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掌編小説136(お題:理科準備室に住みます)

「増田君だね?」

民家の前に植わったアジサイの青や紫を眺めていたら、声がかかった。右にふりむく。壮年後期の男性が立っていた。髪は薄くなってきているが、背筋がピンと伸びていて、六月の曇天に水色のポロシャツと生成色のコットンパンツがさわやかだ。おじさんというものに対する理想と現実のバランスが絶妙で、率直な感想は「近所にいそう」だった。

「今回、きみを指導することになっている住野です。よろしく」

僕の品定めするような視線を咎めず、住野さんは温和な笑顔を浮かべ握手を求めた。よろしくおねがいします、とその手を握り返す。あたたかい。三年前に急逝した祖母を思いだして、少し、泣きそうになる。

「さて、それじゃあさっそく現場にむかおうか」

住野さんは颯爽と眼前の校門をくぐり、いよいよ、僕は縁もゆかりもない都市の見ず知らずの中学校へ足を踏み入れた。土曜日。午後二時。音楽室から吹奏楽部の演奏が聞こえる。体育館からは、どこかの運動部がシューズを鳴らす小気味よい音。

「来賓用玄関から入って、まずは職員室に行くよ」

道中、住野さんが話題をふって、僕はその一つひとつについて丁寧に答えた。場所柄、中学時代の授業や部活、友達との思い出など。まるで散歩だった。二階の職員室まではあっというまだ。年齢や立場の垣根を越え、僕たちが打ち解けるのもあっというまだった。

「こんにちは」

三十代ほどの、眼鏡をかけた小柄な女性教師が応対してくれる。僕は住野さんのうしろに立ってその一部始終をくまなく観察する。十分もかからないうちに打ち合わせは終わった。どっと息を吐いてしまいそうになるが、本番はここからだ。

「緊張してる?」

「はい」

「仕事において、必要なのはなによりも誠意だ。増田君にはそれがあると話していてわかった。大丈夫だよ」

道中、今度は住野さんが中学時代の思い出を語ってくれた。当時の住野さんは字が下手くそで、あまりの下手くそさに、先生がテストの採点をあきらめるほどだったという。今僕の目の前にいる住野さんからは想像だにできないエピソードに、思わず笑ってしまう。その拍子にこらえていた重たい息がすべて出ていって、正常に、空気が体内を循環しはじめたことを自覚する。目が合った。してやったり、というふうに住野さんはウインクしてみせた。

第二校舎の二階、東の角。理科準備室に僕たちはたどりついた。鍵は先の女性教師から預かっている。慣れた様子で住野さんが解錠して中へ入り、僕はというと、「おじゃまします」と素人丸出しであとにつづいた。

「さて、それじゃあ時間まで少しだけ、先輩面をさせてもらうよ」

住野さんは言った。近所にいそうなおじさんの顔はどこへやら、その姿たるや、すっかり職人のそれである。僕も扉付近で背筋を伸ばし、はい、と応じた。

「理科準備室で行うことは、主に、人体模型との交渉。彼らには夕刻に動きだすパターンと夜間に動きだすパターンとがある。この学校では四時四十四分に動きだすそうだから、じき目が覚めるだろう。花形であるぶんプライドの高い個体が多い。ゆえに時間をかけて丁寧に交渉にあたる必要があるが、交渉人の技量が関わるから具体的な日数はなんとも言えないね。私の知っている話では五年かかったという例もある。理科準備室での交渉は、それこそ『住む』覚悟で挑まなければいけない」

五年。驚きもしたが、当然だろうという気持ちのほうが強い。人体模型との交渉は平均して数日から数週間程度と聞いているけれど、意識の消滅――彼らからしてみれば「死んでくれ」と懇願されているのだ。交渉する側も、交渉される側も、精神にかかる負荷は計り知れない。

「皮肉にも、誠意があればあるほどとてもつらい仕事だ。増田君、きみはきっとこれからたくさん悩むだろう。そのときはどうかこう考えてほしい。私たちは、人間によっていたずらに生みだされ娯楽として消費される魂たちの救済をしているのだと」

右手の腕時計で、住野さんが、時刻を確認する。四時半。あと十数分もしたら人体模型が動きだす時間だ。

理科準備室の角。住野さんは人体模型がすっぽり収まっている古びた木製ケースの前に移動する。理科室直通の扉を使って、速やかに、手近な椅子を二脚抱えて戻る。一脚を住野さんのそばに置いた。ありがとう、とそのときだけ住野さんに近所のおじさん顔が戻り、しかしまた、すぐに引きしまった職人の顔になる。その荘厳な横顔を見て、僕は、同じように椅子に座ることができなくなってしまった。

僕はこれから、第二種交渉人になるのだ。この人のような。

四時四十四分。僕の決意などつゆ知らず、その時はただ来るべくしてやってきた。人体模型が二度まばたきをして、ケースが、かたかたとわずかに動く音がする。

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