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掌編小説006(お題:扇風機の羽)
夏の、とても暑い日のことだった。
僕はまだ「うだるような」という言葉も知らない小さな子供で、そのときは、リビングでのんきにアイスでも食べていたと思う。
庭へとつづく窓のほうからコンと音が聞こえて、ふりむくと、そこにドラゴンがいた。トカゲに羽を生やしたような……そう、あれはたしかにドラゴンだった。
僕はしばらく、溶けだしたアイスの雫がぼとりとズボンの上に落ちるまで、ドラゴンを凝視して固まっていた。ドラゴンは「見えてる?」と言いたげに首をかしげてみせ、それからもう一度、鋭い爪の先端でコンと窓をノックする。ぼとり、とふたたびアイスの雫が腿を冷やして、僕はようやく、意を決して窓のほうへ近づいた。
「ごめんください」窓を開けるなりドラゴンはしゃべった。途中からもう驚くのはやめた。一挙手一投足にいちいち驚いていてはアイスがなくなってしまう。
「驚かせてしまって申し訳ない。しかし緊急事態なのです。お宅に〈翼〉はございますかな?」
「つばさ?」
「愚息が森を飛んでいる際に怪我をしましてな。木に翼を引っかけてしまったようで、片方が折れてしまったのです。偽翼をこさえればふたたび飛べるようになると長老はおっしゃるのですが、なにぶん時間がありません。ニンゲンの元にならば代用できるものがあるのではとこうして降りたってみたのですが……」
「怪我」「翼」「飛べる」子供にはそれだけで充分だった。おおむね事態を把握した僕はしばらくその場で思案し、それからピンきて、縁側の下にある母のサンダルを履いて庭に出た。
「羽じゃだめ?」
右手の物置の戸を開けながらドラゴンに訊ね、頭の中では、夏がはじまる頃に母が言っていたことを思いだしていた。コンセントを差してスイッチを入れても羽が回らないのよ。そう、母はたしかにあれを「羽」と言っていたはずだ。
ドラゴンはそれを――すなわち扇風機の「羽」を見ると、うんうんとうなづいた。
「この大きさなら幼い愚息の体躯にも合うでしょう。どれ……なるほど強度もどうにかなりそうだ。この羽をお譲りしていただけますかな?」
「いいよ、もう使わないみたいだし」
「ありがとう」
そうして、ドラゴンは扇風機をくわえて飛びたった。その羽ばたきは雲を一瞬で吹きとばし、それきり、秋が訪れるまであの年の夏は妙に涼しかった気がする。
***
それから毎年、こんな歳になっても、夏のうだるような暑さを感じると僕はあの奇妙なひとときをひっそり思いだしながら、わざわざ扇風機を出してきて、ついアイスをかじってしまう。
目を閉じる。羽のまわる、ぶぉぉぉぉぉんという音。
それはまるで勇ましい咆哮のようで、扇風機の羽を持つおかしなドラゴンは、瞼の裏に広がる夏の青空をわんぱくに飛びまわっている。