#151 パリオリンピックと職業病
昨日でパリオリンピックが無事閉幕しましたね。みなさんは、どんな気持ちでご覧になりましたか? 今日は、パリオリンピックとかけて職業病と解き、その心について書きたいと思います。
花の例えで考えてみる
映画やテレビの撮影のために、人や動物の命が損なわれることはどうしても避けるべきですが、植物はどうでしょうか? 植物ならまだ……と思う人もいるかもしれません。では、次のようなシーンを想像してみてください。何らかの演出のために、多くの花がなぎ倒され、人や車に踏みつけられ、死んでいく……動物ではなくても、いい気持ちはしない人が多いと思います。ここで、映画やテレビの監督が次のように言ったら、どう思いますか?
とんでもない! 花だって命だ、安いからいいというものではない。と思う人が多数なのではないでしょうか。実際には、花屋さんで売れずに数日おいておけば、花は自然にしおれて、早ければ一週間後には寿命を迎えます。そのことは分かっていても、たった数日命が終わりを迎えるのが早くなるだけ、とはいっても、映画やテレビの撮影のために花がつぶされていくのは、やはり見たくないですよね。
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例えではなく実際の話しで
ここで本題に入ります。僕は教師を辞めた後14年間、楽器あるいは音楽制作に用いる、つまりは「音楽を生み出す道具」に関わる仕事をしていました。つまり、演奏よりも道具に近いところにいました。どうしても、その仕事に偏った物の見方(=職業病的な観点)になってしまいます。
僕の属するコミュニティの多くの人にとって、パリオリンピック開会式はトラウマになる出来事でした。多くの楽器が雨ざらしにされたのです。開会式当日、Facebook の友達からは次々と、「あの楽器たちはどうなる?」「楽器は無事なのか?」という投稿が入ってきました。
後日の報道で、雨の中でオーケストラが使用した楽器は、「教育用の安い楽器」であったことが分かりました。さらに、演奏は事前に収録したものを流し、オーケストラは演奏したものの、事実上「生演奏の雰囲気を出す」ための演出で、そのために「教育用の楽器」が多数雨ざらしにされたことが分かりました。
楽器を雨に濡らすとどうなるの?
楽器を雨に濡らすとどうなるのか、元楽器屋が少し説明します。
ほぼ全体が金属製の、トランペットやトロンボーンなどの金管楽器は、ダメージは最小です。しかし実際には、バルブやロータリーなど「金属+金属」の接合をオイルで潤滑させている部分は、すぐに真水で洗浄後分解して水分を取り除かないと、錆びます。「雨に濡れたから拭けばいい」ではなく、すぐに分解して完全に乾燥させ、注油しないと楽器として使えなくなります。
同じ金属製の楽器でも、木管楽器であるフルートは、事態が深刻です(私はフルートメーカーで働いていました)。管体やキーは金属製ですが、キーが管の穴を塞ぐ部分「タンポ」(あるいは「パッド」)は水を吸います。あのレベルの雨なら、数分さらせば、「タンポ全交換+フェルト全交換+コルク一部交換+全分解および注油」の大規模修理が必要です。費用は最低でも5万円〜10万円、作業期間は1ヶ月はかかります。修理後、タンポが馴染むまでにしばらくかかるので、元と同じように演奏できるまでには、数ヶ月はかかるはずです。
次に、本体が木材でできている、クラリネット、オーボエ、ファゴットなどの木管楽器は、さらに事態が深刻です。水分を吸うと多少ですが木部が膨張する可能性があり、急速な乾燥は狂いの元です。木管楽器の管体が変形すると音程が狂います。特に楽器が若いほど(=新しい楽器ほど)敏感です。フルートと同じくタンポ全交換が必要で、元と同じように演奏できるようにはならない可能性が高いです。音の違いは、聴衆には分かりづらいかもしれません。しかし演奏者本人は、「自分の楽器から、自分の音が出なくなってしまった」ことに、すぐ気づきます。
最後に、本当は書きたくないですが、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器です。これは、事態が深刻というよりも、あきらめに近い状態です。弦楽器のボディは家具のようにネジやボルトで止まっているわけではなく、振動を妨げないような素材の接着剤でつけているだけです。水を吸って膨張・収縮する率は木管楽器より高いので(使われている木材の密度が低いため)、濡らしてしまうと、基本的には元の音には戻りません。これは、高い楽器でも安い楽器でも同じです。
極端な例も、一応説明します
あの場にはこれから書くような種類の楽器はなかったわけですが、一応書いておきます。弦楽器で、例えばイタリア・クレモナ地方の古い楽器などは、法的には現在のオーナーがお金を払って買い、所有していても、文化的には次の世代へ受け継いでいく遺産です。たとえ現所有者が、「私は大切なオリンピックの演奏のためなら、楽器を犠牲にしてもいい」と思ったとしても、それは「人類の文化遺産」の観点からは認められません。その演奏家が亡くなった後も、数百年にわたって、次の所有者が素晴らしい音を出せる楽器なのです。そんな楽器も、雨に濡らせば数分でその命が終わります。
大好きなヴァイオリニストの千住真理子さんは、1716年製ストラディバリウス・デュランティを所有、演奏なさっています(値段は意外と安く、約3億円だったとのことです)。自宅での保管時は湿度管理がなされているそうで、千住さんが購入なさった時には条件がついていたと記憶しています。それは、「博物館などに収蔵せず、演奏活動に使用すること」でした。その楽器は制作当時ローマ教皇クレメンス14世に献上された歴史的楽器なので、人類の遺産として、ちゃんと価値を守り、広められる人にしか売らない、ということだったのです。
もちろん、ストラディバリウスは先の開会式で雨に濡れた楽器とは全く話が異なります。ですが、冒頭の花の例で書いたように、「3億円の楽器も、3万円の楽器も、楽器屋にとっては音楽の命」です。そしてそれらの楽器は木材から作られているので、植物の命そのものです。安い花だからといって撮影用に無駄にしていいわけではないように、安い楽器だからといって、「演出用に」無駄にしていいというものではありません。
その3万円の楽器があれば、子どもが一人、音楽を学ぶことができます。どうしてもあの演出が必要なら、雨に備えて透明なプラスチックあるいはガラスの屋根を設置すべきでした。次の日に廃棄予定だった楽器だったとしても、あの風景は、音楽および楽器愛好家の心を強く傷つけました。
パリオリンピックの思い出
パリオリンピックは、開幕一ヶ月前にちょうど仕事でパリにいたという、記念すべき大会でした。でも、おそらく僕だけではなく、雨が回復不可能な影響を与えうる楽器群、つまり木管楽器、弦楽器、打楽器、そしてピアノの奏者とそれらを扱う楽器関連の人にとっては、悪夢以外の何物でもなかったと思います。正直言って、すでに頭の中に、「パリオリンピック=楽器の命が軽視された大会」の図式が出来上がってしまっていて、思い出したくないイベントになってしまいました。
オリンピックは昨日閉幕しました。開会式を見た直後にこの記事を書こうと思ったのですが、一応閉幕まで待ちました。同じ思いの楽器関係者のみなさんがたくさんいらっしゃると思います。おそらくフランスでは、あの楽器たちをすぐに処分すると批判されるので、推測ですが、楽器修理の職人さんたちは今頃大忙しなのではないでしょうか? 修理店に入ったお金が少しでも職人さんたちの(苦しいと予想される)生活を潤してくれることを祈るばかりです。
今日もお読みくださって、ありがとうございました😢
(2024年8月12日)