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掌編小説311 - アインシュタインの選択

「鵜ノ沢海里です。趣味は天体観測。鵜ノ沢の『鵜』はペリカン目ウ科の鳥の総称で、日本では古くから漁業や観光業の友でした。というわけで、ぜひ鵜ノ沢ぼくとも仲よくしてくれたらうれしいです」

一礼して着席するとぱちぱちとまばらな拍手が起こった。自己紹介をするとき、僕はいつもこの定型文を使う。小学生のときにつくったひな形からほとんど手を加えていないので子供じみて聞こえるかなと不安もあったけれど、拍手はあたたかかったし、何人かの生徒は小さく笑ってくれている。よかった。先生が次を促して、うしろの席の生徒が立ちあがる。そうしてまた順々に自己紹介がはじまった。

春だ。暗緑色のブレザーは三年間の成長を見越してわずかにぶかぶかで、いかにも新品のにおいがする。高校生になったんだな、と今日何回目かわからない実感がまたじわじわと胸のあたりをくすぐった。

小学生のとき、僕は不登校児だった。

厳密には六年生の一年間だけ。きっかけは五年生のときにはじまったささやかな集団無視だった。とても小さな人間関係の中で慎ましく過ごしていたつもりだったけれど、身体を避けるという行為ならば他人でもできる。これを含めた集団無視は最終的にクラス・学年外にまで波及した。

原因は自宅のベランダにとまるたくさんの鳩だった。古くて小さなマンションの、僕たちの家のベランダにだけなぜか毎日複数羽の鳩が集まっていた。大家さんに差しむけられた役所の人たちがベランダを調べに来たこともあったけれど、大人が雁首そろえて考えても理由はまるでわからなかった。

最初は「こわい」とか「きたない」といった悪口が陰でささやかれる程度だったのが、あるとき図書室に収蔵されていたオカルト本がクラスで流行すると、やがて鳩を使って呪いの儀式をしているとか、おそろしいウイルステロを計画しているとか、はたまた自分も鳩の姿になって夜な夜な悪いことをしているといったしょうもない噂までささやかれるようになった。

あくまで集団無視に終始していたので僕自身はあまり気にしなかったけれど、気の毒だったのは先生だった。六年生のときの担任はとても優しい女の先生で、不気味な鳩の家に住んでいる僕のことも他の児童と同じように接してくれた。だからこそ、僕への嫌がらせがしょっちゅう先生の授業を邪魔してしまうのが忍びなかった。先生はきれいごとを言ったりむやみに正義をふりかざしたりせず、慎重にこの問題とむきあってくれた。そんな先生の手を煩わせないために、僕は進んで学校へ通うのをやめた。

不登校といっても、学校に通わないというだけで他にあまり特別なことはない。両親は最初こそ戸惑ったものの変わらず接してくれたし、先生とは連絡帳を通じて近況を教えあったりした。その大切な連絡帳を、毎日自宅へ学校へと届けてくれる親切なクラスメイトもいた。四年生からずっと同じクラスだった女の子。それまで一度も話したことはなかったけれど、僕を見ても「こわい」とか「きたない」と言ったり身体を避けたりせず、ベランダの鳩も興味津々で観察していた――。

生徒たちが一斉に居住まいを正す物音がして我にかえる。これから一年間僕たちの担任を務める先生が、プリントを配り、授業の開始日や今後の学校行事について等々大まかに説明してくれた。生徒手帳をブレザーの胸ポケットに収める。末尾のメモ欄には、クラスメイトみんなの名前と趣味などいくつかの特徴を書きとめてある。

高校生になったら、今度こそ「普通」の人間になると決めていた。

自己紹介も上手くできた。だからきっと大丈夫。友達をつくって、部活に入って、勉強して、ときどきはアルバイトをする。そういう「普通」の高校生に、僕だって、ちゃんとなれるはずだ。

***

入学式から一週間が経った。

生徒手帳のメモを確認しながら勇気を出して一人ひとりに声をかけたので、クラスメイトとは満遍なく穏やかな友人関係を築けている。休み時間や放課後に集まって話すような友達も何人かできた。毎朝ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗るのは億劫だけれど、県外の、私立の男子校を選んで本当によかったとつくづく思う。進学校の授業にもちゃんとついていけているし、アルバイトは週三日。部活は科学部に入った。望んだとおりの「普通」の高校生をやれている。そう、思っていたのだけれど。

クラスに、まだ知らない人がいる。

気づいたのは二時間目の授業中だった。手が当たって消しゴムが床に落ちてしまい、それを拾いあげてなんとはなしに窓のほうをむいたら、彼はそこにいた。

小柄な生徒だった。制服は新入生にしては不自然に色あせており、今後の成長を見越してと解釈するにはあまりにも大きすぎる。やわらかくカールした髪は犬かもしくは猫の長毛種のようで、それとは裏腹に、目つきが孤高の狼を思わせた。姿勢がとても悪く、ほとんど机に突っ伏すようにして座っているが、熱心に板書を書き写しながら先生の話に耳を傾ける様子は胸を打つものがあった。好印象ではある。彼の座っている場所が、体調不良で欠席しているまったく別人の席であることを除いては。

もちろん生徒手帳のメモは真っ先に確認した。出席番号一番から順に念のため三回確認したが、やはりあの席に本来座っている生徒とは明らかに別人で、クラスメイトでは絶対にない。まさか幽霊なんてことはあるまいし、だとしたら別のクラスの生徒、それとも……生徒に変装した不審者?

とはいえ、僕がここでどう行動すればよいのかは判断しかねる。立ちあがって彼の存在を指摘すれば授業を中断させることになるし、クラスが混乱すればたとえ彼を追いだしたとしてもふたたび何食わぬ顔で授業に戻るのは難しい。それに、誰よりも真面目に授業を受けている彼をわざわざ追いだすのは少々気が引けた。

先生が教科書を読みあげたり内容を補足したり板書をする以外、教室はとても静かだ。誰もまだ彼に気がついていないということだろう。信じがたいことではあるけれど、真面目に授業を受けているだけで危害の心配はなさそうだし、ひとまず、僕も授業に集中することにした。

終業のチャイムが鳴る。

顔をあげると、もうそこに彼の姿はなかった。

***

翌日、本来あの席に座るべき生徒が学校へ復帰すると、それきり彼が教室にあらわれることはなかった。

でもチャンスはまだある。理科室など、一クラスの人数よりも座席が多い大教室に移動する授業であれば彼はまたひょっこりあらわれるのではないかという仮説が僕の中にはあった。そして案の定、二日後の生物の授業に彼はまぎれこんでいた。

ただ、捕まえるのは一苦労だった。どれだけ注意深く彼を観察していても、「普通」の高校生でありつづけるためには彼からあえて視線を外さねばならない都合というものがあって、その一瞬を突いて彼はあっというまに姿を消してしまう。不審者というより、まるでキツネかタヌキにでも化かされているような心地だ。彼と話してみたかった。「普通」の高校生であるための意地ではなく、純粋な、彼という存在への興味だった。

彼と話ができたのは、それからさらに一ヶ月後のこと。

校舎の桜は花の季節を終え、新緑を揺らして窓から木漏れ日を注いでいた。火曜日。部活もアルバイトも入っていない放課後、散々探しまわってようやく、図書室の奥で僕たちは邂逅した。

「ねぇ」

開いていた本を床に投げ捨て、彼が西の窓へ走りだそうとする。想定内だった。その手首をつかみ、小声で、かつ警戒されないよう努めて穏やかに話しかけた。

「大丈夫、先生や他の生徒に言ったりしない。約束する。ただちょっと話がしたかったんだ、友達になれないかなと思って」

図書室には現在、僕たちを除いて五人の生徒がいる。貸出カウンターに座る図書委員、顔を突きあわせて勉強している二人組、そして一人で読書をしている生徒が二人。彼らからは書架で死角になっているけれど、本が落ちた音でおそらく何人か、もしかしたら全員が今こちらに注意をむけている。窓から逃げるのが得策でないことは彼にもわかっているはずだ。

言葉に嘘がないことを強調するため、手はすぐに放した。逃げだす気配はない。窓を一瞥し、それから溜息をついて、彼は落とした本をようやく書架へと戻した。

「外でちょっと話さない?」

「……わかった」

所在なげにうなじのあたりへ手をやり、視線を床へ投げたまま、不承不承といった感じでようやく彼がうなづいてくれた。

***

どこなら都合がいいかと訊ねると、彼は学校のすくそばにある児童公園のベンチに僕を案内してくれた。なるほど、たしかにここなら都合がいい。学校を出たらまっすぐアルバイトか塾へむかう生徒たちが小学生たちの溜まり場であるこんな小さな公園に目をむけることはないし、一方の小学生たちも、携帯ゲーム機で通信対戦するのに夢中で制服姿の僕たちにはまるで関心がない。

「きみもなにか飲む?」

「いい、金ないから」

「おごるよ」

笑いかけると、彼は時間をかけて自販機のラインナップを吟味し「これ」と白ブドウの缶ジュースを指差した。それとミルクティーを購入して、ベンチに腰かける。

「名前、訊いてもいい?」

「シイリョウタ」

漢字を教えてもらう。四位良太。生徒手帳を広げ、クラスメイトの名前と特徴がメモしてあるあのページにその名前を新たに書き加えた。

「四位くんね。僕は鵜ノ沢海里、よろしく」

「うん」

「えっと、それで四位くんは……」

「あの学校の生徒じゃないよ」

言い淀んでいると、四位くんは白ブドウのジュースをごくりと一口飲んでからふてくされたように語りだした。

「そもそも高校生ですらない。学校は……家の都合で、小学生の途中から通えなくなったから。生きてくのに必要なことは、本とか、おとーさんとか、あと友達に教わった。でも最近になってやっぱちゃんと学校で勉強したいなと思って。ただ、おれ学校には通えないから。だから友達に相談して、そしたら友達が『生徒のフリして内緒で授業を受ければいい』って。制服と教科書は友達がどっかから適当に調達してくれた。毎日適当な時間に学校をのぞいて、誰か休んでるやつがいたら、こっそり席に座って授業を受ける。誰も休んでなかったら図書室で勉強する。バレない方法は友達から教わってたし、大丈夫だと思ったんだけどな」

にわかには信じられない話だった。家庭の事情で学校に通えないというのは、まぁ、ありえる。でもだからといって「生徒のフリして内緒で授業を受ければいい」というのはあまりに非現実的だ。大学の広大な敷地ならあるいは可能かもしれないけれど、高校程度の規模なら見つかる可能性はかなり高いし、下手すれば追いだされるどころか通報される危険すらある。そんなリスキーなことを平然とそそのかす友達とはいったい。それに、バレない方法って? もしかしてこの三週間、なかなか彼を捕まえられなかったことにもなにか関係があるんだろうか。すごい。ますます興味深い。

「おまえ、やっぱ学校にチクる気だろ」

自然とこぼれた笑みを、彼は誤解したようだった。

「言わないよ。言ったら四位くんと会えなくなっちゃうだろ? さっき図書室で言ったとおり、僕はただ、きみと友達になりたかっただけ」

「どうだか」

「どうしたら信じてくれる?」

肩をすくめる。四位くんはしばらくちびちびと白ブドウのジュースを舐めていたが、やがてこちらへ身体ごとむいて内緒話でもするみたいに前かがみになった。

「じゃあ、等価交換にしよう」

「というと?」

「おまえもおれになんか秘密をわたせ。学校に言ったら確実に破滅するやつ。そしたら、おれたちは共犯者だ」

共犯者、と四位くんは言った。僕がなりたかったのは友達だけど、共犯者か。それはそれで悪くない。

「わかった」

しばしの逡巡のあと、僕はとうとう秘密を打ち明けた。

「僕は、交渉人なんだ」

「なにそれ」

「定義するのは難しいけど、この世界に存在するいろんな不思議なものと“交渉”する仕事。厳密にいうと僕は第三種交渉人で、リョコウバトと彼らの生息領域『L-810』を保全するための交渉をしているんだ」

交渉人になったのは、不登校になった小学六年生のあの冬だった。

父と趣味の天体観測へ出かけた夜、父が公衆トイレまで用を足しにいったタイミングで大場さんはあらわれた。彼は自身について「交渉業務」を行うとある組織の「採用担当」だと説明した。誰にも言ったことはないのに、僕が鳩と話せることもお見通しだった。交渉人になれと大場さんは言った。もし交渉人になるのなら、中学校三年間、望むのであれば高校三年間の身の安全も保証してやると。

僕は、普通の中学生になりたかった。誰にも気味悪がられたり避けられたりしない中学生に。大切な友達をわざと遠ざけて一人ぼっちになったりしない中学生に。だから交渉人になった。交渉人という仕事そのものが、普通でないことにも気づかずに。

「リョコウバトは乱獲されまくって二十世紀初頭に絶滅したはずだけど」と、さすが勉強熱心な四位くんは博識だ。

「表向きにはね。けど、本当は乱獲のさなかに何羽かのリョコウバトが未知の領域へと飛んでいって絶滅を免れた。僕が交渉しているのは、その子孫にあたる鳩たち」

「未知の領域って?」

「ロスト40の話は知ってる?」

四位くんが眉をひそめたまま首をふったので説明する。

「アメリカのチペワ国有林にある一部の原生林のことなんだけどね、木々の樹齢は周辺の森の二倍以上で、動物たちも他の地域よりずっと多く生息してるんだって。なぜかというと、一八八二年にとある測量技師たちがミスをしたから。それ以降、長いあいだそこは『水中・・』だと思われていたらしい。結果、森は伐採を免れた」

不愛想を装ったつもりで、四位くんの瞳はきらきらと輝いている。それは僕の愛する星のまたたきに似ていた。学ぶということが心底好きなのだろうなと思った。ミルクティーをまた一口飲んでから話をつづける。

「L-810については、とりあえずこのロスト40に似たエリアだと思ってくれていい。僕は交渉人として定期的にこのエリアへ行って、リョコウバトたちと話し、さまざまな要望を持って帰ってきて本部に報告する」

「要望?」

「かわいいもんだよ。こちらの世界にしか存在しないアレが食べたいとか、コレを見てみたいとか。もしくはあちらでこういう問題が発生したから解決してほしいとか。あと、ホリデーシーズンにはこちらの世界を観光したいってのもあるね。本部でそれら一つひとつの要望が実現可能かを精査して、具体案が決まれば、今度はそれをリョコウバトたちに伝える」

「ハト語?」

「普通に話しても通じるよ。反対に、鳩がたとえば『ぐるるぽー』って鳴いても僕にはそれが日本語で理解できる。『腹減ったー』とかね」

「リョコウバト以外の鳩にもできんの」

「できる」

「やってみて」

「いいよ」

公園を見まわすと、ちょうど無人のブランコのそばを一羽のドバトが歩いていた。「こんにちは」と声をかける。彼はこちらを見あげて小首をかしげた。

「少しだけ話せますか?」

ぼるる。短く鳴いて彼が羽を広げる。右腕を差しだすと、彼は鷹やフクロウのようにそこへとまった。へぇ、ととなりで四位くんが小さく感嘆の声をあげる。

「今なんか言ってる?」

「今日はとても天気がいいねって」

ありがとう、と微笑みかけると彼は小さく返事して通りのほうへ飛んでいった。

「これが、僕の秘密」と話を締める。

四位くんのほうへふりかえると、彼は空になった空き缶を右に左にと意味もなく持ち替えて思案顔だった。等価交換としてふさわしいものだったか、僕の話を吟味しているのかもしれない。しばらく落ちつかない気持ちだったが、やがて、四位くんはまた所在なげにうなじのあたりへ手をやり、溜息をこぼした。

「たしかに、学校中で言いふらしたら確実に変人扱いされて破滅する秘密だな。あとはまぁ、交渉人の話とかロスト40の話もおもしろかったし。……わかった。じゃあ、とりあえずおれたち共犯者ってことで」

緊張が解け、それから僕たちはようやく高校生らしい自然な会話を楽しんだ。たとえば勉強のこと。趣味のこと。将来のこと。

「鵜ノ沢は、高校卒業したらあとはずっと交渉人として働くの?」

「まさか」と、小さく笑う。「理系の大学に進んで、将来は星を研究したいんだ。天文物理学者。交渉人はあくまでアルバイトだよ」

高校生になるとき、定期面談の場で大場さんにもきちんとそう伝えた。身の安全は自分で守る。だから今後は、あくまでアルバイトとして働かせてほしい――。大場さんは、そうか、と無表情でうなづくだけだった。彼が一筋縄ではいかない人間だというのはこれまでのつきあいで充分に理解している。高校卒業の折にはおそらくなにかしら、僕が本格的に交渉人にならざるをえなくなるような手を打ってくるだろう。それでも、僕は大学進学と同時に交渉人からは身を引くと決めている。

「もったいね。せっかく才能があって、おもしろそうな仕事なのに」

「普通でいたいんだよ、僕は」

暮れていく空を見上げていた四位くんがそこで一度僕を一瞥する。思いのほか語気が荒くなってしまった。

「鵜ノ沢は普通じゃないの?」

「鳩と話せて変なバイトしてる僕が、普通だと思う?」

「まぁ、おれ的には」

はっ、と自嘲する声が漏れた。秘密を共有する共犯者の前だからだろうか。一生懸命我慢しているつもりだけど、どうしても、十二歳のままの自虐精神がその綻びから無様に出てしまうのを止められない。

「あのさ」

と、長い沈黙のあとで四位くんは言った。

「まずおれ、今の両親と血がつながってないのね。で、おかーさんは、……前までちょっと変わった病気にかかっててさ。おれの境遇もおかーさんの病気も、客観的に見れば普通じゃなかった。でもおとーさんはさ、毎日甲斐甲斐しくおかーさんの看病したし、おれのことも本当の息子みたいに育ててくれた」

表情にこそ照れて出さなかったけれど、訥々と語るその声はとてもあたたかい。

「アインシュタインがさ、『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない』って言ったの知ってる? おとーさん見てるとさ、病気じゃないから普通とか、血がつながってるから普通とかそんなんじゃなくて、自分で選んだことがその人の普通になるんだなっておれは思うよ」

四位くんが話し終えるのを待っていたかのように、そこで五時を知らせる町のチャイムが鳴り響いた。だらだらと通信対戦をしていた小学生たちが各々の自転車にまたがり、「じゃーなー!」と大声で叫びながら三々五々に帰っていく。僕たちもベンチから立ちあがった。あまりに出来すぎた美しい終幕だ。

「家のこと、話してくれてありがとう」

「どういたしまして」

「きみと友達になれてよかった」

「そういうクサい言葉はいい」

露骨に顔をしかめるので、笑ってしまう。

「家はどのへん?」

「すぐ近く」なぜかうしろの茂みをふりかえって四位くんは即答した。

「今度からはさ、毎週火曜の放課後は図書室で待ちあわせして、この公園でこうやっておしゃべりでもするってのはどう? 火曜なら僕、部活もバイトもないんだ」

「別にいいけど」

「よかった。それじゃあ、僕は電車だから行くね」

「うん」

去り際、一陣の風が吹いた。

なんとはなしにうしろをふりかえったが、やはりそこにもう四位くんの姿はない。不思議な人だなとつくづく思う。近くをうろついていた鳩に「さよなら」と声をかけ、気をつけて帰れよー、という声をはっきり聞いた自分を棚にあげて。

***

あっというまに六月になった。

五月の大型連休や体育祭の反動、さらには梅雨のじめじめした空気もあって、祝日のない六月の学校生活はいやに長く感じる。日直が書いた黒板の日付を見ると、じわじわ期末試験が近づいているのを実感した。中間試験のときは古典の成績が芳しくなかったから、今のうちから本腰を入れて勉強しておかないと。

中間試験が終わったタイミングで席替えが行われ、僕は騒がしい廊下側から大逆転、運よく窓際の席を獲得していた。この時期は窓越しに聞こえるかすかな雨音が心地いい。そしてなにより、欠席している友達には悪いけれど、今日はとなりに四位くんが座っている。こんなにすぐそばに彼が座っているのは初めてのことだった。まったく知らない人間がそこに座っているというのに、クラスメイトが誰一人として彼に気づかないのはやっぱり奇妙で、ちょっと滑稽だ。

期末試験といえば、科学部の諸先輩方は先日の部活中も「期末のあとは進路相談か」と終始ぼやいていた。早すぎるということはないのだから、俺たちのように今さらになってあわてなくていいように一年のうちからざっくりとでも考えておけよ、とも。

かの偉大な科学者アインシュタイン曰く、あと二年あまりで僕が集めた偏見のコレクションは「普通」になる。

天文物理学者になるという夢はずっと変わらないけれど、そこへ至るためのさまざまな過程はまだなにも考えていない。以前の定期面談で、もし大学受験に失敗して絶望するようなことがあれば正式に交渉人になればいいとも大場さんは言っていた。大人になるにつれ徐々に消えていくのだろうと思っていた鳩と話せる能力も、今のところは衰える兆しがない。

窓の外に目をやると、むこうの校舎の屋根に二羽、鳩が寄り添ってとまっていた。

窓越しに鳩をながめていると、いつも決まってあの子のことを思いだした。毎日家まで連絡帳を届けにきてくれた女の子。ベランダに群がる不気味な鳩を興味津々の目でながめていた、僕の友達。

小学六年生の冬に鳩と話せるようになって、今はその才能を買われて交渉人という変なアルバイトをしている。なんらかの世界のバグによって普通の人には感知できない領域で、絶滅を逃れたリョコウバトが末永く幸福に生きていける道をあれこれと交渉する仕事。その秘密を共有する友だちもできた。彼は僕たちと同じ制服を着て授業を受けているのだけど、本当はウチの学校の生徒じゃない。――これが、今ここにある僕の日常の断片だ。

小学校卒業と同時にあの子は引っ越してしまった。消息はわからない。もし、いつかどこかで偶然あの子に再会することがあるとしたら、僕の青春の集大成を見て、あの子はなんて言うだろう。どんな顔をするだろう。連絡帳という口実がなくても、僕たちは、また友達になることができるのだろうか。

カツカツ、と先生がチョークで黒板に文字を書きはじめる。四位くんは相変わらず机に突っ伏したような姿勢で黙々と板書を書き写していた。僕も軽く頭をふって空想を払い、板書を書きとめる。

机の上に広げられたノートにはまだたくさんの余白があった。

「普通」になるにはまだ早い日常の只中で、僕はその余白を、一文字、また一文字とただ精一杯に埋めていく。


鳩3部作(仮)

※俺は四位くん派!という人は掌編小説158(お題:良い・酔い・宵)ならびに拙作〈夢かうつつか〉シリーズをご参照ください。


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