地獄のシスターフッド 序文
いつの頃からだろうか、シスターフッドという言葉をよく見聞きするようになったのは。#MeToo運動の流れを受けて、あるいは2021年の東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗氏の女性蔑視発言を受けて、あるいは小田急線での女子大生刺傷事件を受けて、“私たち”は連帯の必要性を感じさせられてきた。しかしながら、自分のごく身近な感覚に引きつけて考えたとき、同じ属性であるというだけで連帯できるのだろうか、という素朴な疑問が湧いてくる。たとえば、結婚している人と結婚していない人、出産した人と出産していない人、性的に奔放な人と性の実践が苦手な人、容姿端麗な人とそうではない人、自律心が強い人と依存性が高い人、同じ人を好きになった恋敵など、思想や趣味嗜好の違い、利害の不一致による対立はごまんとある。自分と同じ属性にありながら、違う生き方をしている人と手を取り合うことはおろか、ときに強い嫉妬や憎しみを覚えることもある。少なくとも、私にはそういう節がある。そして、そういう人はおそらく、私だけではないと信じている。自分自身の感情や欲望を一旦切り離して、清らかさ、あるいは正しさの名のもとに手を取り合うことなんてできない。しかし、対立とは誰が引き起こしているものなのだろうか。そもそも対立は存在するのだろうか。属性に固執すること自体が問題なのではなかろうか。こうした問いへの答えを導き出そうとするとき、理想の旗のもとに善意を持ち寄って集まるだけでは、おそらく核にまでは届かない。嫉妬や憎しみといったネガティブな感情や人それぞれ異なる欲望がある以上そこから始めるしかないと私は思う。“対立”を引き起こす“壁”があるなら、その抜け道のヒントも壁にあるはずだから。私はこの醜く、苛烈で、まっすぐな試みを、清く正しいシスターフッドに対して「地獄のシスターフッド」と呼びたい。〈私〉によく似た、しかし相反する部分も併せ持つ宿敵と殴り合い、抱き合ってからが本番だ。
バナー画像 増田ぴろよ
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2年以上あたためていた企画がようやく光のもとで孵化しました。これから不定期で(勝手に)連載をしていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
佐々木ののか