掌編小説255(お題:辛気臭い蜃気楼を吐いています)
ボタンをきちんと留めていてもスーツの裾がパタパタたなびく。船首の先に広がる大海をぼんやりながめていると、背中で人の気配がして、僕はふりかえった。新木さんだった。さっきまで船酔いでめそめそしていたくせに、腕を組んで、なぜか偉そうなこの仁王立ちである。
「増尾っているじゃん」と、調子をとり戻した新木さんは言った。
「第一種交渉人の」
「そう、あのデジボーイ」
知っているけど面識はない。というか、面識のある人間のほうが少ないんじゃないかと思う。増尾さんには実体がなかった。たしか、第一種交渉人になるとき同時に人間であることを辞め、今は、交渉時以外基本的には組織のコンピュータにデータとして収まっているという話だ。晴れて第一種交渉人になってから一年近く経つけれど、未だに、なにを言っているのかわからなかった。
「増尾さんがどうかしましたか」
「あいつさ、こないだまた言いやがったよ。『ところで、新木はなんで第一種にいるの?』って。失礼しちゃうよね! ほんっと、まじでむかつくあの無神経クソデジボーイ」
そういえば、増尾さんは同期なのだといつかの雑談で聞いたような気がする。新木さんは自他ともに認める真性の機械音痴なので、僕が下につくまでパソコンで作業をしなければならないときは増尾さんに雑用を任せていたとか。他部署にも関わらず。増尾さんのいるフォルダには途方もなく厳重なロックがかかっていて僕たちのような平社員は簡単に触れないしそもそも絶対に触ってはいけないはずなのだけれど、この人はそのことを、はたして知っているのだろうか。
「悪口じゃないと思いますけどね」
仮に悪口であっても増尾さんに同意だけれど、眼前の海が穏やかなので、たまには親切に教えてやることにした。
「増尾さんはたぶんこう言いたかったんだと思います。蜃は大きなハマグリのはずだけど、なぜ蜃気楼に対する交渉が人間を相手にする第一種の管轄なのかって」
新木さんは目をしばたたかせている。ピンときていないようだ。この人、本当になんで第一種交渉人なんてやっているのだろう。
「研修でやりましたよね?」
「研修とか、あたしほとんど寝てたから!」
自慢するな。
「たしかに、増尾さんの言うとおり蜃気楼というのは蜃――大きなハマグリが吐く息によって楼が形づくられる様子が語源になっています。そのためこのチームも昔は第三種に括られていたんですが、日本国内に生息していた蜃は現在絶滅が確認されていて、今蜃気楼を発生させているのは海に沈んだ人間なんです。だから二十年ほど前に第一種へ部署が移った、って話でしたね。僕が研修のとき聞いた説明だと」
「うそ、あれ中身人間なの……?」
「厳密には、なんだろ、人間でいることを辞めて海の底で貝の中に閉じこもった元人間とでもいうんですかね。そっか、増尾さんにちょっと似てますね」
「ちょっとなに言ってるかわからない」
「いや、だから研修で習うはずですけど。『殻に閉じこもる』というのは、本当に自分を殻で覆ってしまう物理的なケースも稀にあるって。こうなると彼らはもう海の底でしか生きていくことができません。けど、アイランドフィーバーっていうんでしたっけ? 長く窮屈な殻に閉じこもっているとだんだん苦しくとも自由だった人間としての日常が猛烈に恋しくなる。それを夢想するときの光景が、蜃気楼になるんです」
太い声に呼ばれる。船を操縦する地元の漁師だった。まもなく僕たちが指定したポイントに到着するという。むこうで待機していたダイバーたちに支度を促し、船上はやにわにあわただしくなった。新木さんは未だ船首の先にある海面を見つめている。百五十三センチだという小柄な身体。それには不似合いなグレーのレディーススーツ。足元のふらつく船上では、このちぐはぐな光景も自然なように見えて。
「隣の芝は青いってやつね。……ここ、海だけど」
新木さんは笑った。なにがおもしろいのか全然わからない。まぁ、元気になったのならよかった。新木さんはこうでないと困る。あのときもっとこうしておけばよかった。ダイバーによって一時的に船へ引きあげられてなお後悔に溺れつづける人々に優しい嘘をつくのが僕たちの仕事だ。あなたは気づいていないかもしれませんが、本当はあのとき世界はこんなからくりだったのですよ。嘘を信じこませるには技量もいるし根気もいる。けれど嘘を受けいれてそれをくりかえし夢想する人間が生みだした蜃気楼は息を呑むほどに美しかった。新木さんは今日、第一種交渉人の中でももっとも美しい蜃気楼を吐きださせる逸材として、蜃気楼の名所だというこの町に呼ばれている。
「あたしたち生きものはさ、みんな、今しか生きることができないんだから。過去でも未来でもない幻を無邪気に思い描いているほうがよっぽど健全なんじゃないかってあたしは思う」
船が止まり、新木さんの目の色が変わった。
彼女を越える美しい幻想への導き手に、僕も、いつかはならなければならない。