掌編小説158(お題:良い・酔い・宵)
あの人は、世界で一番悲しい人でした。
生まれはあちらの世界だったと聞いております。望まれない次男坊だったため子供のうちに売られたと。それ以外にヒトの記憶はないといいます。買ったのは絵師の男でした。隠遁する男の代わりに絵の取引や画材の調達など方々へ走らされ、古美術の知識はその過程で育まれていったようです。男はあの人を市場へやったあと首を吊って死にました。遺体を見つけたあの人もまた涙は流しませんでした。同じ屋根の下で暮らしながら、二人は最後まで、ただの絵師と丁稚だったのです。
やがて、小さいながらあの人は町に店を持つようになりました。骨董店です。むかいの乾物屋で看板娘をしていたのがわたし。一目惚れでした。仕事が終わると、わたしは用もなくあの人の骨董店を訪ねました。学のないわたしでも興味が持てるよう工夫して、美術や歴史など、あの人はたくさんのお話をしてくださいました。わたしは両親を味方につけ、一年ばかりの説得ののち、ようやく奥手なあの人に結婚を決めさせたのです。
あの人がキセルを手に入れたのはそれから数年後のこと。取引先から帰るや否や、あの人は珍しく華やいだ声でわたしを呼びよせました。もとより奇妙なこの町で、さらに奇妙なものを手に入れたといいます。それがあのキセルでした。古くは悪名名高い賭博師が使っていたもので、相手の記憶を、奪えるのだとか。もちろん生真面目なあの人がそんなことをするわけはありません。商品として陳列する場所を見定めながら、わたしたちは、奪えるのならどんな記憶を奪うかという妄想話に花を咲かせました。あの人が挙げるのは普遍的でとてもささやかなものばかりです。雷に打たれたような衝撃がわたしにはありました。あの人は、わたしたちが持つあたりまえのような記憶ほど本当は欲しかったのです。親に愛され、友と野を駆けまわり、無邪気に未来を思い描いた、幸せな思い出が。
あれから何十年が経ったでしょう。わたしはとうとう老いた身体で病を患いました。彼岸病の発症です。姿形が物言わぬ彼岸花になるという、それはあの人のキセル以上に奇妙な病でした。特効薬はなし。生命活動をつづける唯一の方法は美しい思い出を与えつづけること。町医者は安楽死を勧めました。残されたあの人の精神的負担を考えれば当然でしょう。ところがあの人は従わなかった。あの人には、そう、他人の記憶を奪えるキセルがあったから。
彼岸病は原因不明の病だと町医者は説明しましたが、わたしには思い当たるところがあります。それは願いでした。月並みな思い出こそ欲しかったあの人。これ以上あの人に悲しい思い出をつくらせてはいけない、という悲願。だけどそれは願うことではなく誓うべきことだった。誤ちも、この姿では伝えることはできず。
それからというもの、あの人が奪ってきたかりそめの良い思い出だけを夢見て、それはまるで宵の酒が酔わせるがごと。
しかし、赤い月がまなこのようにのぼるこの町でも、いつかは夜が明け、酒が抜け、真実だけが残るのです。わたしたちにとってそのきっかけは一人ぼっちの、そう、あの人のように幼くして売られた子供でした。
セツナという行商人がいます。あの人が今の商売をはじめてから出入りするようになった者ですが、この日セツナが売りにきたのは人間の男の子でした。
「名前は四位良太。歳は八ツ。こっチの世界に迷イこんだまま闇市のアたりに居つイたのが博打打ちドもに見つかってナ。ろクな生まれじゃなイらしく、帰りたクないと言って聞かナい。ソのうち人買いドもが我先にと出張ってきタんだが、ガキに奴隷やら臓器売買やらさせちゃア寝覚めも悪いダろ。ソこでマツヨイを介して、このセツナ様がこイつを買って、爺サンのとこへ売りにきテやったってわけサ」
セツナが調子よくしゃべっているあいだ、良太とやらは口を利きません。もちろんあの人も。
「子供ほド、見たモの聞いたモの、出会ったモのはナんでも思い出になりやすイ。まさに爺サんにはうっテつけサ。物珍しいこっチの世界を自由に歩かセてやるか、もしくはろクな生まれじゃねェんだ、あたたかナ飯や風呂、寝床、人並みの生活をさセてやりゃア思い出ナんてたんまりこサえるだろう。爺サんは頃合いを見てソいつを吸ってやればいイ。永久機関というやつだナ。ドうだい、名案だろウ?」
わたしの咲く部屋はピタリと障子が閉じられています。しかしなにが起きているのかはわかりました。あの人が小判の詰まった巾着袋を投げてよこす音。調子のいいセツナ。だめよ、そんな理由で子供を買うなんて――。
「火事?」
言ったのは、あの人でもセツナでもありませんでした。深い深い絶望から湧き出るような声。ああ、まだこんなに小さな子がこんな暗い声を出すなんて。
障子が開き、あの人はあわてふためきながら部屋に入ってきました。心配しないで。わたしったら、ちょっと感情的になってしまったみたい。文字どおり燃えるように咲いていたのだわ。揺れてみせると、あの人は、悲しそうに、寂しそうに、笑いました。
「彼岸花?」
「イや、こいつァもしかしテ……」
彼岸病のことを、セツナもまたある程度は知っているようでした。原因不明の奇病。特効薬はなし。あの人が良太を買った理由のからくりをかいつまんで説明します。あの人はわたしのそばに膝を降折り、花を、ツと指でなでるばかり。
「毒、抜いてみたら?」
相槌もなくセツナの話を聞き終えると、良太はわたしを見やりながらそんなことを言いました。
「なんダって?」
「知らないの? 彼岸花に含まれてるリコリンって毒は水溶性だから、すり潰して長時間水にさらしておくと、毒抜きができるんだって。病気なんだから、毒を抜いたら治るんじゃないの。まぁ、無毒化するまでにどのくらい時間がかかるかは詳しくわかってないらしいけど」
言葉の真偽を、あの人は測りかねている様子でした。
「おマえ、ドうしてそんナことを」
「去年自由研究の宿題で調べたんだ。彼岸花って、人間の勝手な妄想でまるで悪者みたいに決めつけられてかわいそうだから」
最後に心を動かしたのは、セツナと良太のそのやりとりだったのだと思います。あの人は突然立ちあがると薬屋を呼ぶようセツナに言いつけました。すぐさま町一番の薬屋が呼ばれます。
セツナが薬屋にあれこれ事情を説明しているあいだ、あの人はたった一言、「すまナい」とわたしに言いました。今にも泣きそうな顔をしていて、ああ、それなのにわたしは微笑みかけることすらできず。
代わりに答えたのは、良太でした。
「だめだと思ったら、そのときはおれが死ぬまで思い出根こそぎ全部吸っていいよ。まぁ、もとからそういう話だったけど。おれが永久機関になって思い出でもなんでも吸わせつづければ、いずれ元には戻る。そしたら少なくともプラマイゼロ。でしょ?」
そうして、たったの一輪を残し、わたしは毒抜きに挑みました。
あの人は薬屋のそばを片時も離れず、乳鉢の中花の形でなくなっていくわたしに「きれイだ」と言ってくれました。それだけでわたしは充分でした。
硝子瓶の中へ、わたしは水とともに移されます。最後に残しておいた花を一輪。毒抜きが成功すれば、これが元のわたしの姿へ変わるだろうとのことです。
こうして、あの人とわたし、そして良太との新たな生活ははじまりました。毒抜きにどれだけの時間がかかるのか、あるいは、成功するのかさえ誰にもわかりません。ですが、今ようやく思い出をめぐるわたしたちのくびきは解かれるのです。
これは悲願ではなく希望だと、わたしは、信じております。
***
ある宵のことである。薄暗がりの中、アなた、とウタカタを呼ぶ声があった。
良太はまだ古書店から帰っていない。元来の本好きとウタカタに仕込まれた骨董の知識をかけあわせて、最近では、せどりの真似事のような商売を確立しつつあるらしかった。ウタカタはといえば良太の仕入れる本の影響で片手間に茶道を独学で学びはじめ、「ゆくゆくはアンティーク系ブックカフェか」と商魂たくましい良太の横文字に口をへの字にするばかりだ。
ふたたび、アなた、とウタカタを呼ぶ声がする。
夢かうつつか。ウタカタは静かにふりかえった。ここのところは茶ばかり立てていたウタカタであったが、このときばかりはすこぶる美味い酒でもあおったみたいな顔をして、小さく、とても小さく笑っている。