楠本奇蹄「いつかささやく」
潜伏キリシタンの農民の生活、その中での身近な人との別れを詠んだ連作として読んだ。自分はずいぶん前に絵踏という季語に惹かれて隠れキリシタンについて調べた時期があり、オラショ(祈りの言葉)・パライソ(天国)・アニマ(魂)・ロザリオといった言葉はなつかしい。これいい連作だけど用語の解説なしではきびしいのでは、という危機感を感じてここに書き残しておく。
焼野原くわんのんの手はこゑを灯し
聖母マリアは、キリシタンが弾圧されるようになると観音像に擬せられるようになった(マリア観音)。2句目のおらしよは祈りの言葉であり、ささやくうちに口中が光で満たされていくよう。1・2句目で農民の生活の苦しさ、信仰がそのなかで希望となっていく様子が描かれる。
3・4句目は、女性の抑圧について描かれているのではないかという気がした。
春泥で拵えるなら笑ふえわ
えわ、はイブ、のこと。イブはつまり女性の喩で、春泥で拵えるなら笑う、ということは現実では笑うことができないということでもある。
5句目の「彼岸潮」で誰かがおそらくは海で、または別の場所で、亡くなって帰ってくる。
それで7句目で聖句を諳んじているのではないかとおもう。
9・10句目、ぱらいそ(天国)と空とは異なるものであり、その見えない境をひらひらと飛んでいく蝶が目に浮かぶ。ぱらいそは拡大していき、水にも至る。そして菫と一緒に埋められた魂は水にもどってゆく。
鶴帰るいつかささやくその名へと
この句とその二つ前の菫の句がとても好きで、魂を菫と埋めると水に戻ってゆく、鶴やひとの魂が死ぬ前に願ったところに循環するように帰っていくこと。連作前半のやや土俗的な雰囲気に比べて、後半になるにつれて軽く軽くなっていくところも読みごたえがあり、良き連作だと思う。