トライ・アンド・エラー

  昼下がりに兄と一緒に散歩していた。

 すると、視界の端に、トラックに轢かれそうな少女が見えた。

 ――見えたので、おもいっきり少女を突き飛ばし、トラックの間に滑り込む。

 自分の体が、大きな衝撃とともに吹き飛ばされるのを感じ取った。

 中空に放り出された僕の視界には、真っ青なパーカーを着た兄が、悲鳴を上げるのが見えていた。

 まぁ、どうでもいいことだ。

 どうせいつもの、ことなのだから。


 ――激痛と衝撃の中、パチン、と何かが切り替わる、音がした。 


 ……ごうごうと降りしきる、雨の音に目を開ける。

 青いソファと、雨粒で彩られたガラスの天井が視界に入ってきた。

 起きたての所為か、酷く胸がむかむかする。

 ゆっくりと、自分の鎖骨のくぼみから、胸の中心までに左手を滑らせた。

 暗い紫のパーカーが、真っ赤に染まっている。

 じっとりと濡れそぼった服は出血の多さを物語っていた。

 四肢を動かそうとすると、ひどい激痛が走る。手足に目を落とせば、左足と右手が凄まじい折れ曲がりようで、ねじり雨みたいなできになっている。凄まじい。現代アートも真っ青だ。こんなアートみたくないけど。

 まぁ、いつもにくらべたらマシな方かもしれない。10トントラックにぶつかって、これだけ原型が有るのだし。

 そう思ったあたりで、しゃらん、と金属の触れ合う涼しげな音が響いた。

 「――おはよう、ファースト。もう昼だけどね。」

 

 艶のある甘い声が耳に届いて、変な方向に走っていた思考が集約し、明瞭な思考が戻ってくる。

 ずっしりと重たい体を、ソファにすがりつくようにして起きあがらせる。

 「……あんたか、ゴースト」

 腕を中空にあげる。ぐいっと背筋を伸ばして、大きく欠伸をした。

 ばきょ、と奇妙な音がして、ねじれた手足が関節はまる。

 激痛で目がチカチカするが、まぁ慣れた。

 眠気がきれいに飛んでいく。

 瞬きをに二、三度してから、ゴースト、と呼んだ相手を見据えた。

 自分が座るソファと向い合せに置いてある、飴色の揺り椅子。

 そこに腰掛ける、この世のものではないような、黒髪の少女。

 皮肉気な笑みと退廃的な色気を纏う、屍のような少女と会うのがこれで何度目になるのかは、もう数えるのをやめてしまった。

 五十をとうに過ぎ越したのは確かだけれど。

 「お早い再会ね。最近死にすぎじゃないかしら。」

 皮肉気な声が、率直に説教を突っ込んでくる。

 耳に痛い。

 「死にたくて死んでるわけじゃないんだけどね」

 「自分でトラックに突っ込んでいってるのに?」

 首をすくめて、遠慮がちに主張すると、正論でぶった切られた。

 辛い。そしてひどい。

 「ま、最近じゃ悲鳴も上げずにこの部屋に来れるようになったのは成長かしら。」

 皮肉気にわらったゴーストは、揺り椅子の隣に置かれたサイドテーブルから白磁のティーポットを取り上げて、真っ青なお茶をカップに注ぐ。

 フレッシュミントを加えた、マロウブルーティー。

 美しい青色のお茶。

 彼女はいつも、僕が死んだときにはこれを出す。

 「どうも。……っ!!」

 差し出されたそれを受け取って、一口飲む。

 温かい液体は、けれど唇にしみた。

 どうやら噛み切っていたようだ。

 トラックに轢かれたときに、悲鳴を堪えようとしてかみちぎったのを思い出す。

 体中に残る、死ぬときの派手な痛みより、日常的な、唇をきる痛みのほうが、なんだかはっきり感じ取れるのは、不思議なものだ。

「唇、切ったの?」

「ん、そうみたいだ。……しかし、相変わらず、外だか中だかわかんない造りだね、ここ。」

 楽しそうにこちらを覗き込んで、したたかに切れた唇をむにん、と引っ張ろうとするゴーストをいなして、あたりを見回した。

 いつ来ても変わらない、不思議な部屋。

 すべてが透明なガラスで作られた、非現実的な気分に陥るこの部屋の周囲は、見渡す限り青く輝く水面だけが広がっている。

 空も同じで、雲どころか星ひとつ無く、何も遮られない、銀色の満月が、水面をきらきらと照らしている。

 大きな湖の中の、ガラスの浮島。或いは、湿地帯の真ん中に建てられた温室。利便性も現実味も根こそぎない、空想絵画のような情景。

 見渡す限りに広がる水面には、真っ白な睡蓮が華やかに咲き誇っているから、海ではないのだろう、とは思う。それ以外はさっぱりだ。

 天国みたいな情景は、ゴースト曰く、僕の精神世界の、一番まともな場所の再現らしい。

 僕の心の中に、どうしてこんな場所があるのか見当もつかないが、それを気にしても仕方ない。重要なのは、此処がこの世でもあの世でもない、ってことなのだ。

「「中継地点(ミッドポイント)」なんて大体そんなものよ。この世でもあの世でもない場所なんだから、ちょうどいいぐらいじゃないかしら。」

「そんなもんかな。しかし、呼び方に色気がないよね。もう少し、それらしい名前があってもよさそうなものだけど。」

 率直なゴーストの言葉に、ため息をついた。中継地、という言葉の通り、何もかもが非現実的なこの部屋は、いわゆるあの世とか黄泉の国のの一歩手前に当たる場所である。三途の川、というやつか。

 ここから生きた人間の世界に帰るには、死者の水先案内人である彼女の助けがいる。

 それがなければ、普通にぽっくり死んで、死者の世界の仲間入りしてしまうのだ。

 いわば彼女は、僕の生殺与奪の権利を握る存在だ。

「名前なんて重要じゃないのよ。大事なのはアンタが死ぬか生きるか、ってことなの。朝ごはんに喫茶店かコンビニかってぐらい重大なんだから」

「僕の命って、喫茶店かコンビニみたいな扱いなんだ……」

「あんたの苦痛は、アタシにとっては嗜好品だもの。我慢できないわけじゃないわ」

 そう言ってケラケラ笑った彼女は、僕の死ぬときの苦痛の記憶を食べるのが気に入っているらしい。

 僕が死んでなお生かされているのはおもにそのせいだ。記憶がどんな味かは過分にしてしらないが、僕は美味しい部類であるらしい。

「それで、どうする?このまま死んじゃう?」

「まさか」

 けらけらと笑って見せると、そう、といいはなったゴーストは、揺り椅子から立ち上がって、僕の真正面に立った。猫みたいな笑顔の彼女は、こてん、と首を傾げて、忠告する。

「でもね、砂でお城を作るみたいなマネ、さっさとやめた方が身のためよ。」

「知ってるよ。でもそれで諦めていいことにはならないもの。……兄さんは怒ってるかな」

 ゴーストの声は皮肉気で、口はねこみたいに吊り上がっている。面白いおもちゃか、テレビでも見るような気軽さで、彼女は僕の不幸を楽しんでいる。

「当たり前じゃない。あんたのお兄ちゃん、優しいもの。」

「優しさが残酷な時もあるよ。」

 穏やかに切り返すと、彼女は少し驚いたような顔をする。

「恨んでるの?」

「まさか。でも、優しさに耐えられないやつもいる。臆病者は、特に」

 静かに答えて、目をつぶる。

 真っ赤に重吹いた血。

 こちらをかばった真っ青なパーカー。

 自己満足で死んだ、馬鹿な人の、やわらかい笑み。

「やめといた方がいいわよ。……お兄さん、生き返らせるの」

 珍しく、何の温度も、皮肉げでもない声が響く。

「……それはできないかな。諦められないから」

 穏やかに言えば、彼女は馬鹿な子、と小馬鹿にするように笑った。

 死んだ兄を生き返らせるなら、その対価に、死を定められた誰かのかわりに、千と一回、死んで死んで死に続け、狂ってはならない、と云われた。

 そんな条件をすぐさま飲んでしまった僕は、彼女にとっては楽しいおもちゃで、美味しい食事。それでも、この食いしん坊な死神は、僕の救い主に等しい。

 血で濡れそぼったパーカーの胸を、ゴーストの白くて華奢な指がなぞり、強い激痛が胸元に走る。ゴーストの腕が、僕の胸を貫いていた。

 ブチン、と何かがもぎ取られるような音。僕の胸から引き抜かれたゴーストの拳が、ゆっくり開かれた。

 そこには、真っ赤な血液でぬるつく、真っ白い飴玉みたいな、僕の苦痛の記憶が転がっている。

 がり、がり、がり。

 ゴーストが、飴玉みたいな記憶を口に放り込み、咀嚼していくたび、それに合わせるように、僕の体が少しずつ、何の怪我もない体に戻っていく。いつやっても、ふしぎなものだ。

「美味しい。やっぱりあんたは格別よ、ファースト。――ねぇ、大好きなお兄ちゃんと、ずっと一緒にいられるように、頑張ってね?あたし、あんたの記憶、結構好きだから。」

 そうだね、と僕は笑う。

 死神だか悪魔だかわからない、食いしん坊で皮肉げな彼女に向けて。

「バァイ、ファースト。神様のご加護が有りますように」

「またね、ゴースト」

 僕の体の傷がなおっていくのにあわせるように、視界は白んでいく。

 ――次は、もうちょっと間を置きたいな、なんて少し思う。

 痛いのが好きなわけじゃ、ないから。

 

 

 ごうん、と盛大な音がして、背後をトラックが走り抜けた。

 戻ってきたのだ、と実感する。

 めをぱちくりさせると、僕に突き飛ばされた女の子が、真っ青な顔で震えていた。

 大丈夫?と聞けば、彼女は泣きそうな顔でこくこくブンブンと頭を振った。

 これにこりたら歩きスマホはやめたほうがいいと思う。わりと。マジで。

 

 やれやれ、と溜息をつく。

 誰かが、僕の名前を呼んだ。

 ふりかえると、横断歩道を駆け抜けて、僕に飛びつこうとする、泣きそうな顔の兄が見えた。

 ――ああ、どうやら今日は、とっくりと怒られそうだな、なんて。

 そんなことを思った、日曜日だった。

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