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掌編小説321 - クラリネットを壊しています

掌編小説317 - サバとしめじを交換しています のリメイク作品です。


クラリネットの歌が昔から大嫌いだった。

   ドと レと ミの おとが でない
   ドと レと ミの おとが でない

まるで死にゆく魂だ。

   ドと レと ミと ファと ソと ラと シの おとが でない
   ドと レと ミと ファと ソと ラと シの おとが でない

いつか、完全な不完全になっていく僕のよう。

「宮司!」

という上司の声で我に返る。色気のない制汗剤のにおい。なのに、リップクリームで申し訳程度に潤った血色の悪い唇がすぐそこまで迫っていた。

「なんですか」

こんなことでドギマギはしない。

「なんですかじゃねぇよ。仕事中だぞ。ぼけっとすんな、次に私の前でそのアホ面さらしたときはキンタマ半分なくなってると思え」

こんな、かろうじて生物学的にギリギリ女みたいな生きものにドギマギするほうがどうかしている。

「お言葉を返すようですが、仕事中はもうちょっと口を慎んでもらえませんか。なんなら黙ってもらえると」

「あ? なんだ、どっちのキンタマもいらねぇみたいだなおまえ」

「タマ縮みあがってんのはむこうなんですけど」

と、上司の肩越しにむこうを指さしてみせる。それでようやく彼女の唇が離れた。肩まで海に浸かって気まずそうに目をそらす男たち。浜辺に打ちあがる波の音が馬鹿らしかった。

「おまえらタマねぇだろ」

「白子、食べたことないんですか?」

「は?」

うわ、この人居酒屋で暮らしてるのかってくらい酒浸りのくせに本当になにも知らないのか。

「あれがいわゆる魚のタマです」

「んなわけねぇだろボケナス」

「マジですよ、大マジ」

マジと真アジって似てるな。……くだらない雑念を抱いたらおなかがすいてきた。午後三時、小腹を満たすにはちょうどいい時間だ。

さてどんな反応をするのだろう、と、見守っていたら、彼女はやがて大口を開けてガハハと賊のように笑いだす。

「仕事してもらっていいですかね」

「おまえもな」

波が引き、笑いも引くと、それでようやく彼女は仕事に戻ってくれた。

内陸の小さな町で育ったので、海は昔から憧れだった。穏やかな波の音。海鳥の声。俗世の服を脱いだ人々の非日常的な営み。これからは仕事で、少なくとも月に一度は海に行けるのだと思うとわくわくした。仕事の合間にはたとえばコーヒーをテイクアウトして、スーツのまま、ちょっと波打ち際を散歩してみたり。

「なぁ、おまえコロンブスが人魚を見たって話知ってる?」

海を訪れると、全国どこでもたいていのマーマンはこの話をしたがる。マーマン。男性またはオスの人魚。生物である以上当然人魚にも雌雄が存在するわけだが、どういうわけかマーマンは人間界で圧倒的に知名度がない。人間が興味を示さないので、そのうちマーメイドたちもあまり興味を示さなくなった。モテない人間の男がそうであるように、自然の摂理に従って、マーマンたちは総じて気取った皮肉屋だった。

「一四九三年一月八日、コロンブスがリオ・デ・オロを遡上中に三匹の人魚が飛びあがるのを見たという話ですよね」

「詳しいじゃん」

「新人のうちに基礎的な知識は教わりますから。もっとも、インターネットにも載っているあまりに有名なエピソードなので、一般人でも知っている人は多いと思いますが」

遠くの浜辺では人間の子供たちがはしゃぐ声がしている。マーマンはそののどかな光景に不釣りあいなにやついた顔であごをさすり、それから、挑戦的な視線と言葉を投げかけた。

「俺、その三匹のうちの一匹なんだぜ」

「コロンブスが見たのは海牛――ジュゴンかマナティーだったというのが通説ですよね」

「もちろん、そうしておくほうが都合がよかったってことさ」

「なるほど。じゃあコロンブスが日誌に『絵に描いてあるように美しいものではなく、なんとか人間のような顔をしていた』なんて辛辣なことを書いたのも情報を隠蔽するためのフェイクだったんですね」

顔をあげると、マーマンは顔を真っ赤にして岩場から勢いよく飛びこみ、そのまま泳いで遠くへと行ってしまった。これまで方々のマーマンたちと幾度となく交わしてきた手垢のついた定型文のつもりだったが、湘南の若いマーマンたちはどうもプライドが高いらしい。

「あっ、おい宮司てめぇ逃がしてんじゃねぇよ」

「調書は書きましたし、誓約書にもサインもらって個体識別タグも装着させました」

「んなもんでどうにかなるなら交渉人なんていらねぇんだよ。調書、誓約書、タグはあたりまえ。そのあと二度と人様に迷惑なんてかけれねぇぐらいこいつらみっちりシメあげるまでが私たちの仕事だ。手ぇ抜いてんじゃねぇぞ白子野郎」

「すみません」

肩に提げたショルダーバッグにタブレットをしまって、代わりに飲みかけだったコーヒーを取りだす。ここへ来る道中コンビニで買ったペットボトルのやつだ。おしゃれなカフェで淹れたてをテイクアウトする、なんて意識の高い真似をしていたのは最初の二、三回だけだった。横にいるのはむしろ安酒の瓶でも持たせていたほうがさまになるこんな上司だし、仕事は、日本近海に古来より生息する人魚のうちとりわけ不用意に人前へあらわれる者やあまつさえ人間に変身して密漁した海産物を売りつける者などを相手に“交渉”を行うこと。あまりに地味だ。第二種交渉人というものになって早三年。海も、この妙ちきりんな仕事も、あれよあれよというまになんの感慨もわかない日常の一コマになりつつある。

「ごめんなさいね」

と、未だ上司にシメられている最中だったマーメイドがくすくす笑いながら髪を梳く。

「あなたをからかうつもりはないのよ。あの子たちは人間の完全さがこわいの。わたしたちマーメイドという完璧な美をいつも目の当たりにしているから。きっと同族である俺たちも当然美しい、と思っているのね」

マーメイドは岩場を降り、しなやかな尾びれでもってくねくねと海面をわたると陸へあがってきた。魚だった下半身は海藻をまとわりつかせたなまめかしい人間の脚になり、やがて、七色の光沢を帯びた腰布になる。顔を背けるが、その肩を捕らえてマーメイドは耳元でささやいた。

「けれどあなたたちには脚がある。私たちのまがいものとは違う、完璧を凌駕する完全が。あの子たちにはそれがとてもこわいのよ。許してちょうだい」

「触るな」

と、言ったのは上司だ。

「交渉人までおちょくるつもりなら、そのご自慢のお顔、普通にひっぱたくぞ」

「あら、やきもち?」

「正月でもねぇのに餅とか食うかよ。美味いと思って食ってもねぇし。冗談はさておき、こちらが提示した条件が吞めないなら次回見つけたときは一発アウトで別の強硬手段をとるでも私は全然かまわないんだが?」

拒否権もなくかれこれ三年横にならんで仕事をしていれば嫌でも慣れてしまうが、ただでさえがさつ、おまけに両親の遺伝子から上手いことぶんどって組みあわせた恵まれた筋肉や骨格で怪異が相手だろうとおかまいなしに立ちはだかる彼女の高圧的な態度は初対面の相手にとってなかなかの気迫だ。彼女も結局は観念しておとなしく条件を呑んだ。すなわち、このあたり一帯の人間の動きを分析したうえでこちらが比較的安全と判断した時間帯やエリアに特定の条件下でのみ出現してもいいという契約。これが僕の――ひいては交渉人、とりわけ「人間ではないがおよそ人型の」怪異が人間社会で安全に共存するための交渉を行う第二種交渉人の仕事。

   ドと レと ミの おとが でない
   ドと レと ミの おとが でない

もちろん、こんなわけのわからない職場に流れついたのはまったくの偶然だった。好き好んで入るわけがない。好きを仕事に。「推し」なんて言葉が流行ったせいで仕事さえ好きでいなければならないこの時代、それでも厳しい就職活動をどうにか闘いぬいて、一流の大手企業で内定を取るつもりだった。

   ドと レと ミと ファと ソと ラと シの おとが でない
   ドと レと ミと ファと ソと ラと シの おとが でない

それが高望みだというのなら、せめて、普通の会社に。

「わたしはあなたのこと好きよ」

と、そのときまたしてもマーメイドの声がして。耳輪をくすぐる熱い吐息。唇の開閉に合わせてかすかに聞こえる舌の動く音、唾液の水音。思わずその手を振りほどこうとしたが、マーメイドが蠱惑的な笑みでひらりと身をかわすほうが早かった。

「選ばせてやる、塩焼きと煮つけどっちがいい」

「ごめんなさい、もう行くわ」

鈴を転がすような声でころころ笑って、僕ではなく上司にウインクを投げると鱗を七色にきらめかせて人魚は海へ飛びこみ、やがて遠く水平線を目指して優雅に泳いでいった。

「宮司!」相変わらず上司に――物理的に――尻を叩かれながら駐車場に停めていた社用車へ戻り、時刻を確認すると午後四時。これからまた一時間かけて東京にあるオフィスへ戻らなければいけない。運転はもちろん有無を言わさず僕だ。あたりまえの顔をして助手席に乗りこみ、言われるまでシートベルトはしないまま彼女はダッシュボードの上に投げだしてあったたまごボーロの袋をつかみとり、チャックを開封するとさっそく手を突っこんでわしづかみした一塊を口の中へ放りこんでむしゃむしゃしている。うわ、指についた残りかす、この人今ズボンで拭かなかったか?

「なんだよ」

「別に」

悟られないように鼻でそっと溜息をつき、エンジンをかける。

「――秀理(しゅり)さんって、いつどんなタイミングでそんな赤ちゃん返りしたんですか」

ふたたび口を開いたのは高速道路に乗ったタイミングだ。恥を忍んで下の名前で呼ぶのは他でもない上司からの命令だった。「竜也(たつや)のおまえに辰巳(たつみ)って呼ばれると夫婦の漫才コンビみたいで気持ち悪いだろ」というのが理由らしい。自分は普通に「宮司」と呼ぶくせに。

「喧嘩売ってんのかおまえ」

「ただの世間話ですけど、答える気がないなら答えなくて大丈夫です。黙っててください。ラジオつけていいですか?」

「親父は息子を欲しがってたんだ」

伸ばした手を思わず引っこめる。答えなどまったく期待していなかったのだが、意外にも真面目に答えるつもりらしかった。高速は平坦でまっすぐな道がつづく。聞く気もないラジオを垂れ流して一方的にとりとめのない話を聞かされるよりは、たしかにこちらも上司の身の上を真面目に聞いてやったほうが眠気は失せる。

「けど、生まれてきたのは娘が二人。おふくろの年齢や経済状況を考えると三人目は難しい。だから、私を息子みたいに育てることで親父は留飲を下げた」

「『親父』呼びもお父様の教育ですか?」

「ああ」

父のことを、僕は「お父さん」と呼ぶ。父に呼びかたをどうこう指図されたことはないし、僕自身小学生の頃「パパ」を「お父さん」へ自発的に矯正して以降は「親父」と呼ぼうなど思ったためしがなかった。親父。思春期相応の反抗心もありつつ、ほんの少し親しみを残しながら父親をそんなふうに呼ぶ人間を学生時代は少なからず見てきた。彼女の父親も、あるいはその呼びかたになにか強いこふだわりや憧れがあるのかもしれない。

「姉貴の養育はおふくろが主導権を握って、いたって普通に、なんだかおふくろの一番の親友みたく育てられたよ。『都』なんて麗しい名前のとおりだな。一方で私の育児方針は完全に親父が主体だった。『秀理』って名前も親父がつけた。男になれとまでは言わないが、理性に秀でた強くたくましい人間であれってな。ときどき私の肩越しに同じ年ごろの男の子を見つめては神妙な面をしてた親父に気を遣って……たぶん、おおむね理想どおりに私は育ったと思う」

それはたしかに。皮肉のつもりで言おうとして、けれど安易に口にするのははばかられた。シートに頭を深く沈みこませ、変わり映えのしないつまらない車窓からの景色を彼女はじっと見つめている。たまごボーロのチャックが全開だった。むしゃむしゃとまるで怪獣みたいに豪快にむさぼる咀嚼音が、なぜか恋しい。

「成人を迎えて、私が進学を機に上京すると親父はもう子育てに興味をなくした。とはいえ、今さら姉貴とおふくろの友情に割りこむ隙もない。だから、自由になって最初にしたことは風呂にアヒルちゃんを浮かべることだった」

「……はい?」

「理由はない。なんとなく、浮かべたら愉快だろうなとは思った。学生の頃、姪っ子にお風呂で遊べるおもちゃを買ってやりたいって友達が言いだして、一緒にショッピングモールに連れてかれたことがあってな。そのとき私もアヒルちゃんを買った。おまえ、風呂にアヒルちゃん浮かべたことあるか?」

「ありませんよ」

「だったら、大人になった今こそ試しに一回やってみろ。ありゃいいぞ。ウチ、今アヒルちゃん三匹いるんだけどさ、あいつら泳ぐ方向がみんなばらばらで誰も私のことを見やしない。社会の縮図だよ。現実と違うのは――いや、むしろ似てるのは、私もあいつらもおたがいには全然興味ねぇけど、それでも、みんなでいっしょくたにそこにいることそれ自体は滑稽で愉快だってとこだ」

情景を思い浮かべて、ふふ、と彼女は小さく笑う。風呂にアヒルを浮かべる。僕には想像するのが難しかった。就職して一人暮らしをはじめてからは年がら年中シャワーを浴びるだけの生活だし、第一、子供の頃からそういうのは子供っぽいと思っていた。早く大人になりたかった。大人になれば、こんなもの、気にならなくなるはずだって。

   ドと レと ミの おとが でない
   ドと レと ミの おとが でない

「たまごボーロ食いだしたのも、そういや大人になってからだったな」

ドとレと、と、くりかえしているうちに彼女がつづけて我に返る。

「もしかしたら私は、こうやって過去にあってほしかった記憶を今から捏造して、欠けた部分を補完して完全体になりたいのかもしれん。親父にふりまわされることのなかった二十年。辰巳秀理の完全体に」

同じだ。

理由はない。ただ、なんとなく、話したらこの人は笑うだろうなと思ったから。

「子供の頃といえば」

と、切りだしていっそうハンドルを硬く握る。

「僕、昔からクラリネットの歌が大っ嫌いなんですよね」

「は?」

聞き手にまわった瞬間、彼女は思いだしたみたいにたまごボーロの袋へ手を突っこんでまたむしゃむしゃとやりはじめる。もちろん、指につく残りかすはズボンで拭きながら。それで勢いづいて、一台車を追いこすと、それから言葉はするするとなめらかに唇をこぼれていく。

「あれですよ、僕の大好きなクラリネット、ってやつ。イライラしません? まずパパからもらった大好きなクラリネットなら壊すなって話だし、百億歩ぐらい譲ってまぁ避けられないトラブルも生きてればあるかって真面目に聞いてたら、ドとレとミとファとソとラとシの音が出ないって。イカレてんのか。それもう絶対意図的に壊しただろ。どう考えても大事にしてなくて草。おまえもうむしろパパに見つかって怒られろって思ってるときに、最後ダメ押しの『オ パキャマラド パキャマラド パオパオパンパンパン』が死ぬほどむかつく」

一気にまくしたてると身体が熱かった。昔から嫌いだなとは常々思っていたけど、思っていたより大嫌いだったんだなということに自分でも驚いてしまう。感情的に話してしまった。「きっしょ!」とか大声で言って腹を抱えて笑うんだろうな、とあきらめて先に自嘲したけれど。

「壊れてねぇぞ」

彼女は、笑わなかった。

「え?」

「あの歌でクラリネットは壊れてない」

ポン、と音が鳴って、しばらく進むとサービスエリアがあるという旨の案内が流れる。そこに寄れとまず彼女はつづけた。それから、運転中で身動きがとれないのをいいことに、完食して用済みになったたまごボーロの袋をくしゃくしゃにまるめて人のポケットへとねじこみ、

「あれは、初心者だから上手く吹けないだけのクラリネットをクソガキが勝手に壊れたって勘違いしてぎゃあぎゃあ喚いているだけだ」

と鼻を鳴らしてみせる。

「そうなんですか?」

「そうだよ。『オ パキャマラド』ってのは正確にはフランス語の『Au pas, camarade』のことで、まぁ意訳すると『リズムに合わせて!』みてぇなもんだ。つまり、親父もその場にいて、しかも怒るどころか応援してる」

「……そうだったんですね」

知らなかった。だって、ずっと呪いの歌だと思っていたのだ。ドとレとミとファとソとラとシの音が出ない。まるで、おまえもいつかはこんなふうに完璧な不完全になるんだと、悪い魔女に魔法をかけられているみたいで。おそろしかった。だから、それがクソガキの勘違いで、ただのヒステリーだったなら。「なぁんだ」と大口を開けて笑えばいいのに。

「笑ってくださいよ」

そんなことまで人任せにして。子供向けの歌さえちゃんと理解できない。僕は――壊れた欠陥品だから。

「おまえの発言の意図が理解できねぇから笑えないんだが?」

「左耳が聞こえないんです」

と、ハンドルを握りなおして、とうとう言ってしまった。

「といっても、軽症なのでこうやって車も運転できるし、仕事に支障はありませんけど。一緒に組んでるのが秀理さんでよかったですよ。あなたは馬鹿みたいに声がデカいのでいちいち聞き返さなくて済む。子供の頃はよくいじめられました。左から話しかけられるとときどきなにを言ってるのか聞き取れなくて、それで何度か聞き返すとウザがられて」

ドとレとミの音が出ない。ああ。聞こえてくるのはいつも左耳の奥からだ。ドとレとミの音が出ない。最初に囃したのはクラスの男の子だった。とっても大事にしてたのに。おまえみたいじゃん。そのうち右も聞こえなくなって、おまえショーガイシャになるんじゃね? 壊れて出ない音がある。

どうしよう。

どうしよう。

「まぁ、笑ってほしいなら笑ってやってもいいけど」

「なんですかその歯切れの悪い返事。やめてくださいよ気遣うの。いつもは人の欠点とかミス見つけるたびに蛮族かってくらいガハガハ笑うくせに」

「でも、耳のことは普通に知ってたし」

「えっ?」

危ない、運転中なのに思わず彼女のほうをわざわざふりむいてしまった。

「いや、知ってたっていうか、まぁたぶんそうなんだろうなって。だからおまえ人魚どもが嫌いなんだろ? ナメられてる気がするのか。あいつら、おまえに話しかけるときはわざわざ右から話しかけてきやがるもんな」

触るな。――思いだしたのは先刻の人魚たちとのやりとりだった。選ばせてやる、塩焼きと煮つけどっちがいい。そう、あのときたしかに人魚はわざと僕の右耳へささやきかけたのだ。わたしはあなたのこと好きよ。おぞましかった。まるで人と魚の半分ずつをその身に宿す化けもののように。僕は中途半端な耳を持った不完全な人間だからと、そのまま海へ、引きずりこまれるのではないかと思って。

「彼女たちは、人間には完璧を凌駕する完全があると言っていました」

「だから?」

「完全だけが正義じゃないですか」

どうせ。

人間の社会は。

笑おうとしたけれど、口角がピクピクと痙攣するだけで、笑えなかった。

「おまえ、この世に完全な人間なんていると思ってんの?」

「完全体になりたいって秀理さんだって言いましたよね」

「かもしれないって言ったんだよ」

と、面倒くさそうに彼女はがしがしうなじを掻く。

「僕だって、なにもかもとは言いません。だけど、たとえば仕事とか一定の基準が設けられた物事については『完全』といえる状態が存在しますよね。そういうものはできるだけ完全でありたいって、少なくとも努力はしてきたつもりです」

「はぁ?」

あまりの大声に「うるさっ」と小さく抗議したが、かまわず彼女は腕組みして助手席のシートにふんぞり返った。

「ウケるな。だとしたら全然足りねぇだろ、努力。さっきも波打ち際でぼけーっとアホ面かましてたし、顔だけじゃなくて中身もアホだからたまにつまんねぇとこでミスするし、口も悪いし、せっかく人が飲み行くぞって誘っても仕事が終わると光の速さで帰るし」

「奢ってくれるなら行くって言ってるじゃないですか」

「うるせぇよ、そういうところがもとから不完全野郎だったって言ってんだろうが」

あんたにだけは絶対言われたくない。言葉は声にならず、代わりに、だんだん馬鹿らしくなってきて思わずふはっと笑ってしまった。痰でも出したみたいに喉がすっきりとクリアになった気がして身体が軽い。ほどなくしてサービスエリアの入口が見えてきた。

「僕トイレ行ってきますけど」

「おまえのうんこに興味ねぇよ、いちいち報告すんな」

「うんこじゃねぇから」

対抗してついタメ口になってしまったが、気にせず彼女はまっすぐ売店のほうへ行ってしまう。トイレで用を済ませたあと自販機に寄ってミネラルウォーターを買ってから戻ったが、それでもまだ彼女はまだ戻ってきていなかった。いつものことだ。当然このあともオフィスまでは僕が運転するつもりだったが、ふと、思いついて助手席に座って待ってみる。

「うおっ!」

案の定、戻ってきた彼女は聞き返すまでもない大声で驚いて目を丸くした。

「たまには運転変わってください」

「なんで」

アメリカンドッグを一口かじったあと、

「……まぁ、一回ぐらいならいいけど」

心底嫌そうに顔をしかめて、けれどバタンと恨みがましくドアを閉めたあと意外にも素直に彼女は運転席へとまわりこんだ。今の一瞬でどうやって腹に収めたのか謎だが、とにかくアメリカンドッグはあっというまに串だけになっていて、その串はまたしても僕のポケットに強引にねじこまれる。油のついた指までこちらで拭かれてはたまらないので渋々ハンカチを差しだすと、はんっ、と鼻を鳴らしてつまらなそうに彼女はそれで指を拭いた。

「週末一杯奢れよ、それで手を打ってやる」

「十個も年下の部下にそれ言うの恥ずかしくないんですか?」

「全然」

エンジンがかかり、車がまもなくサービスエリアを出発する。時代や国が違えばきっとヴァイキングにでもなっていたに違いない彼女だが、こう見えて車の運転だけは丁寧で僕より上手い。車はすいすいとけれど揺れもなく進むので、次第にねむたくなってきた。

「たしかに完璧ではないかもしれませんけど」

重たいまぶたをこすりながらかろうじて言う。

「これでも一応、一刻も早く秀理さんとバディを解消できるように仕事がんばってるんですから、あなたもさっさと出世してくださいね」

「任せろ、出世が決まったらおまえのことは秒で捨ててやる」

「楽しみだなー」

   ドと レと ミの おとが でない
   ドと レと ミの おとが でない

五感が徐々にシャットダウンしていくのを感じる。心地よかった。右耳の奥からは子守歌のようにクラリネットの歌が流れているが、馬鹿らしい。人には毎日、こんなふうになにかを失う瞬間が必ず一度はあるじゃないか。それがあたりまえだ。完璧であろうとすることは崇高なことではあるが、たぶん同時に、自然の摂理に反してもいる。そんなことにも気づかないまま、僕は。

「――――」

となりで彼女がなにか言ったかもしれないが、いちいち聞き返したりはしなかった。どうせまた軽口だろう。あるいは。

おやすみ。

言うわけがない。けれど彼女の声は毛布くらい頼もしかった。昼寝なんてしたら夜ねむれなくなるかもな。閉じゆく意識の中でぼんやりと考えている。そのときは、風呂に湯を張ってアヒルを浮かべながらゆっくり過ごすのもいいかもしれない。あんなものどこに売っているのだろう。帰りに近所のコンビニへ寄って、ひとまずはなにかそれらしいものでも――。

意識はだんだんと沈んでいく。

一時間もないドライブだが、久しぶりにぐっすりねむれるような気がした。

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