好きな山にのぼる(各自で)
句を上手かどうか、で測りたくない。うまくない句というものがあるとしても切り捨てたくない。評はもちろん誠実にするし、素晴らしいものには驚嘆する。でも自分の目にひっかからなかったものがあっても、それを取るに足らないものとして扱いたくない気持ちがある。
たとえば短歌の最先端を行っている若い人たちの間では、新聞投稿短歌を自分たちのやっている短歌とは別のものとしてくくる向きがあるように見受けるが、自分はそういうのを見ると、良し悪しではなくてけっこうどきっとしてしまう。そこで何かを取りこぼしているような気がしてしまう。
それはBL俳句から入ったことと関係がある。BL俳句として萌えることは、その俳句が句としてできているかとか、上手かどうか、他人を感心させるかどうかとはあまり関連がない。別のものさしなのだ。自分はそういう複数のものさしを、自分の句が変わっていっても持っていたい。
より前衛的なもの、今までにない新たな挑戦があるものはもちろん素晴らしい。しかしそうではない個人の達成、研ぎ澄ましているものも見たいし、別にそういう気持ちでなくのびのび気儘に作られているものも見たいのだ。あと単にいとおしいと感じるものとか。
でもFor meとNot for meな句を分けるだけではなく、技術として優れていること、研ぎ澄まされた熱意、新たな発見や挑戦をきちんと認識したい。そのほうが豊かに読める気がするので。
俳句ですごいなあと思うのは、特に偉い先生ではなく、名が売れているわけではない人が生涯一冊だけ出した句集に、すごく良い!と思う句があったりする。
そんな良い句ならとっくに誰かに知られて有名になってるやろと思うやん?あるんですよこれが、ぜんぜん知られてなくて、知るとおおっと思う良い句が。もう作者はこの世にいないけど、句集出しておいてくれてよかった。ありがとう。
できるなら句会を一緒にしている方たちがやっているみたいに、
その句を生かすようにより深く、よりよくなるように読めたら一番いいんだけど。
それにはまだまだ修行が足りないみたい。そこは今後もがんばりたい。