を制定するという法律に基づいた方法。「煙草はあなたの健康を害します」と呼びかける規範に基づいた方法。煙草を一本1000円に値上げして買うのをためらう金額にするという市場に基づいた方法。そして煙草を吸うととたんに気持ちが悪くなる化学物質を含有させるというアーキテクチャに基づいた構造的な方法。
四つ目のアーキテクチャ的な解決が、もっとも合理的で人を誘導しやすいというのは、行動経済学のナッジなどでも指摘されていることですね。このような方法で「住民が歩くように仕向ける街」というのをつくれるでしょうか。
実はこのような歩きやすい都市、さらには「歩くことでしか生活できない都市」をつくるというアーキテクチャ的な試みは、すでに米国で実践されています。アリゾナ州の大都市フェニックスの近くにできたカルデサック・テンペという新しい街がそうです。すでに建設が完了し、昨年秋から実際に住民の入居が始まっています。この実験的な都市は、「自動車のない街」というコンセプトを掲げています。
カルデサック・テンペの広さは6万8千平方メートルで、東京ドームの1.5倍程度。ひとつの街としてはかなりコンパクトと言えるでしょう。約1億4千万円の予算が投入され、1000人が入居できる住宅街区やレストラン、市場、食料品店、スポーツジムなどが建設されました。ワンベッドルームの住宅は、家賃が月額1400ドル(約21万5千円)といいます。
この街の構造で最も特筆すべきポイントは、車道がないことです。建物と建物のあいだの空間は広い中庭と細い路地だけで埋められていて、クルマが進入できないのです。通行できるのは徒歩と自転車のみ。街区の外側にだけ駐車場があり、カルデサック・テンペから外に出かける時だけにクルマを利用するという形になっています。これによって人々は街に滞在している間はクルマに乗ることはできず、歩かざるをえないのです。
「歩きやすい街」というのは冒頭に書いたように、国土交通省が2019年に「ウォーカブルなまちづくり」を提唱し、ポータルサイトまで作っているほどです。ウォーカブルの定義として同省が説明しているのは、商店や飲食店、駅、住宅などが混在していること。ひとつひとつの街区がコンパクトで歩道なども整備され、歩きやすいこと。気持ちの良い美しい景色があること。交通事故や犯罪に遭いにくい土地柄であること。
これらの定義はその通りなのですが、ではウォーカブルシティに人が住むようにするにはどうすればいいのかというところまでは国土交通省の発想は進んでいません。先ほどのレッシングの解説で言えば、「歩きやすい街に住みましょう」という「規範」で終わってしまっているのが残念です。
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